第4話 飛鳥時代の古墳

 今日は、古墳に関するセミナーに参加するために高槻に行きました。セミナーのテーマは「壁画古墳の謎を解く」です。先生は、阪南大学教授の来村多加史先生です。


 来村先生は、話が非常に上手く面白い先生でした。明日香村の史跡を巡るツアーでガイドをされることもあり、しかめっ面の大学の先生というよりは、エンターティメントな側面を併せ持つ先生でした。90分の講義でしたが、飽きることなく面白く拝聴することが出来ました。


 最初に、欽明天皇から始まる飛鳥時代の古墳の歴史を、時系列で紹介されました。欽明天皇は、聖徳太子のお爺ちゃんです。順次、時代が下りながら聖徳太子も紹介されます。ここで、僕が質問をしなくても、先生から聖徳太子に関する注釈がありました。


 世間では、聖徳太子不在説を述べる学者が存在しますが、それは二人ぐらいだそうです。聖徳太子は存在します――と先生は断言されました。そもそも、聖徳太子が不在なんて断言すると、この世界で仕事が出来なくなる――と述べておられました。それくらい確実なことみたいです。「聖徳太子はいなかった」は、キャッチコピーみたいなもので、それに踊らされていたのですね。少し安心しました。


 ただ、もう一つ注釈がありました。聖徳太子を追いかけるようにして蘇我馬子は亡くなります。世間的には蘇我馬子は悪役にされています。しかし、先生的には蘇我馬子の実績を評価しても良いような口ぶりでした。来週もセミナーがあるので、そこの所を質問してみようかな……。


 古墳の格式について、古墳時代はより大きなものが建造されました。大山古墳なんか、世界最大の規模ですしね。しかし、飛鳥時代は大きさよりも、質に重きが置かれていきます。今回の題材であるキトラ古墳や高松塚古墳は、古墳の造設としては後期になります。石室の内面の壁画を含めて、丁寧な仕事が際立っていました。


 まず、古墳の設置場所です。古墳最盛期は魅せる古墳でした。より大きく、より権威を誇示するかのように作られました。ところが飛鳥時代は、谷の奥にひっそりと作られます。用意された地図を参照したのですが、明日香村の古墳は、どれもこれも谷の奥にありました。しかも、石室の入り口は必ず南向きなので、谷の北側の斜面に作られます。また、設置場所は、全体のバランスが考えられています。古墳を中心として、奈良の平野や山々が見渡せるような、美しい構図が計算されていました。


 次に石室の施工についてです。山の斜面に切り込みを入れて、そこに石室を作るのですが、石室の仕事が匠の技になっています。例えば、蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳ですが、大きさでいえば立派です。しかし、見学された方なら分かると思うのですが、石室を作る石と石の間に隙間がありました。大きいけれど大雑把。


 しかし、後期の造営であるキトラ古墳と高松塚古墳は、石室の完成度が段違いでした。計算されて切り出された岩に、ブロックのようなアイカギと呼ばれる切り込みがあるのです。そのアイカギが合わさることで、隙間が無くなりズレることが無い。更には、漆喰で隙間を埋めて、完全な密閉空間を作っていたのです。だからこそ、発掘当時に1500年という時間を飛び越えて、美しい壁画を現代に現すことがことが出来たのです。


 また、キトラ古墳と高松塚古墳は、共に天武天皇のお子さんが埋納されているのですが、造設時期もほとんど違いが無く、古墳の制作者は同じ人間だと考えられています。ただ、ほとんど同じ時期の造設なのに、後に作られた高松塚古墳は、キトラ古墳よりも更に工夫が施されています。学者にとっては、その小さな変化が、重要だそうで、熱く語っておられました。その違いについては、ここでは割愛します。


 来週は、石室に描かれた壁画に関する考察が述べられるみたいです。非常に楽しみです。こうしたセミナーって、とても参考になりますね。古代史に関するセミナーに、今後も参加したくなりました。僕にこのセミナーを紹介してくれてありがとうございます。この場でお礼を述べます。ありがとうございました。

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