第17話 寄り合い

 今年から、地域の自治会の役を務めることになりました。役職は庶務になります。自治会長をはじめとする役員のお歴々は70歳を過ぎており80歳になられる方もおられます。僕が庶務に選出されたの理由の一つは、パソコンが扱えることでした。会合の資料や回覧板の文面を、パソコンで制作します。作業自体は、過去から使用されてきたデータを引き継いだのでさほど難しくはありません。それよりも、新しい人間関係の構築に少し戸惑っています。僕はこの大阪府摂津市の生まれではありません。結婚を機に、嫁さんが生まれたこの地での生活を本格的に始めました。もうかれこれ人生の半分以上をこの地域で過ごしてきたわけですが、地元の人とのお付き合いは嫁さんに任せっきりでした。50歳を超えてからの、新しいスタートです。


 この地域は、昔は田んぼだらけで比較的大きな村として栄えていました。石山本願寺との対立から織田信長が殺戮を行った歴史もあります。現在ではわずかに残った古い街並みを囲うようにして、一戸建ての住宅や大きなマンションがひしめき合っています。田んぼがあった面影はもうありません。そうした街ですが古くからの慣習に従い、小さいながらも夏祭りや秋祭り、それに年末には餅つきも行われます。


 10月に行われる秋祭りでは、僕は神輿を担ぐことになっています。これ、けっこう大変なんです。コロナになる前に一度担がせてもらったのですが、なにせ重い。僕は身長が180センチあるので、神輿を担ぐ皆さんと身長が合いません。僕の肩にどっしりと神輿が食い込むのです。神輿の上では小さな子供が4人座っていて、節まわしに合わせて太鼓を叩きます。煌びやかな衣装を着せられていてとても可愛いのですが、神輿を担いでいる僕はそれを楽しむ余裕がありません。情けないくらいに、どっと疲れてしまった記憶があります。ただ、当時の写真を見返してみると、幼かった息子たちが太鼓を叩いています。とても可愛い。思い出しただけで、ちょっと涙が出そうになります。


 そうした体験があるから、自治会の役を頼まれた時、恩返しというほど大それた思いではないのですが素直に受けることにしました。ただ、僕が生活するこの地域もご多分に漏れず後継者がいません。少子高齢化という波は、自治会だけでなく会社組織や政治団体、NPO法人といった様々な組織活動を停滞させました。更には、コロナという猛威によって活動の停止を余儀なくされた組織もあるでしょう。僕の地域の自治会は何とか存続ができていますが、小学校区で行われてきた自治会対抗の運動会は今年は開催されないことになりました。区内のいくつもの自治会をまとめていた組織が機能しなくなったからです。


 近年では、自治会だけでなく、子供会やPTAといった地域をサポートしてきた組織も維持が難しくなり消滅しています。直接的な原因は少子高齢化ですが、それだけではありません。まず、昔と違って家庭環境が大きく変わりました。サザエさんに代表されるような昭和の時代は、父親は仕事に励み、母親は家事に専念する。家にはお爺ちゃんやお婆ちゃんがいて――確執もあったでしょうが――家族のサポートをしたり、地域とのパイプ役になっていた。家族にもそうした役割分担みたいなものがありました。ところが近年では、夫婦共働きが普通になり、シングルマザーやシングルファーザーも見受けられます。これでは地域的な組織に参画する余裕がありません。


 他にも、マインド的な変化があります。組織や会社に忠誠を尽くす全体主義が鳴りを潜め、個人主義が強くなりました。Z世代といわれる新世代は、その傾向が特に顕著なのではないでしょうか。これは、社会が成熟してきた結果だと考えます。昔と違って現代では、僕たちの生活をサポートする様々なインフラが整備されました。ちょっと歩けば24時間営業のコンビニがあり、飲食店をはじめ様々なサービスが溢れるほどにあります。インターネットは整備されていて、自宅で買い物ができるだけでなく、個人の趣味をいつでも楽しむことが出来ます。社会福祉もそれなりに充実しているので、贅沢をしなければ生きていくことは可能です。そうした現代の日本において、他人の協力が必要な機会が減ってきました。大体のことがお金があれば解決出来てしまいます。つまり、一人でも不自由なく生きていけるのです。そうした成熟した社会的背景が、個人主義を強くしてしまうのは自然な流れなのでしょう。ところが昔は違いました。地域で協力しなければ生きていくことが出来なかったからです。


 人類の歴史の大きな転換の一つに農耕文化がありました。狩猟採取では少数のコミュニティ―しか維持できませんが、農耕文化は国という単位で多くの人々に食量を分配することが出来ます。ただ、その作業は多くの人出を要しました。多くの人々を農作業に従事させるというのは、少し想像を巡らしただけでも大変なことに思えます。農耕文化の初期では、まだ文字もなかったでしょう。文字がないということは、論理的な思考はまだ確立ができていなかった。そうした世界において、多くの人々を農作業に従事させる方法とは何だったのでしょうか。それは、単純な力による支配でした。


