勇者転生を拒否したら、バグ扱いされた。

白鳥真逸

プロローグ


 季節は生暖かい強風が吹き荒れる台風シーズン。八月下旬としては肌寒く雨が暴風で斜めに降っていた。都内では台風にも関わらず、人がまばらに帰宅していく。とあるビル内では明りが付いている部屋が1つだけあった。社内はすでに終業時刻を過ぎ、一人パソコンに向かいパチパチとキーボードを素早く叩く音がしている。30代前半の筋肉質の男が黙々と机に積まれた書類を片付けていた。


「ふぅー。今日はやけに仕事量が多かったな……終電間に合うよな」


 男が時計を見ると、ちょうど午前零時を過ぎた所だった。男はパソコンを閉じ席を立って部屋の電気を消した。ドアに鍵をかけてエレベーターで一階へ降りる。ビル内に残っていたのは男と管理人だけだった。男は管理人に鍵を渡し、退社記録を記入した。


「正義さん、今日も帰りが遅いですね。お疲れ様です。外は台風ですよ? 傘は持ってますか?」


「すごい風だな……傘は逆に危ないかもしれませんね。駅近いんで走って行きます。管理人さんは大丈夫ですか?」


「私は車なので平気です」


「そうですか、では失礼します」


 男の名は東条正義。その名の通り正義感が強く、上司、同僚、部下と、皆に頼られるリーダー的存在。管理人に会釈をすると、正義は外へ出た。雨粒は大きく、風速20メートルの暴風は街路樹をしならせる。正義の巨体でもぐらつくほどだった。


「思ったよりも、風が強いな―――しかしッ」


 正義はスーツの上着を鞄にしまった。大学時代では強豪ラグビー部に所属し主将を務めていた。どんな逆境でも正義にとっては、さらに飛躍する1つの壁に過ぎない。暴風雨が正義の不屈の精神に火を付けた。ずぶ濡れになりながら強風という敵を退け、正義はまるでラグビー部主将に戻った頃のように駅へと駆けていった。


「うぉぉぉぉ! こんな風ごとき、優勝校エースのタックルの方が強かったぞーーー!」


 周囲に人がいないせいか、正義は大声で道路を走った。駅手前の橋が見えてくると、正義は安堵する。橋の下では濁流がうねりをあげて、まるで巨大生物が泳いでいるかのようだった。そして正義はある違和感を覚える。正義は欄干を握りながら、辺りを見回した。駅前に人影はなく、道路にも人はいない。轟々と流れる濁った川を注意深く見ると、微かに人影が動いていた。


「た…けてッ! うぷッ、誰かー! ……助けてー!」


 濁流に浸かった木の枝にしがみ付いている老人が溺れていた。正義はすぐさま上着を脱ぎ捨て、上半身裸になった。そして橋から飛び降りた。老人がしがみついている木は下流にあり、正義はそこまで流れに身をまかせる。


「待っていろ! すぐに助けるからな!」


「うぷ……もう駄目だ」


 老人は限界に達し、枝から手が離れた。正義はなんとか方向転換しながら、流されていく老人を必死に追いかける。そして―――


 ガシッ!


 正義の太い腕が老人の襟元を掴んだ。老人にはすでに意識はなく、動く気配がなかった。正義は声をかける暇もないほど濁流の圧力に抗い続けた。川の流れに沿いながら少しづつ岸へと近づいていき、正義が今まで培ってきた体力と精神力をフルに使い泳ぎもがいた。


 数百メートル流された先で、屋形船が縄で繋がれたまま上下に激しく揺れていた。正義は腕を伸ばし縄に自分の腕を引っ掻けた。縄をつたい屋形船の船尾から老人を押し上げ、正義も船へと上がった。


「おいッ! しっかりしろ!」


 老人の呼吸が止まっていることを確認し、正義は急いで人工呼吸をする。


「ごふッ、ゴホッゴホッ」


「息を吹き返した!」


 老人は水を吐いてから咳込んだ。朦朧とした目で正義を見て、老人は涙ぐみながら深々と頭を下げた。


「本当にありがとう。あなたは命の恩人です」


「そんな……当然のことをしただけですよ。さあ、ここは揺れて危ない。早く安全な所へ移動しましょう」


 正義は老人の肩を持ち、乗船場の足場まで運んで行く。船から足場へと移動しようとした時―――。


「あッ、危ない! 木がッ」


「せめてあなただけは!」


 ドンッ。


 正義は咄嗟に老人を足場へと押し出した。正義に大木が当たり再び急流に戻された。老人はしゃがみこみ顔面蒼白になる。濁流に弄ばれる正義をただただ見つめていた。周りには人はいない。老人の助けを呼ぶ声は暴風雨にかき消され、正義は再び分厚い壁に阻まれる。


「くそッ! 絶対に負けないッ……」


 ところが正義の意識は徐々に薄れ、鋼の肉体も不屈の精神も自然の猛威には到底敵うはずがなかった。そして、正義の命は燃え尽きた。

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