第12話 仏教公伝

 僕が学生の頃は、西暦552年に仏教が伝来したと教えられました。ところが、仏教はそれ以前から渡来人によって日本に伝えられており、現在では国際的な関係の中で公式に仏教が伝えられたという意味で、学校では「仏教公伝」と教えているそうです。


 仏教と一口に言ってもその中身は様々で、あまりにも教えが多いので八万法蔵と言ったりします。仏教が難しいのは、釈迦の悟りが難しいだけではありません。後世の人々が、釈迦の教えを独自に解釈してそれぞれに流派を作っていったことが、更に内容を複雑にしました。仏教を大きく分けるとしたら、上座仏教と大乗仏教になります。上座仏教は源流が古く、ミャンマーやタイ、カンボジアに分布しております。信仰のスタイルとしては、俗世を離れて出家しなければなりません。仕事はせず、「悟り」を得るために修行をするのです。


 対して大乗仏教は、出家することに重きを置きません。法を護る存在としてお坊さんは存在します。しかし、より重要なことは釈迦の「悟り」を広く民衆に伝え、共有することなのです。大乗とは大きな船を意味しており、多くの人を「悟り」に導くという意味になります。また「悟り」を人々に伝える人のことを「菩薩」と呼びます。


 日本に公伝されたのは大乗仏教でした。大乗仏教にも色々とあるのですが、聖徳太子が学んだのは「法華経」になります。日本に公伝されてからも仏教は様々に変化していきましたが、その詳細については説明しきれません。ただ、仏教が持つエッセンスについて、僕なりに紹介してみたいと思います。


 釈迦は、紀元前600年ごろに生まれました。小さな国の王子でしたが自らその地位を捨てて出家します。人間が苦しみから逃れるための方途を探して、修行を繰り返しました。断食の修行をしていたお釈迦さんは、死の一歩手前まで自分を追い込みます。ところが、その修行を自らやめました。スジャータという女の子からミルクをもらい死を免れます。周りの修行僧から釈迦は馬鹿にされましたが、修行では悟りを得られないと感じたのです。お釈迦さんは、その後、菩提樹の下で瞑想し悟りを得ます。晩年は、その悟りを人々に伝えるために旅を続けました。


 釈迦の「悟り」を感じる前に、仏教公伝前の日本の神話と比較してみたいと思います。日本は、八百万の神といって様々な神を敬います。古事記に寄れば、イザナギとイザナミが日本を生んだとされます。天照大神は、二柱のの子供で太陽の象徴として描かれています。この様な創世神話は、世界各地に存在しています。ギリシャ神話、北欧神話、エジプト神話はとても有名です。また、旧約聖書にも天地創造の物語が描かれています。こうした神話に共通の概念は、「この世界は神が作った」です。一神教か多神教かの違いはあるにせよ、神とはそうした存在であると描かれています。


 この神の概念は、人類が狩猟採取から農耕社会へと移行していくなかで形成されていったと考えられます。農耕社会は、多くの人を農作業に従事させる必要があります。その為には強いリーダーシップを発揮する中心者の存在が欠かせません。人間社会に、王が生まれました。王は暴力によって人を支配することもあったでしょうが、神の存在の提示は王のカリスマをより強く補完します。世界各地に似たような神話が存在するのは、世界各地で同じようなプロセスを経た証左だと考えます。


 ところが、仏教はそうした社会に対するアンチテーゼとして誕生しました。神を絶対的なものだとは捉えません。神はこの世に存在する物理現象の一つと捉えます。仏教では、この世を「諸行無常」と説きます。「無常」というと現代では厭世的なイメージがありますが、そんな気分的なものではありません。この世はダイナミックに流動しており、変化を繰り返しています。その変化に飲み込まれるだけでは、人間は苦しむしかない。そもそも変化を止めることは出来ません。止めようとするから、人間はより苦しむのです。


 例えば、始皇帝は死を恐れて不老不死の薬を探しました。しかし、そんなものはこの世に存在しません。人間はその時が来れば、みんな死ぬのです。釈迦は、人間の苦しみに大きく四つあるとしました。生老病死です。釈迦が出家した理由は、実は始皇帝と同じでした。生老病死という苦しみから逃れるために、その方途を探したのです。探した結果「諸行無常」という悟りを得ました。生老病死という四苦は、人間が苦しむ根本原因じゃない。それは避けられない変化だと、ただ見つめたのです。生老病死に翻弄され苦しいと感じる自分の自我。これこそが、苦しみの根本原因なんだと気づいたのです。


 ここに大きなベクトルの転換があることに気づかれるでしょうか。それはあたかも、天動説と地動説の関係によく似ています。人間は苦しみから逃れるために、古来より神に祈りました。この世には、神と悪魔がいてそうした存在が人間に影響を与えると考えてきたのです。ところが、仏教は違いました。変化する環境に打ち勝つために、自分が変わらなければならない。外側ではなく、自分の内側に戦う舞台を変えたのです。仏教とは、自我の探求がテーマになります。何物にも穢されない自我の境地を「悟り」とし、悟った人を「仏」と呼んだのです。


 仏教公伝のおり、欽明天皇に届けられた仏像が金色に輝いて素晴らしかったという逸話があります。しかし、仏像は本質ではありません。当時、漢字が広まっていなかったので、仏典よりも仏像の素晴らしさに心が打たれたのかもしれませんが、仏像を神様のように敬ったのなら、仏教の本質を見誤ってしまいます。本質は、その思想なのです。でも、当時はそれが分からなかった。


 仏教公伝は、大和朝廷の弱体化を招くことになります。世界最大の大山古墳を作り上げることが出来た強大な大和王朝が、仏教を大切にする蘇我氏一族に翻弄されるのです。神様を敬う物部一族と、仏教を信奉する蘇我一族の対立は歴史に示されるほどに苛烈でした。そうした中で、聖徳太子が現れます。当時、中国由来の漢字を認識できる人は少なかったでしょう。ましてや、漢文で書かれた「法華経」を理解できる人は、殆どいなかったのではないでしょうか。


 聖徳太子という人物は、「法華義疏」という法華経を解説した文献を現し、「国記」という「記紀」よりも歴史が古い日本の歴史書を編纂されたようです。「国記」は、現在では残っていない文献ですが、日本書紀にはその存在が示されています。


 現在においては、仏教はその本質を見失っていると思います。「神様、仏様!」と一緒くたにされて、ただ自身の安穏を祈る対象になっています。しかし、仏教とは、現代の心理学や哲学に比肩する、いやそれ以上の知見を有した学びの宝庫だと、僕は思うのです。

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