第32話 統治者の仕事

 前回、崇神天皇の話をさせて頂きました。疫病が蔓延して民衆が次々と死に絶えていくなか、崇神は現状を打開するための決断に迫られます。彼が下した決断は、ご神体である八咫鏡を離宮させて、大物主を迎え入れることでした。その是非について、僕が判断することは出来ません。しかし、そうした英断によって、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は、不遇な環境に置かれることになりました。伝承では、大物主の妻になったのに怒らせてしまい、更には陰部に箸を刺して死んでしまうのです。そうした状況を整理して考えるに、僕は人身御供と表現しました。そんなことを考えつつ、僕は昔の体験を思い出しました。


 今から20年ほど前の事ですが、大阪の市内にフルーツカフェをオープンしたことがあります。フルーツキーマカレーが大ヒットして繁盛店になりました。テレビや雑誌の取材が入れ替わりにやって来るので、相乗効果的に客が増えます。北海道や沖縄からも、お客様が来店されました。終いには、店前に客が並んでいる様子を取材したいというテレビ番組も現れます。当時大人気だったモーニング娘の一人がやって来たこともありました。


 でも考えてもみてください。席数15席の小さな店にどんなにお客が押し寄せてきても、対応しきれるわけがありません。店の中は混乱状態です。それでも、当時の僕の店を支えてくれたスタッフには力がありました。誇りをもって仕事に励んでくれます。上手くいっている時は、少々のいざこざがあったとしても乗り越えていけるものです。


 僕には、右腕になる優秀な女性スタッフがいました。オープン当初に面接に来て、ずっと僕を支えてくれたスタッフです。彼女は、キッチンを任していた男性スタッフから恋愛感情を持たれ言い寄られていました。でも、彼女は結婚をしています。狭い空間でのそうした問題を見逃すことは出来ません。僕は、頼りにしていた男性スタッフの首を切りました。


 一年が経ち、古参のメンバーは僕と彼女だけになります。新しいスタッフが沢山増えました。二年目の夏は、本当に戦争でした。あまりの忙しさにスタッフが疲弊していくのです。そうした中、一つの問題から発展して、スタッフ間に対立構造が生まれました。僕は、この問題を処理することが出来なかった。皆をなだめすかして、延命治療に努めます。これがいけなかった。男性スタッフが起こした問題では決断が出来たのに、今回は出来なかった。ズルズルと時間だけを引き伸ばした結果、しびれを切らしたスタッフたち全員が辞めることになります。僕は、その結果をただ受け入れるしかなかった。


 リーダーは、その権威を振りかざして何でも出来るわけではありません。立場的には上であっても、そこはお互いの信頼が必要です。また、様々な問題を対処するとき、全員を納得させるような結論はありません。右を選ぶのか左を選ぶのか、はたまたそれ以外なのか道を示す必要があります。リーダーの最大の仕事って、この決断にかかっていると言っても過言ではありません。この決断を見誤れば、滅びるしかない。


 僕は、崇神天皇ではないので、当時の状況は分かりません。分かりませんが、疫病によって民衆の半数が死んでいく現実の中で、決断を迫られたのは間違いがない。その決断の一つに、倭迹迹日百襲姫命を犠牲にして大物主を迎え入れるという決断があったのだと思います。そんなこんなで、日本最古の大神神社(おおみわじんじゃ)に行きたくなりました。崇神天皇が決断して創建した神社になります。


 平日だというのに、参拝者はぼちぼちとおられました。ただ、海外の方はおられません。インバウンドの影響で、有名な観光地はどこもごった返しているのですが、そうした意味ではとても静かで良かった。大神神社は、ご神体が三輪山になります。聖地なので、昔は三輪山に入山することは出来ませんでした。現在は、お参りを目的とした場合、入山が許可されています。


 標高は、467メートル。大きな山ではありませんが、綺麗な円錐状の山で、傾斜はけっこう急になります。山道は綺麗に清められていて、静謐な空気に包まれていました。辺りでは常に鳥が鳴いているのですが、騒がしくありません。傾斜は階段が用意されているので、登りやすくはなっています。なっていましたが、とてもキツイ。気温は低いのに汗をかきました。上着を脱ぎ、袖をまくって登ります。性格なのか、僕はゆっくりと登れない。参拝者をどんどんと追い抜いて登りました。


 大神神社を後にした僕は、今度は明日香村に向かいます。伝承に従って、継体天皇の磐余玉穂宮跡、用明天皇の磐余池辺雙槻宮跡、推古天皇の豊浦宮跡と小墾田宮跡に足を運びました。見事に田んぼや畑です。何もない。豊浦宮跡だけは、その跡地に現在は向原寺が建っています。境内には黄色いイチョウの葉が敷き詰められていて、とても美しかった。


 この向原寺は、仏教公伝のおり日本にやって来た仏像を安置した「向原の家」が起源になっています。更には、日本最古の尼寺である豊浦寺もここだとされています。日本で最初の出家者であり尼僧は、聖徳太子と同い年の善信尼になります。彼女はここで仏教の研鑽をしたのでしょう。彼女は物語の中で大きな役割を持つヒロインの一角なので、感慨深く見学をしました。


 この向原寺の南側に、甘樫丘(あまかしのおか)があります。標高140メートルの丘ですが、この丘の周辺には重要な遺跡が沢山あります。先程紹介した豊浦宮と小墾田宮がありましたし、蘇我入鹿が首を切られた飛鳥宮もあります。そうした皇居だけではなく、日本最初の寺である飛鳥寺もあります。この辺りは、蘇我一族の支配地域だったので、そうした蘇我に関係する遺構が沢山あるのです。


 甘樫丘に登ってみました。三輪山に比べると低いのですが、案外と傾斜があります。綺麗に整備されていて公園になっていました。丘の上には展望台があります。正午を回っていたので、ここでお弁当を食べることにしました。丘の上は風がきつく、かなり寒い。ホットのお茶を飲みつつお弁当を食べたのですが、その見晴らしは最高でした。


 甘樫丘の展望台から眺めると、左から、畝傍山、耳成山、天野香久山の三山が見えます。盆地という海の中に、ポツンポツンと島が浮いているように見えました。冬場に霧が降りたら、さぞかし見ごたえのある風景になるでしょう。見てみたい。


 更に、視野を広げると、二上山や生駒山脈が稜線を描いていて、奈良盆地を一望することができます。推古天皇は、この甘樫丘によく登ったそうです。この丘の上から、国の運営について考えていたのかもしれません。当時は、中国が統一されたことで隋が誕生し、朝鮮半島は国同士が対立していて緊張感に包まれていました。国際的に不安定な世情に会って、判断を誤ると国が転覆してしまいます。大和国のリーダーである推古天皇は、その重圧を独り感じていたでしょう。そんな彼女に、蘇我馬子や聖徳大使はどのように関係していたのでしょか。そんなことを甘樫丘に立ちながら、僕もぼんやりと考えていました。

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