第33話 飛鳥の食事

「今日の晩御飯は、何にしようかな~」


 夕方になると、いつもその事で悩みます。冷蔵庫を開けて、食材を確認して、調理できそうな料理を考えます。考えるのが面倒くさい時は、料理本を開いたり、スマホで検索をかけたりして調理できそうな料理を探します。でもこれって、現代だからこその贅沢な悩みなんです。


 以前にも紹介したことがありますが、冷蔵技術が確立したのは200年ほど前です。冷やすことで長期的に食材を保存できるようになりました。これにより食材の長距離輸送が可能になります。僕は大阪で生活をしていますが、冷蔵庫を開けると、北海道産の玉ネギ、福岡産のあまおう苺、中国産の調味料、カナダ産の豚肉、オランダ産の冷凍フライドポテト等が入っています。まさに食材の万国博覧会。日本にいながら、世界中の食材を手に入れることが出来るようになりました。このような食に関するインフラが整備されていったのは戦後からです。現代ではカレーにハンバーグそれに餃子等、世界中の様々な料理を家庭で調理して楽しむことが出来るようになりました。食に対する意味が、生きるためから楽しむために変質したのです。今晩の献立に迷うのは、冷蔵庫が原因だったのです。でも、昔は献立に迷うようなことはありませんでした。


 日本の古くからの家庭料理は、一汁一菜になります。ご飯と漬物とお味噌汁、それから何かしらの一品。何かしらの一品は野菜の煮物か焼き魚。ただ、こうしたおかずはあれば贅沢な方だったようです。質素に見えますが、この一汁一菜は意外とバランスが良い食事でした。玄米は、炭水化物だけでなくミネラルやビタミンそれに脂質が含まれています。みそ汁は大豆を発酵させた味噌を使用するので、タンパク質と様々なビタミンが含まれています。ですから、ご飯とみそ汁があれば、三大栄養素である炭水化物、脂質、タンパク質と様々なミネラルを摂取することが出来ます。また、繊維質も見逃せません。毎日、同じ食事で変化はありませんが、栄養学的には健康的な食品だったのです。


 では、僕が勉強している飛鳥時代の食事はどうだったのでしょうか。ネットで調べてみました。飛鳥時代でも、庶民の食事は一汁一菜とあります。内容は、玄米とみそ汁と青菜を茹でたものと紹介されていました。ただ、この記述は少し訂正が必要です。この時代は、味噌が無かったからです。


 日本で味噌の原型が生まれたのは奈良時代でした。文献に未醤(みさう)との記述が残っていて、この未醤が味噌になったようです。未醤とは、まだ豆の粒が残っている醤(ひしお)という意味になります。醤は 麹と食塩を利用した発酵食品でして、豆だけでなく肉や魚を長期保存することが出来ました。琵琶湖の名産品に鮒ずしがありますが、あのナレズシは醤です。他にも、秋田のショッツルや烏賊の塩辛も醤の仲間になります。


 この未醤は、現代のような調味料ではなく保存食として利用されました。おかずとして、豆をそのまま食べるのです。そもそも味噌汁を調理するためには、味噌をペースト状にする必要があります。その為には、道具としてすり鉢を用意しないといけない。すり鉢の使用が日本で本格的になるのは抹茶文化が広がった鎌倉時代からになります。つまり、飛鳥時代は、すり鉢がないうえに、そもそも味噌がまだ存在していませんでした。だから、味噌汁を調理することは出来なかったのです。


 また、当時の庶民は竪穴式住居で生活をしています。現代のような便利な台所はありません。だから、ご飯と汁物を同時に調理するのは面倒だったでしょう。だから、お米はお粥にして食べていたのではないでしょうか。米に水を加えて柔らかく炊く。これを姫飯(ひめいい)といいました。現代でも1月7日に七草粥を食べる行事が残っていますが、飛鳥時代でも姫飯に青菜を入れたりしたでしょう。味付けはシンプルに塩。もしくは、醤を使ってより美味しく調理していたかもしれません。


 お米の調理方法はこれだけではありません。王族や貴族の饗宴の席では、強飯(こわいい)が用意されました。強飯は蒸した米のことで、現代では御強(おこわ)と呼んでいます。強飯はそのままでも食されますが、杵で突くと餅になり、麹で発酵させると酒になりました。ご飯と餅と酒は、神に供える大切な供物になります。この間、奈良の平城京にある資料館に立ち寄りました。そこで宮廷で行われる饗宴の献立について紹介されていました。飛鳥時代からは少し後になりますが、その献立をご紹介します。


