第6話

 娘、裕子には付き合って10年の、水島隆也という恋人がいた。裕子は29歳、水島は35歳と、いつ結婚してもおかしくない年頃だが、水島はいつまでたっても挨拶にこない。


 今時の若い人間はそんなものかと思っていたが、女を待たせるのは男としていかがなものかと思う、まして娘をもつ父親ならなおさらだ。結婚するならする、しないならしないで、別れるなり何なり、男が決めるべきだ。何をぐずぐずしているのだと、槙原は生きていたときから、水島とは一度じっくり話がしたいとおもっていた。


 裕子は、アイドルのような媚びた可愛らしさはないが、春の野に咲くレンゲのように、あふれんばかりの生命力そのものが美しい娘だ。母親がのんびりしている分、しっかりしたところがあって、多少気も言葉も強いところがあるが、それも若さゆえとおもえばいい。我が娘ながらいい女なのだ。結婚をためらわれるようなところはないはずだ―


 水島隆也は、都内の病院に内科医として勤務している。美月の体を借りた槙原は、患者のふりをして水島に近づくことを計画した。


「美月さーん、美月龍之介さーん」


 待たされること数時間、ようやく美月の名前が呼ばれたが、槙原は待合室のソファーに腰掛けたまま、動こうとしない。死んだ身で、体は美月のものを借りているという自覚がないらしく、「槙原」という名前が呼ばれるものだと思い込んでいるようだ。


「おい、おっさん」


 付き添いのスメラギに肘をつかれ、「お、そうか」と、槙原の霊の乗りうつった美月の体は診察室へとむかった。


「今日はどうしましたか?」


 回転椅子をくるりと90度回転させ、水島は槙原に向き合う格好になった。消毒薬のにおいが鼻をつく。医者のにおいだ。自分では気付かなかったが、娘たちがお父さんのにおいだという、白衣の下にまでしみついた医者の体臭が、水島からもたちのぼる。


 小柄だが、学生時代にスポーツをやっていたとかで、がっしりとした体格の持ち主の水島は、一目見たら忘れられない立派な眉の持ち主だった。毛虫でも張り付いているのかとおもわれる太い眉で、おせじにもいい男とはいえない顔立ちだが、愛嬌があってどこか憎めない。


「槙原裕子という女性をご存知ですね」

「え? ええ、槙原さんなら知人ですが」


 患者ではないのかと、水島は太い眉をしかめ、腕時計に目をやった。すでに昼近くだというのに、診察室の外ではまだ多くの患者が待っている。


「あの、患者さんでないのでしたら…」

「裕子のことで話がある」

「どなたか存知あげませんが、そういうことはここでは…」

「あんた、水島さん、裕子と付き合っているんだろう。もう10年だ。10年も付き合っていれば、結婚の話があったっていいはずだ。それなのに裕子はいまだに独身、年だって30近い。

 このまま、ずるずると付き合っていくつもりかね。女にとってそれは残酷なのじゃないかな。結婚するつもりがないなら、いっそ別れてやったほうが、男として潔くはないかね?」


 水島は何も言い返せずに、美月の顔を穴のあくほど見つめていた。どこか仏像を彷彿とさせる穏やかで端正な顔立ちだというのに、繰り出される言葉は時々毒を含んで、いちいち水島の勘にさわった。


「あなたこそ、何だっていうんです。裕子とどういう関係なんです? いきなり病院まできて、何を言い出すかとおもったら。結婚、結婚って。見ず知らずのあなたに何でそんなことを言われなくちゃならないんです?」


 診察室であることも忘れ、水島はおもわず声を荒げた。看護師が何ごとかと顔をのぞかせ、水島ははっとして声をおとした。


「裕子さんとは確かにお付き合いさせてもらってます。お付き合いのことは…僕なりにきちんと考えてもいるんです。ただ、結婚とかそういうことは、他人のあなたには関係のないことだ。えっと…」


 水島は問診票をさぐって、珍客の名前を探した。


「美月さん、でしたね。ここは病院です。患者でないのなら出ていってもらえませんか。他の患者さんが待っていますので」


 美月は、いや槙原は黙って診察室を出た。

 診察室を出てきた美月のしてやったりの笑顔に、スメラギは、花嫁の父となる予感に興奮隠しきれないでいる槙原の笑顔をみた。

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