第16話 歌垣

 僕は「小説家になろう」や「ノベルアップ+」に、小説やエッセイを投稿しています。そもそも僕の稚拙な文章を投稿し始めたのは、コロナが切っ掛けでした。僕は若い頃から、小説を書きたいな~という願望がありました。勢いに任せて書き始めてみるのですが、前半の出だしを書いただけで投げ出してしまいます。そんなことを何度も繰り返してきました。いい加減そうした自分に嫌気がさし、コロナ過に一念発起します。


 ――どんなに下手くそでも、最後まで書き上げよう!


 僕の愛車である50ccのスーパーカブを題材にして、自伝的な小説を四苦八苦しながら書き上げてみました。この最後まで書き上げたという事実が、僕の大きな自信になります。それ以来、定期的に文章を書く習慣が身に付きました。今年で三年目になり、ネット上の小説投稿サイトに6本の小説と様々な内容のエッセイを発表しています。総文字数は、120万文字。50歳にして、夢中になれる趣味が生まれました。


 ところで、50歳という年齢から思い出した詩があります。桶狭間の戦いという一世一代の大博打に出た織田信長が、その前夜に舞ったとされる詩です。源平合戦を題材とした「敦盛」の一節になります。


 人間五十年 化天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり

 一度生を享け 滅せぬもののあるべきか


 有名な詩です。この有名な詩のせいで、中世に生きてきた日本人の平均寿命は50年くらいだと考えられてきました。しかし、それは違います。本来の意味は次のようになります。人間の50年は天界の1日でしかない。それほどに儚いものである。この世に生を受けたものは、必ず滅んでいくだ。


 格好良いですね。短い言葉ながら、人生の真理みたいなものが感じられます。それに、リズムが良い。歯切れが良い。テーマが良い。無駄な言葉を削ぎ落して、美しさが際立っています。それに対して僕の文章は、言葉を重ねて重ねて重ねまくっているのでかなり重い。超重量級です。


 日本には古来から和歌がありました。五七五七七調の詩になります。そうした詩を集めたものとして万葉集が有名です。万葉集の名前からして、かなりセンスが良い。数えきれない葉っぱを集めた……ですよ。葉っぱは散りゆくものですし、なにかしら儚さを感じます。奈良時代の末期に万葉集は誕生しました。昨年と一昨年と、奈良は明日香にある万葉文化館に行ったことがあります。そこは、そうした万葉集に因んだ博物館でした。


 その万葉文化館で、「歌垣」の存在を知りました。ご存じですか、歌垣。万葉文化館の説明では、男女の出会いの場的なイメージで紹介されていました。立体的な人形も制作されていて、真昼間の野原で若い男女が集まり、自作の和歌を発表しているイメージです。健康的でとても明るい。


 「歌垣」の存在を知ってから、東南アジアでも歌垣があることを知りました。大阪の万博跡地に民族博物館があるのですが、アジアでの歌垣の様子が映像で残されています。映像では、若い男女が喉を震わせて歌を披露していました。お互いに、歌で相手に呼びかけるのです。昔は、映画もショッピングモールもありません。「歌」が娯楽だったんだな~と漠然と感じました。


 最近、民俗学博士の宮本常一氏の著作を読んでいます。岩波文庫から出版されている「忘れられた日本人」です。ジブリの宮崎駿が愛読していたとかで有名な本です。その中で、長崎県の対馬で体験した歌垣の内容が紹介されていました。宮本博士の特徴は、フィールドワークを基にした実体験をベースにした考察です。1200件の民家に宿泊して、古い日本の風習を研究されたそうです。


 長崎県の対馬で現地の風習を研究していたおり、宮本は村から村へ移動することがありました。その移動の際に、同じ村に行く商人と出合います。彼らは三人組で、馬を連れていました。その馬に宮本は自分の荷物も載せてもらうことになったのです。ところが、商人たちの足が速い。宮本は、置いてけぼりをくってしまいました。村までの道程は、深い森を抜けなければなりません。太陽は出ているというのに森の中はとても暗く、宮本は道に迷いそうになってしまいました。荷物には米が入っており、荷物を回収しなければ食事もままならない。不安に駆られながらも足を進めると、その先で商人たちが待っていてくれました。


「見通しも聞かぬ山の中では、歩くことも容易ではない。迷いそうだった」


 と宮本が言葉を漏らすと、七十近い老人が返します。


「そういう時は歌を歌うのだよ。行方不明になりそうでも、歌を歌っていれば誰かが聞きつけてくれる」


 民謡にそのような効用があることを知った宮本は、その老人に歌を所望します。老人は馬上で手綱を持ちながら、宮本に追分節を披露しました。不安定な馬上なのに、老人の歌は味わいがあり洗礼されています。声が実によく通っていました。宮本がほれぼれと聞いていると、商人の一人が宮本に呟きます。


「ああ、このじいさなんざァ声が良いので、ずいぶんとよい楽しみをしたもんだ」


 対馬には島の中に霊験あらかたな観音さまが6か所あり、それらの観音様を巡礼する風習がありました。巡礼者の一群が民家に泊まるとき、その家に村の若い衆が集まります。巡礼者をもてなすための宴がはじまるのでした。宴では、酒が振舞われます。酒に酔い興が乗ってくると、その場で歌が披露されました。そう、歌垣です。現代のような娯楽がない世界では、歌こそが最高の娯楽だったのです。歌垣は、節まわしのよさや文句のうまさを披露し、その優劣を競い合いました。盛り上がっていくと、歌の文句が段々と卑猥になっていきます。終いには、歌の勝敗に体を賭ける様になりました。声が良い老人は、歌で負けたことがなかったのです。これまでに、巡礼に来た美しい女と次々と契りを結んできました。よい楽しみとは、そういう意味だったのです。


 万葉文化館の紹介ではイメージし難かったのですが、歌垣は単なる和歌の発表会ではありませんでした。具体的に男女間の性といものが内在した宴だったのです。和歌が五七五七七調なのは、基本となる節まわしがあったからだと推察されます。自作の和歌を、そのリズムに乗せて歌う。その詩には求愛の情が含まれていました。奈良時代に和歌が民衆にまで広く親しまれたのも、歌垣を抜きにしては語れない。現代に置き換えれば、バブル期のカラオケブームみたいなものだったと推察されます。――なんだか、楚々とした和歌のイメージを崩してしまって申し訳ないのですが。


 この歌垣にはルーツがあります。古事記には、天岩戸に隠れた天照大神(アマテラス)の関心を引くために宴が催された逸話があります。その宴で、乳房をさらけ出して踊るのが天宇受賣命(アメノウズメ)です。彼女は芸能の祖とされるのですが、その系譜を受け継いでいったのが巫女でした。神事において重要な催しに宴があります。宴は、一年を通じて節目節目で行われました。特に重要な宴は、農耕に関係するものです。農作業を労うために、酒もふるまわれました。その宴の席で、巫女が歌と舞を披露するのです。


 巫女の姿は神の権威を高める効果もありましたが、それ以上に娯楽だったのです。民衆の前で、歌を披露する姿は、現代でいうところの歌手みたいなものだったのではないでしょうか。そうしたモデルケースが存在していたから、大衆にも和歌が広まっていったと推察します。僕は、当時の人々が生きてきた姿をリアルに感じたい。そんな事を、ボンヤリと想像しています。そうした巫女が、芸能だけでなく遊女をも生み出していくのですが、それはまた別の話になります。

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