第15話 今城塚の出土品から

 インターネットのインテリジェントな機能って、大体がウザイですよね。この間、お客様とシャインマスカットの話をしていた時に、スマホで検索を掛けたことがあります。それ以来僕のスマホは、シャインマスカットのお得情報を頻繁に表示する様になりました。僕は仕事柄、今日も3パレット分のシャインマスカットを売買しています。だから、そんなお得情報は僕には全く必要ありません。それに、価格を見るとかなりお高い。僕にとっては全くお得でなかったりします。


 ――もっと賢くなれよ。


 そんな風に思ったりもするのですが、この間ファインプレイがありました。僕のスマホに、考古学に関するセミナーの紹介が表示されたのです。大阪の高槻市に、真の継体天皇の陵墓とされる前方後円墳があります。今城塚古墳というのですが、史跡公園としてとても綺麗に整備されていて無料の博物館も併設されています。その博物館で、今城塚で出土された土器に関するセミナーがあるとの情報でした。僕にとっては、かなりストライクな内容です。早速行ってきました。


 講師は、京都橘大学で准教授をされている中久保辰夫先生です。古墳の発掘といえば埴輪や鉄剣など派手なものをイメージしがちですが、先生が今回のセミナーで題材とされる出土品は、土師器や須恵器といった土器でした。

「地味な内容ですが……」

 開口一番に先生が呟かれたのですが、僕にはそのことが返って好印象でした。真摯な学者だなって思います。


 まず、土師器(はじき)と須恵器(すえき)は、どちらも土器になります。土を器に成形して、焼くことによって固めます。土器には用途によって様々な種類がありまして、小さめの甕は調理用になります。現代でいうところの鍋の役割ですね。反対に大きな甕は、貯蔵用に使われたりします。飲み水や穀物などを入れておいたのでしょう。変わった土器として高杯型器台というものがあります。お皿に一本足が付いたような形状で、イメージとしてはダンベルをヒョイッと立てた様な感じです。高杯型は、主に儀礼用に使用されていたと考えられています。


 それらの土器に土師器と須恵器があると言いましたが、違いは焼成するときの温度になります。土師器は藁を積んで野焼きにするのですが、その時の焼成温度は800度くらいです。これは縄文時代から続く伝統的な作り方で、酸化により赤茶けた色合いに仕上がります。埴輪や火焔式土器など一般的にイメージされる多くの土器は、これと同じ作り方になります。


 対して須恵器は、当時の先端技術になります。朝鮮半島の南にある伽耶という地域から伝来された技術で、登り窯という専用の施設を建造する必要がありました。焼成温度は1100度を超え、この高温によって土を強く焼き締めることが出来ます。土師器に比べて須恵器は硬度が高いのですが、反面、制作に対するコストは格段に上がります。今城塚古墳の近くには新池ハニワ工場公園があり、当時の登り窯を見学することが出来ます。


 人類にとって土器の発明は、調理に革命を起こしました。それまでの「焼く」に加えて「煮る」という調理方法が生まれたからです。縄文時代では栗やクルミといった木の実を煮ていましたが、稲作文化が到来すると米を炊くようになります。土師器にしろ須恵器にしろ調理をするための形状は甕タイプになりますが、丸い形状のままでは使い勝手が悪い。そこで取っ手を取り付ける工夫がなされました。現代のお鍋のような取っ手ではなく、釜の上部に土星の輪っかのような張り出しを作るのです。これを羽釜といいます。


 今城塚で発掘された羽釜の羽の裏側に、指でならした溝が確認されました。見逃してしまいそうな小さな癖ですが、これは日本で発掘される羽釜にはあまり見られない癖だそうです。ところが、同じような溝を持つ羽釜が確認されている地域が他にあります。それは、須恵器を日本に伝えた朝鮮半島の伽耶です。


 継体天皇の御代は、朝鮮半島との交流がかなり顕著だったことが日本書紀に記されています。当時、大和の支配地域であった任那が百済に割譲されるのですが、その対価として五経博士がやってきます。他にも、高句麗や新羅と交戦状態にあった百済は、継体天皇に再三にわたり出兵を依頼しています。そうした朝鮮半島との関りが、小さな土器の破片から感じられるのです。先生的には、ここはかなりの萌えポイントだったようです。熱く語っていたのが印象的でした。


 今回のセミナーの中で、僕が一番萌えたのは大釜の話でした。発掘される遺跡の中には、1メーターを超える大釜もあります。容量にすると、400リッターという大容量です。そうした大釜の利用方法って、何だと思いますか?


 当然、貯蔵にも使われていたでしょうが、少し大きすぎます。持ち運ぶことも出来ません。このような大釜は、酒造りに使われていたと考えられています。当時、酒造りは、国家事業でした。農民から徴収した米を使って、酒部という集団が専門的に作ります。そのようにして作られた酒は、宗教的な祭祀に使用されました。世界的に見ても、宗教儀式的に酒が使われることが多い。酒に酔うというトランス状態を神聖化していたのかもしれません。


 今城塚公園に行くと、復刻された埴輪を見ることが出来ます。埴輪によって、当時の葬送儀礼の様子が再現されているのですが、それらは大王の権威を示すものばかりでした。兵士や馬、剣に盾、それらは大王の武力を表しています。中央に巫女が集まっているのですが、それらも宗教的な側面から大王の権威を表しています。そうした巫女の埴輪の中に、盃をかかげた巫女がいました。そう酒です。


 酒は、神に奉納されるものですが、同時に人々に振舞われるものでもあります。つまり、大王の権威を示すツールとして酒はとても貴重で効果的だったと考えられます。正月を始めとして、日本には様々な行事がありますが、そうした行事に酒が絡むことが多い。ヤクザは親子の契りに酒を使いますが、一昔前の社会人だって飲みニケーションを大切にしてきました。人間が組織されるところに、酒はつきものだったわけです。


 久々に、聖徳太子に近い記事をまとめました。最近は、聖徳太子を知るために、世界史を俯瞰することが多かった。今回は土器に関するセミナーでしたが、古代に関する認識がとても深まりました。楽しかったです。

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