5
伊勢谷たちが帰ってしまうと、ペンションには久慈と、客間で眠る謎の女性だけが残された。点滴をしておくから止まったら針を抜いてくれと言われ、何度か部屋を覗きに行くが、まだ彼女が目覚める様子はない。死んでいるのか、と思って顔を近づけると小さな寝息を立てている。
不思議なもので刑事をやっていたからか、人の生き死にに対しては感度が高い。おそらく部屋に入った時点で死んでいたらその異常に気づくだろう。ずっとそういう緊張感の中、四半世紀、走り続けていた。それは家庭を持ち、娘が生まれてからもずっとだ。振り返ることをしなかった。きっと一度や二度、振り返っていたなら、今の自分はいなかっただろう。
――いつだって後悔だけを握り締めて人間というのは生きていくのかも知れない。
リビングスペースに戻ると、久慈は握っておいたおむすびのラップを取り、味噌汁をお椀に入れ、朝食を取る。焼けてから少し時間が立ったアジの干物は、それでもしっかりと脂が乗っていて美味い。温め直した茄子と揚げの味噌汁もなかなか上出来だ。特に揚げの油が良い具合に染み出し、茄子と味噌の風味を何倍にも盛りたてていた。
おむすび、と呼ぶのか、おにぎり、と呼ぶのかは地方で異なるらしい。久慈の家ではずっとおにぎりだったが、結婚してからは妻がどうしても「おむすび」だと言って譲らなかった。思えばそういう頑固な部分を、彼女は持っていた。ただ久慈も頑固だ。頑固者同士。そういう意味では似た部分があったのだろう。だから一緒になれた。
久慈の中にも決して刑事の血だけが流れていた訳じゃない。若い頃、男として青春を楽しもうとした姿もあった。少なくとも一時的だったにせよ、妻とは男と女だったと、久慈は思っている。でもそれは若い頃のような青々しい甘酸っぱさではなく、ストレスの捌け口になるような荒々しさをぶつけた男女のそれだったようにも思う。それを、元妻はどう思っていたのだろう。
少し冷めたおむすびは、海苔を別にしてある。食べる時にそれで包むのだ。そうすると海苔が湿気でしっとりとせず、パリっとした食感と共にご飯と口に入る。コンビニのおにぎりは上手くパッケージされ、海苔の鮮度が保たれているが、個人で作る場合にはああはいかない。だからこその工夫だった。それも妻のレシピの指示だ。
おむすびを一口、それから味噌汁を啜るようにして飲む。しっかり噛んで食べないといけないと、母親が叱るようにして妻は言ったものだが、食べ方の癖というものはそう簡単には直らない。久慈は未だに箸も上手く持てないし、子どものような食い方をしてしまう。けれどそれを叱る人間は、もう目の前にはいなかった。
「あの」
いつの間に起きたのだろう。淡いベージュのブラウスに淡いブルーのデニムのズボンを履いた彼女が、客間を出たすぐのところの壁に手を着いて久慈を見ていた。
「あんた、大丈夫か」
「はい。すみませんでした。すぐに出ていきます」
目がやや落ち窪んだ彼女は小さく頭を下げ、そのまま歩き出そうとして、けれどふらふらと真っ直ぐ歩くことが出来ずにそのまま膝を突いて床に座り込んでしまった。
「まだ起き上がれないだろう。点滴は?」
「外しました」
「自分でか?」
「わたしには必要ない、ですし」
「必要だと判断したのは医者だ。口は悪いが、ちゃんとした医者だ。その言うことを聞く必要がないと言うんだな?」
彼女の久慈を見る目が、怯えていた。
久慈の悪い癖だ。話しているとつい、尋問口調になってしまう。
「いや、そういうつもりじゃないんだ。すまない。いつもの癖でな。とにかく医者が言ってた。ちゃんと安静にして、それから食べて体力をまず回復すべきだって。どんな事情でこのペンションの前に倒れていたかは知らん。だがな、ここで死なれちゃ俺が困る。ここではもう、事件はごめんだ」
「事件?」
「あ、いや、こっちの話だ。それより、どうだ。動けるなら、朝ご飯、食べるか?」
おむすびも焼き魚も冷えてしまっているが、味噌汁は温かい。それに口に入れれば多少冷めていても美味いものばかりだ。
彼女の目がテーブルの上に置かれた大皿に盛られたおむすびに向かう。料理下手な久慈の中で一番のお勧めがこのおむすびだ。中身は日によって違うが、今日は昆布の佃煮と牛そぼろ、それに梅干しが入っている。その梅干しは宮野梨沙が漬けたものだ。一月ほど前に貰った。
けれど彼女は首を横に振る。
「空腹で倒れていたのに、まさかお腹が空いてない、なんて言うんじゃないだろうな」
「普通はそう思いますよね」
長く生きていればおかしなことに巡り合う。彼女は寂しげに笑うと「わたし、駄目なんです。食べられないんです」と小さな声で言った。
「食べられないって、嫌いなのか? それともアレルギーか何かか」
最近は客の中にも小麦粉が駄目ですとか林檎は無理です、卵は抜いて下さい、牛乳を使っていますかと、そういうことを言ってくる人も増えた。食べたいのに食べられない。好きなのに受け付けない。そんなことが自分の体に起こるなんて、何でも平気な久慈にとっては想像するのも難しい。けれど実際目の前で蕎麦を食べて
「アレルギーでも、ないんです」
「じゃあ何だ?」
つい語気が強くなる。
「食べられないんです。わたしは、食べてもすぐに戻してしまうので」
「あんた、それって」
「はい。拒食症なんです。それもかなり重度の」
彼女は寂しげな笑みをして、そう言った。
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