第13話

 あれだけ泣けば翌日は腫れるかと覚悟していたが、目が覚めた瞬間のまぶたのあまりの重さに裕子はさすがに落ち込んだ。幸い、土曜日で出勤しなくていいのが唯一の救いだった。


「おはよう。朝ごはんできてるわよ」


 母はすでに起きていて、朝食の後片付けをしていた。妹の典子は外出してしまった後らしい。


 昨晩は泣きつかれて遅くに帰宅し、今朝は腫れぼったい目をした裕子の顔をみても、母は何も聞かなかった。だが、そこは母親、何かあったのだと察しはついているのだろうが、何も聞かないでいる母の優しさが今の裕子にはありがたかった。


「あら、やだ」

 台所で母が素っ頓狂な声をあげた。


「どうしたの?」

「トースターの場所がまた変わってる」

「トースターがどうかしたの?」

「ここにあると邪魔なのよ。だからこっちに移したのに、また元に戻ってるの」


 対面型キッチンのシンク横のスペースには、壁のコンセントを利用するように炊飯器やジューサーが置かれている。トースターは、ダイニングへの通り道側にひとり置かれてあった。


「自分で戻し忘れたんじゃないの? ぼけてきた?」

「ぼけてきたって、失礼ね。お母さんはここには絶対置かないもの。だって、ここにトースターがあると邪魔でしょ」


 トースターのせいで、シンク脇の洗い物を置いておくスペースは狭まってしまっていた。


「焼いたらすぐにテーブルに持っていけるからって、延長コードを使ってでも、お父さんはこっちに置きたがったけどね。男の人は家事の動きってものがわからないから、自分の使いたいものをその時都合のいい場所に置いて、それきりなのよ」

「ふうん」


 父と母がトースターの置き場所でもめていたとは、裕子の知らない夫婦の事柄だった。

「お父さんに朝の挨拶はしたの?」

「あ、まだ」

「食べる前にしてらっしゃい」

「はーい」


 庭に面した六畳の和室は、母親が趣味の書道をたしなむ場所として使用していたが、今はすっかり片付けられ、亡くなった父の四十九日の間の仮住まいとなっている。父の遺影の飾られた中陰壇には、庭の紫陽花と父の好きだったリンゴが供えられていた。


 線香のすがすがしい香りに目の覚める思いで、鐘を鳴らすと、裕子は父にむかって手を合わせた。


 遺影の父は何か言いたげだった。遺影は、去年母と旅行に行ったときの写真で、背景に紅葉の美しい山が写っている。医者を引退したらお母さんと旅行三昧だと話していた父の老後の計画を、裕子は思い出していた。


「花嫁姿、お父さんにみてもらいたかったなあ……」


 ふと口に出してしまうと、枯れたとばかり思っていた涙がじわりとにじみで、頬を伝って畳の上に染みをつくった。


「ごめんね、お父さん。私、隆也さんのプロポーズ、断っちゃった。本当は結婚したかった。『はい』って返事したかったけど、隆也さんのお母様が反対してて…。理由がバカバカしいの。お母さんが球里熱の発生したN県出身だからって、まるでお母さんが球里熱の原因みたいな言い方で、めちゃくちゃなの。医者の家の人間なのに、非科学的でまいっちゃった……。あんな人のいる家にはお嫁にいけないよね……」


 遺影の父は、口をへの字に曲げて何も言わない。これでも本人は笑っているつもりで、まぶしげに細めた目の端は下がっていた。物言わぬ父に、裕子はすべてをぶちまけてしまいたくなった。


「でもね、本当は私もあの人と同じことを思ってるの。お母さんの出身地のことで隆也さんの将来に傷がつくんじゃないかって。球里熱のウイルスがお母さんから私に移されているんじゃないかって。バカバカしいってわかっていても、そう思ってしまうの。そんな自分がイヤでしょうがないの」


 その時だった。


 閉めたはずの障子が静かに開いたかとおもうと、見知らぬ若い男が立っていた。

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