第14話 欲張りフィールドワーク

「疲れた~!」


 今日は、そんな風に零したくなる一日でした。以前、「古代史の謎は海路で解ける」という書籍を読んでいる話を紹介しました。この本は、古代史を「船で輸送する」という視点で歴史を紐解いています。古代の日本は日本海側に先進的な文化が集まり栄えていました。3世紀末に活躍した卑弥呼も日本海側に国があったはずだと、著者は指摘しています。対して、瀬戸内海は潮の流れが激しく航海が難しかった。航海が出来るようになったのは3世紀後半からだと思われます。何故なら、その頃から朝鮮半島から大阪の河内に移住した人々の記述がみられるからです。当時の朝鮮半島は戦乱の時代でした。多くの被災者が日本に逃げてきたようです。


 それでも大陸から、近畿にやって来る正規ルートは日本海側でした。日本海を反時計回りに流れる海流を使うと、半島から自然に出雲や丹後半島に船で移動することが出来ます。太古の日本では、糸魚川でとれるヒスイと、半島で採取できる鉄の売買が出雲や丹後半島で行われていたようです。つまり、それらの地域は国際市場だったわけです。そこから奈良に赴く場合、搬送は琵琶湖が利用されました。


 重量物の鉄を輸送するためには、船の利用は有益です。ところが、琵琶湖の最南端である瀬田から宇治川が始まるのですが、輸送には宇治川は利用されませんでした。何故なら、流れが激しすぎるからです。当時の船は丸木舟です。峡谷を流れる急流を、鉄を乗せながら渡ることは出来なかったようです。大津から峠を越えて山科に入る。そうした陸路を使うしか方法がなかった。ここで、クエスチョン。宇治川は、本当に急流だったのか?


 見に行くことにしました。足は、僕の愛車である50ccのスーパーカブです。最近、小さな違反を3回繰り返し、僕は講習を受けたばかりです。30km~40kmの安全運転を守り、摂津を飛び出すことにしました。ノロノロ運転は苦行です。でも、フィールドワークには丁度良かった。淀川の左岸を北上したのですが、枚方の葛葉までやって来ると、対岸に有名な天王山が見えます。豊臣秀吉が、明智光秀と戦った激戦地です。まるで俯瞰する様に、地形が見えました。想像を膨らますのが楽しかった。


 淀川は、桂川と宇治川と木津川の三本の河川が天王山の麓で交わります。その中の宇治川を選んで北上します。京都市の南にある伏見を掠めて進んで行くと、山が見えました。その麓に、有名な平等院鳳凰堂があります。折角なので、拝観することにしました。


 平等院鳳凰堂は、ユネスコの世界遺産の一つになります。歴史の教科書に紹介されることも多く、十円玉のデザインにも使われています。一万円の裏側に鳳凰のデザインがあしらわれているのですが、これ、平等院鳳凰堂の屋根に乗っている奴です。平日の朝、9時過ぎに到着したのですが、修学旅行の中学生で一杯でした。その中の女子中学生が鳳凰を指さして言いました。


「ニワトリ?」


 個人的に、かなりウケました。世界遺産を後にして、宇治川を登ります。市街地から山間のワイディングロードが始まりました。気持ちが良い。車が少なくて、全開で走ることが出来ます。天気も良かった。快晴です。途中、天ケ瀬ダムがありました。


 ――もし、野宿をするのならどこにしようか?


 そんな事を考えながら、天ケ瀬ダムの周辺を散策して、瀬田を目指しました。天ケ瀬ダム以降の宇治川は、当たり前ですが完全なダム湖でした。しかし、周りは高い山に囲まれています。昔の宇治川は、峡谷を抜ける急流だったことが分かります。確かに、運搬は難しいと、僕も判断しました。


 ツーリングに最適な道路で、車の往来も少ない。宇治川ツーリングは、かなり快適です。グングンと飛ばしていくと、瀬田の市街地に入りました。今日は気温が30度に達したこともあるのですが、滋賀県は京都とは雰囲気が違います。南国の島にやって来たような開放感を感じました。細い路地の中に、狭い間口の家が並ぶ京都とは大違いです。建築物の一つ一つが、ゆったりしていました。


 右手に琵琶湖を見ながら、僕のスーパーカブは今度は山科を目指します。目的地は、山科にある本圀寺です。そこに、古代のたたら場があったそうなのです。現地に赴きましたが、たたら場は寺の敷地の奥でした。関係者以外立ち入り禁止と書いてあります。声を掛けて、現地を見学することも出来たでしょうが、やめました。スマホで調べてみると、小さな石碑があるだけだと分かったからです。


 用意した弁当を、疎水の流れを見ながら食べた後、今度は西陣織会館に向かいました。京都御所の西方にあります。京都の織物の発祥は、秦氏です。「はたうじ」と読みます。三世紀後半に日本に一族を引き連れてやって来たそうです。日本に、養蚕業と機織り、その他にも様々な技術を持ち込んだとされます。以前にも紹介しましたが、6世紀ごろの族長である秦河勝は聖徳太子のブレーンとして活躍しました。西陣織会館の年表には「秦河勝」の文字が確かにありました。しかし、彼の詳細を見つけることは出来ません。彼にはくわしい資料がないのです。秦氏はかなり力を持った一族でして、平安京を自腹で整備したそうです。平安京の整備って、国家プロジェクトですよ。それだけ、力があった一族なのに、平安の時代が終焉すると共に名前が消えます。謎の一族なのです。


  西陣織会館は、実物の機織り機もあり勉強にはなったのですが、目新しい情報はありませんでした。折角なのでもう一軒、私設の博物館に向かうことにしました。「手織りミュージアム織成館」です。西陣織会館から、バイクなら直ぐです。ここは良かった。博物館なのですが、実際に稼働している工場でもあります。且つ、町家でした。風情があるんです。写真を撮りまくりました。いずれインスタでアップしますが……かなり惚れます。家の中に、小さな庭がポツン、ポツンとあるのです。その小さな庭から、暗い和室に光が入ります。これが、い――――のです。あれです。あれ、陰影礼賛。暗い和室に、西陣織の着物が展示されていました。


 見学のメインは、機織りの実技です。明るくて、可愛らしい女の子が、パタンパタンと機を織りながら説明してくれます。嬉しくて、色々なことを質問しました。多分、面倒くさいおじさんだと思われたと思います。しかし、良かった。織物という世界に触れることが出来て、本当に良かったです。


 「手織りミュージアム織成館」を後にしたのが、2時過ぎ。そこから、一気に大阪府高槻市に向かいます。僕が生まれた地元でありながら、見学していない遺跡があるのです。それが、安満遺跡。弥生時代の環濠集落になります。僕が子供の頃は、京都大学の畑でした。それがいつの間にか、遺跡公園として公開されていたのです。僕が知ったのは、最近でした。


 つまるところ、ただの公園でした。平日だというのに多くのお客で賑わっています。広い広い公園でした。その真ん中に、幾つかの建物があります。そこが展示コーナーでした。博物館としての規模は小さい。ただ、レプリカではあるのですが、当時の農作業に使っていた木製の鋤や鍬が展示されていました。土器もあります。手に取って触ることが出来ました。そこが良かった。当時の様子を、イメージし易かったです。


 今日は一日中、スーパーカブでの移動でした。家に帰ったら、バタンと寝てしまうところを、この文章を一気に書き上げました。今回は、考察はありません。僕のフィールドワークの紹介でした。

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