第11話 シンボリックな前方後円墳

 ――大きいことは良いことだ。


 今も昔も「大きさ」は力を表していました。現代であれば、ボクシングは体重によって厳しく階級を設けています。重さが、単純に破壊力に転換されるからです。その体重差を技術によって凌駕する姿は小気味よいですが、今回のテーマではないので踏み込みません。


 3世紀中期、奈良県の纏向に突如として古墳群が誕生しました。前方後円墳の基礎になったと言われています。この頃を境にして、弥生時代から古墳時代に移行したと考える学者が一般的です。その後、最古の前方後円墳として箸墓古墳が誕生しました。建造時期は、3世紀後半から4世紀初頭と考えられています。箸墓古墳は全長が278メートルもあり、それまでの纏向古墳群と比較してもあまりにも大きい。宮内庁は、第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓としています。ところが、世間では邪馬台国の卑弥呼の墓ではないのかとの意見もあり、何かと注目されている古墳になります。


 その後、前方後円墳は、次々と大きなものが作られていきました。大阪府堺市には、世界最大の墳墓があります。有名な大山古墳です。仁徳天皇が眠っているとされていて、建造は5世紀前半と考えられています。その全長は525メートルもあり、墓というにはあまりにも大きすぎます。大阪湾からその姿を望むことが出来、大和朝廷は権力の大きさを示威したかったようです。この頃が、前方後円墳造営のピークだったと思います。ところで、古墳には円墳や方墳など色々な種類があるのですが、こと古墳の議論になると前方後円墳だけが取り出されます。なぜでしょうか?


 前方後円墳は、北は岩手県から南は鹿児島まで広く日本に分布しており、更には朝鮮半島にも14基の前方後円墳があるのです。お墓が全国にあるというだけなら、何も不思議ではありません。注目すべきは、前方後円墳という特殊な形の墓が広く分布していることと、その建造期間が短いことなのです。多くの前方後円墳は、建造が始まってから300年くらいで5000基も建造されています。これって凄くないですか?


 大山古墳を、当時の技術で大林組が建造したらという試算があります。経費として8000億円、建造期間は何と16年も必要になります。大山古墳は大きすぎるにしても、古墳の建造には多くの人員と経費と日数が必要になります。それだけ労力が必要な前方後円墳が、年間に15~18基くらい全国で建造されまくったのです。この事実を見るだけでも、前方後円墳の異様さが感じられます。なぜ前方後円墳だったのでしょうか?


 被葬者は、通常は後方にある円墳に埋納されます。ということは、前方後円墳の本体は円墳ということになります。では、方墳はどのような意図で作られたのでしょうか。研究者によれば、この前方にある方墳は祭祀場だったようです。現在の古墳の多くは、長い年月を経てその上部が森のように木が茂っています。当時の姿を見ることが出来ません。しかし、建設時の古墳は違いました。


 前方後円墳の技術や様式は、奈良の纏向地域だけで完成されたわけではありません。現在の発掘調査により、複数の地域から影響を受けていたようです。その地域とは、福岡がある筑前国、岡山がある吉備国です。前方後円墳は葺石と呼ばれる石によって、全体が覆われていました。更には、円筒埴輪が結界のようにグルリト並べられています。見てきたわけではありませんが、かなり大掛かりな祭祀場が用意されていたようです。どのような意図で、祭祀が行われていたのでしょうか。


 古墳時代の前は、弥生時代という戦乱の時代でした。佐賀県にある吉野ヶ里遺跡は弥生時代を代表する遺跡ですが、その特徴は環濠集落になっていることです。環濠集落は、敵からの襲撃に備えて集落の周りに堀がめぐらされています。中国の文献では、当時の日本には100ほどの小国があったようです。それぞれの国が戦争を繰り返していた中、中国は卑弥呼に金印を授け、日本の王としました。卑弥呼が大和朝廷に関係しているかどうかは分かりませんが、その後大和朝廷はそれらの国を従えて連合政権を作ります。ここで重要なのは、古墳時代は弥生時代の様な戦乱がないという事実なのです。


 なぜそんなことが分かるのか――と言われそうですが、戦乱があればその証拠が出土しないといけません。その形跡が全くないのです。また、戦争をしていては古墳を作ることが出来ません。つまり、古墳時代は日本とって平和な時代だったという推論が導かれるのです。100からなる各地の小国は、戦争をするよりも、大和朝廷のシンボルである前方後円墳を造営しまくったのです。その数、5000基。


 古事記や日本書紀は、日本創世の神の話です。神がこの大地に降りてきた。そうした神話は、当時の人々にとっては大きな驚きだったと思うのです。神の血を引く大王の一族は、各豪族と次々と婚姻関係を結んでいきます。その子供たちは、その土地の王となり姫となりました。更には、神の血筋である子孫は、その墓として前方後円墳が用意されます。前方後円墳の分布範囲は、そのまま大和朝廷の支配地域と考えることが出来るのです。


 大和朝廷がその版図を広げた武器は、「神の血筋」と神を祀る「祭事」、またシンボルとしての「前方後円墳」だったのではないでしょうか。ところが、そうしたシンボリックな「前方後円墳」は6世紀になると急に造営されなくなります。入れ替わるようにして「仏法」がやってきました。幕末の「黒船」のような存在です。当時の思想的なカルチャーショックは、相当なものだったと推察されます。「仏法」の何が、当時の人々を惹きつけたのでしょうか。僕は、そんなことに興味があります。

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