 鴨とセリの汁

 ハスの実入りご飯

 鮭のナマス

 鹿肉の塩辛

 生牡蠣

 干し蛸

 焼き海老

 タケノコとフキの炊き合わせ

 焼きアワビ

 蘇

 漬物

 干し柿


 この頃の調理は、保存食は別にして、調味料で味付けをすることはなかったようです。シンプルに焼いたもの、蒸したものを食べやすいように包丁で加工するだけでした。食事の時に、小皿に盛られた好みの調味料に付けて食べたそうです。調味料としては、塩、醤、酢、酒がありました。そもそも調理の過程で味付けをするのは、かなり高度な技術です。あったにしても、宮廷の中だけで秘匿される門外不出の技だったでしょう。


 日本において調理技術が発展していったのは室町時代になってからです。この頃になると昆布や鰹ぶしが京都に集まり、世界でも珍しい「出汁」という調理概念が生まれました。この時代に日本料理に必要な調味料は、醤油と味噌、酒と酢が揃っています。あとは砂糖だけ。日本で本格的に砂糖の製造が始まるのは江戸時代になってからで、日本料理の基礎も江戸時代に確立されていきます。


 先程の献立に「蘇」がありました。どのような食べ物かご存じでしょうか。乳を焦がさないように煮詰めていって固形化したものになります。チーズに似た食べ物だそうで、遣隋使で活躍した小野妹子が大好きだったという逸話があったりします。醍醐味という言葉があります。意味を調べると「深い味わい。本当の楽しさ」と説明されていますが、この言葉は仏教用語になります。乳を精製していく過程で「乳(にゅう)・酪(らく)・生酥(しょうそ)・塾酥(じゅくそ)・醍醐(だいご)」と変化していくそうで、最後の醍醐味が仏の知恵に相当するという例え話から生まれた言葉になります。この醍醐味が、実は「蘇」らしいのです。


 飛鳥時代において、乳を使った料理は他にもありました。それが飛鳥鍋です。伝承では、唐から来た渡来人の僧侶が、寒さをしのぐためにヤギの乳で鍋料理を作ったのが始まりだとネットでは紹介されていました。飛鳥時代には、まだヤギは日本にやって来ていません。多分、牛か馬の乳でしょう。具材には野菜と一緒に肉を入れたと思いますが、たぶん鹿や猪それに鴨が定番だったのではないでしょうか。古代の遺跡からは、鹿や猪の骨が出土されており好んで食べられていたようです。現代では牛や馬を食べますが、この時代は貴重な家畜なので食べません。牛は農耕で活躍しますし、馬は現代でいえば車に該当するからです。


 飛鳥時代から乳が好んで食されていたことに驚きましたが、当時としては貴重な食材だったと思われます。先程、蘇を紹介しましたが、大量の乳を煮込んでも、ちょっとしか出来上がりません。醍醐味と例えられるくらいに尊ばれていた味です。庶民が口にすることは無かったでしょう。この蘇の漢字、良く見ると蘇我氏の「蘇」なんです。何か関係があるのでは……と思ってしまいました。


 物部氏が軍事関係を掌握していたことに対して、蘇我氏は財政関係を担っていたと一般的には理解されています。物部氏は弓矢の製造を担った連を従えていましたし、蘇我氏は大王の屯倉を管理していたからです。しかし、特徴的な違いは他にもありました。物部氏は造船に関する品部を抱えていましたし、蘇我氏は馬の管理をしていたようなのです。つまり、海上輸送と陸上輸送という違いです。農耕の為の牛、輸送としての馬、そうした家畜を蘇我氏が管理していたということは、乳の入手も蘇我氏が担っていたのではないでしょか。また、蘇我の一族は大王を中心にして饗宴を行う時、その運営全般を任されていたようなのです。その席に、醍醐味である「蘇」も献上されていたでしょう。


 蘇我氏の出どころは、大和の曾我川周辺という説があります。それが本当なら、漢字は曾我氏でよいわけです。なのに「蘇我」という漢字が当てられました。蘇我の一族は、朝鮮半島の百済と縁が深く仏教を信奉しています。当然、経文を読んだりするわけですから漢字の意味を理解していたはずです。その蘇我一族が、「我は蘇である」という意味の名前を使用しているのです。蘇は大王に献上する貴重な食物であり、醍醐味でもあるのです。もしかすると、名前にそうした意味を持たせたのかもしれません。深読みしすぎかもしれませんが……。

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