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 拒食症――という言葉を、久慈は知らない訳ではない。食べられない、あるいは食べてもすぐに吐き出してしまう。そういう病気だ。逆に過食症というものもあり、これは幾らでも食べてしまう。限度なく、常に物を食べていないと落ち着かない。安心出来ない。そういう類の病気だ。

 拒食症だろうと過食症だろうと、その根幹は同じだと、以前伊勢谷から聞いた。ストレスを始めとする精神的なものが引き起こす症状の一つで、ダイエットなんかもそうだ。モデルに限らず、女性の美やスタイルを追求する姿勢というのは久慈が信じられないくらい壮絶なものがある。痩せなければいけない。体重を減らさなければならない。そういうプレッシャーが容易に人の精神を歪め、体に変調を来すのだ。

 

 ストレスから嘔吐した経験は久慈自身にもある。ただそれは彼女たちが感じているそれとは異なるものだろう。久慈の場合は寝不足に過労、それに加えて犯人を追い詰めようという執念が自分を責め立てた結果、胃袋が悲鳴を上げただけだからだ。


「じゃあ、お茶くらいはいいだろう。食べられなくても飲むことは出来る。どうだ?」


 久慈は立ち上がり、冷蔵庫から麦茶を入れたボトルを取り出す。それに新しいコップを手にし、テーブルへと戻った。注いだ麦茶を、まだ床に座ったままの彼女に差し出したが、それに対しても彼女は首を横にした。


「お茶も駄目なのかい。じゃあ水なら?」

「そうじゃないんです」


 だったら何だい――という言葉を飲み込み、久慈は彼女を見つめた。女性の目線は何度か宙を彷徨い、申し訳なさそうに彼を見つめ返す。それからゆるゆると、壁や椅子、机を手づかみで伝い歩きしながらキッチンに向かうと、そこで自分の手でコップを取り、それに水を汲み入れた。注意深く、臭いを嗅いでから、それに口を付ける。

 その奇妙な動作の意味は分からないが、見守っている間にもう一口、二口と飲み、それから彼女は一気にコップを空にした。


「飲めるじゃないか」

「辛うじて、自分で入れた水くらいは大丈夫なんです」

「それじゃ俺が入れたものじゃなければ、いいのか? 新しいペットボトルのお茶ならあるが」

「飲んでみないと分かりません。商品を自分で買えば大丈夫なことが多いですけど、それでも少しでも疑ってしまうと駄目ですし」

「何を、その、疑うんだい?」


 食べたくない。飲みたくない。そういう拒食症ならまだ理解は出来る。だが今し方彼女の口から出たのは“疑う”という、どうにも馴染まない言葉だ。それこそ元刑事の久慈なら常日頃から何に対してもふりかけのようにその言葉を用いても不思議はないが、病的だが、久慈のいた世界からはほど遠く見える彼女にその言葉は似合わない。


「毒が、入っていないかどうかです」


 ゆっくりと、何かを飲み込むようにして彼女が取り出した言葉は、単なる疲労と空腹による行き倒れではないことを久慈に伝えていた。その「毒」という言葉で急に背筋が寒くなり、もう使わないだろうと思っていた脳細胞の一部が活性化を始める。久慈は刑事の頃に戻ったような低い声で、彼女にこう言った。


「あんたの事情、少し聞かせちゃもらえないか」


 コップを握ったままテーブルに手を突いて立っていた彼女に座るよう促し、一応冷蔵庫にあったほうじ茶の真新しいペットボトルを持ってきてその前に置くと、彼女から二メートルほど離れた場所に椅子を置き直してどっかりと腰を下ろし、刑事の頃にしていたように、久慈はテーブルの上に手帳を置いた。


「とても他人に話すような事情ではないのですが、ご迷惑をおかけしたようなので、少しばかり聞いてもらえますか」

「ああ。あんたが好きなだけ話してくれればいい。ここには俺とあんた以外誰もいないし、金はないが、時間は無限に近いほどある。今日は予約客も入っていない。ゆっくりしてくれればいい」


 穏やかな声だ。それは久慈が被害者に接する時のそれだった。強面で、どちらかといえば逮捕した被疑者を怒鳴りつける役割ばかり任された久慈だが、本来はこうやってじっくりと相手から情報を引き出す方が性に合っている。顔の所為で勘違いされがちなだけで、力や声の大きさで物事を解決するのは間違ったやり方だと考えていた。


「これって、ここですよね?」


 話の前に彼女がジーンズのポケットから取り出したのは、くしゃくしゃになったパンフレットだった。薄い、ふたつ折りにしただけのものだ。その表紙にはこのペンションと夜空が写された写真があり、流星群が降り注いでいる。まだ畠中がここをやっていた頃に作ったものだ。久慈も貰ったがもうどこに行ったか分からない。ゴミ箱にでも捨ててしまったのだろうか。

 その貴重なパンフレットを、彼女が持っていた。


「そうだな」


 どこで手に入れたのか。誰から貰ったのか。そんな質問が浮かんだが、ただの相槌に留めておく。相手の話の腰を折らない、というのが話を引き出す基本だ。話したいように話させる。大きく脱線しそうになった時だけ僅かに修正してやればいい。基本は何もしないことだ。


「わたし、ここで死にたいと思ったんです」


 そう呟き、彼女は笑みを浮かべた。

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