 農耕文化の発展は、人間社会に身分制度を作りました。王様を頂点とするヒエラルキー構造です。最下層には奴隷がいて、農作業をはじめとする様々な労働を強制的に従事させるのです。この様な力による統治は内政だけではありません。外にも向けられました。戦争です。中国の歴史的資料である魏志倭人伝には、倭国大乱の記述があります。


 ――その国ではもともと男を王としていたが、倭国で争乱が起こり攻め合うこと数年、諸国が協議をして共に一人の女王を立てた。その名を卑弥呼という。


 農耕文化が広まった弥生時代は、戦乱の時代でもありました。そうした戦乱を鎮めまとめあげたのが卑弥呼だとされています。実際、弥生時代から古墳時代に移行すると、発掘される遺跡から戦争の形跡がなくなります。そもそも戦争をしていたら古墳なんて大事業を行うことが出来ません。戦争に向けられていたエネルギーが古墳の建設に向けられたのは、なぜなのでしょうか。魏志倭人伝には続きがあります。


 ――卑弥呼は鬼道に仕え、よく大衆を惑わし、その姿を見せなかった。生涯夫をもたず、政治は弟の補佐によって行なわれた。


 鬼道とは、シャーマニズム的な原始宗教だったと考えられます。卑弥呼の鬼道と日本の神道がどのように結びつくのかは分かりませんが、共に神を敬っていたと考えられます。日本は八百万の神の国といわれます。それだけ多くの神が創造された背景には、同じ神を信仰するコミュニティーの存在があったと考えます。初期の大和王権は、三輪山を敬う山岳信仰がありました。また、多くの神社には大きな神木があったりします。古代において、大きな木というのは人々が集まる目印になりました。木の下では、市場が開かれ、祭りが行われます。そうした大きな木を神木として崇め神社が建設されます。当時の人々にとって神は、自然と共生していくための依り代であり、生活の一部だったのです。そのような身近な神とは一線を画した存在として、大和王権は新たな神を創設しました。それが古事記に始まる創世神話です。


 古事記の記述によれば、神がこの世界を創造したとされます。そうした創世神話は世界各地に残されており、人類史においてかなり一般的な傾向です。世界を創造した神が存在するのかどうかはここでは議論しませんが、神の存在を提示して民衆を治めるというシステムは、国を治めるのにかなり有効でした。日本においては、戦乱に明け暮れた弥生時代を終焉させる力がありました。


 以前に話をしましたが、日本各地に5000基もの前方後円墳が建造されました。円墳や方墳など古墳にも色々な種類があるのですが、こと前方後円墳に限っては大和王権の影響力下で建造されたと考えられています。古墳の建造は一大事業です。大林組が、世界最大の仁徳天皇陵を建造した場合の工程表を作りました。毎日、6000人からの人々が建設にかかわったとして16年余りの時間が必要だそうです。


 ――なぜ、そんなにも大きな墓を作ったのか?


 そうした素朴な疑問が浮かびますが、それよりも古墳を作ったことによるメリットを考えてみたいと思います。まず社会的な背景として、それだけの一大事業が行えたということは、人的にも食料的にもかなりの余剰があったということです。大和王権下では、土地も人間も神様のものでした。各地から収穫物が献上されていたでしょう。大和王権は、想像以上に裕福だったと考えられます。


 古墳の建造には多くの人々が関わりました。それでも、6000人という作業員を、ひとつの地域から集めるのは難しい。農作業に従事する人は残しておく必要があるからです。大和王権が影響している広い範囲から人々を集めたのではないでしょうか。しかも、その建設が16年余り続くのです。街が出来、自然と人々の交流がはじまったはずです。人が動き物が動くと、経済が発展していきます。現代の政治においても、景気を刺激する為に公共事業を行います。それと同じです。古墳建設の事業は、富の配分を効率的に行ったと考えます。


 古墳には、祭祀の為に多くの埴輪や土器が用意されました。高槻市にある今城塚古墳の近くには、埴輪工房があり登り窯が建設されています。それまでの土器の製作は野焼きだったので、これは当時の最先端の技術になります。地方の豪族にすれば、古墳の建造に関わることでそうした新しい技術を手に入れることができました。これは大きなメリットになります。他にも、土木技術や測量技術、製鉄技術や作業道具の発展もあったでしょう。大和王権は、そうした大陸由来の様々な技術をどこよりも活用する術を持っていました。


 大和王権にとって古墳事業は、更なる宗教的権威の向上というメリットもあります。創世神話で語られた神の物語だけでなく、山のような威容を誇る古墳の建造は説得力がありました。ましてや民衆の立場から見ると、その建設に自分が関わるということそれ自体が、神に対する信仰を高めていったと思われます。箸墓古墳から始まった前方後円墳の建造は、時代と共に巨大になっていきました。この事実は、それだけ宗教的な権威が強まっていったことの証だと考えます。


