第9話 ダンサーたちの祭典 4
雑巾でスタジオの鏡を拭いていても、夕食の後片付けをしていても、以前のように、花は辛くなかった。
ダンサーたちの祭典の舞台で踊れるかもしれない。
その希望が花の毎日を変えてくれている。
だが、一週間が過ぎても、選抜試験の知らせは、花の元には届かなかった。応募した玲奈や真央には届いたのに、花のところにだけ封書が来ない。
選抜試験の当日の朝になった。
試験会場へと準備をする玲奈と真央に、花はとうとう尋ねてみた。自分が応募していることは秘密だったが、黙っていることに我慢ができなかったのだ。
「ねえ、玲奈」
シューズを鞄に入れていた玲奈は、面倒くさそうに花を振り返った。
「今日の選抜試験のことだけど」
「何?」
玲奈は意地悪そうに花を見つめ返してきた。
「応募しても、試験が受けられないってこと、あるのかな」
「はあ?」
「あんたには、関係ないじゃん」
割り込んできた真央が、「ほら、これ、片付けといて」と、花に履かないタイツを渡してくる。
「なんで、そんなこと聞くの?」
玲奈は含み笑いになった。花はうろたえた。自分も応募したなどと白状したら、二人はなんと言うだろうか。
といって、このままではどうしていいのかわからない。
「書類で落とされるなんて、あるのかな」
勇気を振り絞って言うと、玲奈がけたたましく笑いだした。
「ウケる」
「な、なに?」
「あんた、書類、ほんとに出したと思ってんの?」
「え、どういうこと?」
「自分でポストに入れた記憶はちゃんとあるの?」
「え?」
花は、愕然とした。
書類を仕上げたところまでは憶えている。だけど、ポストに入れた憶えはない。翌日、出そうと思っていたが、机の上に封書がなかったせいで、出したと勘違いしてしまったのだ。
学校へ行く前は、目の回るような忙しさだ。しかも、書類を書いていて、よく眠れていなかった。そのせいで、勘違いしてしまった。
「見つけたんだよね、あたし、あんたの部屋で」
「え?」
「だから、ちゃんと処分しといてあげた」
「しょ、処分って?」
「捨てといてあげたわよ」
「そ、そんな」
「だって、出したって無駄じゃん。あんたなんか、バレエ団で練習もしてないんだから、選抜試験なんて受けるだけ、無駄!」
玲奈はそう言うと、ふたたびけたたましく笑いだした。事情を聞いた真央も、笑う。
表で、美佐子さんが叫ぶ声がした。
「早くしなさい。途中で渋滞したら遅刻してしまうわよ!」
今日、試験会場の渋谷までは、美佐子さんの運転で車で向かうのだ。
「はーい」
二人は声を揃えて応えてから、玄関へ向かう。
呆然と立ちすくんだ花は、開いたままの玄関のドアの向こうで、車が走り去っていくのを見つめ続けていた。
ばっかみたい。
一人きりのスタジオの鏡の前で、花は呟いた。
玲奈の意地悪は許せない。だが、もとはといえば、自分の責任なのだ。自分の手で、ちゃんとポストに入れさえしていれば、選抜試験は受けられた。
ほんと、ドジ。
情けなくて涙も出なかった。
悔しくて、スタジオで一人踊ってやろうと、レオタード姿に着替えたものの、躍る気にはなれなかった。一回ピルエットをしたけれど、すぐにやめてしまう。
あーあ。なんのために、あんなに練習したんだろ。
公園での自主練が思い返された。練習の成果が出て、グランフェッテが三十回回れるようになったっていうのに。
鏡の上の時計を見た。
午前九時七分。
選抜試験は11時から。
今頃、玲奈も真央も、試験のために、ストレッチに精を出していることだろう。
何人ぐらいの応募があったのだろうか。
あの、コンクールで優勝した伊集院さやかも来るだろうか。
行ってみようか。
伊集院さやかの踊りを思い出して、花は思った。
出られなくても、どんな人たちが来ているのか、そしてどんな踊りを披露するのか、見てみたい。選抜試験では、自分の得意な演目を躍ることになっている。様々な踊りが見られるはずだ。
すばらしい踊りを見るのは、それだけで勉強になる。いろんな個性を見ることは、それだけで自分を磨くヒントが得られる。
そう考えると、いてもたってもいられなくなった。
早めに帰ってくれば、美佐子さんたちに見つからないですむ。それに、三人は車だ。電車のほうが絶対早い。
急がなきゃ、試験が始まってしまう。
花はレオタードの上にカーディガンを羽織り、戸締りをすませると、家を出た。
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