 そのような大和王権での政治スタイルは、かなり民主的でした。神の末裔である大王には当然権威がありましたが、政治的な判断は大王の独断で行われません。大和王権は、多くの豪族を従える連合政権だったからです。各豪族には様々な特徴がありました。国庫を司る蘇我一族や軍事権を担う物部一族、他にも祭祀に関係する豪族や弓を専門的に制作する豪族、そうした豪族から代表が選ばれて、話し合いで国の運営が行われます。大王が崩御されると次期大王が選出されますが、そうした問題ですら豪族たちの協議によって決められました。蘇我氏は政治的な権力を強めていきますが、それは大王の伯父という立場以前に、民主的な政治が行われていたからこそ可能だったと考えます。そのような政治スタイルを、言語化したのが聖徳太子でした。十七条憲法の冒頭に記されています。「和を持って貴し」です。


 ここで、民俗学者の宮本常一氏から「寄りあい」について紹介したいと思います。舞台は長崎県の対馬にある小さな村です。宮本はその村に古くから伝えられている帳箱を研究しに来ていました。帳箱とは、その村の帳簿や協議で決められた書付を保管する箱です。鍵が付いており金庫のような役割の箱になります。江戸時代からの古文書が納められているのですが、外部に見せる様な内容ではありません。研究者の宮本は、その古文書をお借りして研究したい。しかし、簡単には見せてくれません。宮本の要求は、村の寄り合いで決められることになりました。


 寄り合いとは、村の協議会です。村には地域組があり、それぞれの地域から中心者が集まります。板の間で二十人くらいが車座になって話し合うのですが、この話し合いがかなりゆっくりとしているのです。村の運営に関することを取り決めるわけですが、議題の内容によっては二日でも三日でも協議が続けられるそうです。今回は、宮本の帳簿を貸してくれとの要求でした。議長が議題をあげます。


「対馬の調査に来た先生が、村のことを調べるためにやって来て、帳箱にある古い証文が是非とも必要だというのだが、貸してもよいだろうか」


 議長の言葉を受けて、中心者の一人が声をあげます。


「今まで貸し出したことは一度もないし、村の大事な証拠資料だから、みんなでよく話し合おう」


 昔のことを良く知っている老人が、声をあげました。


「昔この村の一番の旧家であり身分も高い郷士がなくなった時、幼い子供が後を継いだ。するとその親戚筋にあたる老人がやって来て旧家に伝わる御判物を見せてくれという。ところが貸したはいいが返してくれない。やがて、旧家を乗っ取ってしまったということだ」


 この話題に対して、関連のある似たような事例が次々と述べられていきました。ところが、しだいに話が脱線してしまうのです。結論が出ないまま他の議題について話し合いが始まってしまいました。しばらくして、帳箱の議題に戻ってきます。


「村の帳箱の中に古い書きつけがあるということは聞いていたが、今回初めて見た。この書きつけがあるということで良いことをしたという話も聞かない。そういうものを他人に見せて役に立つのであれば見せてはどうだろう」


 すると他の誰かが似たような事例を述べ始めました。ところが今回も、だんだんと世間話になってしいまた脱線してしまうのです。その様子を見ながら宮本は、これでは容易に結論が出ないことを理解しました。話し合いが混沌とする中、老人の一人が声をあげます。


「見ればこの人は悪い人でもなさそうだし、話を決めようじゃないか」


 皆の視線が、宮本に集まりました。宮本は、帳箱の中に書きつけに、昔クジラを捕っていたころの話があったことを紹介します。クジラが取れると、若い女たちが美しい着物を着て化粧もして、その様子を見に行ったそうです。その書付けには、若い女がそうした行動はするなと注意書きが為されていました。その話を聞くと、クジラ漁の昔話に花が咲いてしまいました。かなりのんびりとした協議会です。これでは二日あっても三日あっても結論が出ません。そんな折、村の長老が口を開きました。


「どうであろう。折角だから貸してあげれば……」


 皆の視線が、長老に向けられます。


「あんたがそう言われるのであれば、もう誰も異存はなかろう……」


 宮本は、その場で借用書を書きました。議長が皆に呼びかけます。


「これでようございますか?」


 皆が声をあげました。


「はァ結構でございます」


 宮本は、無事にこの村の古文書を受け取ることが出来ました。しかし、協議は他の議題に移りさらに続けられたそうです。一見すると、かなり効率性の悪い協議に感じられます。しかし、この寄り合いの最大の肝は、昔話を織り交ぜながら納得がいくまで話し合うことにありました。集まった全員が納得をして結論が出ると、それはキチンと守らなければならなかったのです。


 古墳時代の昔から日本という国は、この寄り合いのようなスタイルで意思決定を行ってきました。その伝統が、現代においても自治会という形で継承されています。しかし、このスタイルがこれからも継続できるのかは分かりません。それほどに、現代の変化が大きすぎるからです。自治会の役員として、まずは秋祭りを乗り切りたいと思います。

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