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「あんたみたいな若い女がそう簡単に死にたいなんざ口にするもんじゃないと思うが、どうしてそうまで思うようになったんだい?」
テーブルに置いたほうじ茶のペットボトルを、彼女は握り締めながらもそのキャップは捻らない。ただ手持ち無沙汰なのをそれで紛らわせているだけだ。ベッドまで運んだ感じだと四十キロもないだろう。背丈は百六十は越えている。痩せすぎ、なんてものじゃない。ブラウスから露出した腕は細く、枝のようで、服のサイズそのものも一つから二つ程度大きいように見えるが、元々の体型はそれで合っていたのだろう。
彼女は小さなため息を落としてから、こう言った。
「流星群を、見たかったんです。ここは見られるんですよね、東京よりもずっと綺麗に」
「ああ。俺は何度か見ている。昔はそんな趣味なかったが、星空を見上げるというのも悪くないもんだ」
「ずっとこんな場所にいたら、もっと楽に生きられたんでしょうね」
それはどうか分からない。綺麗な一部分だけを切り取ってそこがいい、あれがいいとやってみても、綺麗なものだけで出来上がっているものなんて存在しない。汚い部分、悪いものや悪い人、そういう暗部があってこそ綺麗なその一部が輝いて見える。だから久慈はやってきて「ここ良いですね」と言う客に対して移住を勧めるようなことはしない。ただ笑って頷くだけだ。
「わたしは優美という名前なんですが、優しく美しいという漢字を貰っています。両親は一人娘だったわたしに、きっと優しくて美しい子に育つように願いを込めてくれたのでしょう。けれど、優しさも美しさも結局はどちらも手に入らなかった。それどころか親不孝の不義理をして、今も心配を掛けているでしょう。それでももう、わたしには戻る場所はありません。地獄への片道切符しか買えなかった」
優美――と手帳にメモをする。一人娘、それに両親が健在のようだ。
「こんなわたしですが、愛してくれた人がいたんです」
何度も見せる寂しげな笑みを作り、彼女は自分がこのペンションの前で倒れていた経緯を、ようやく語り始めた。
五年ほど前の話だ。西村優美はホテルの厨房で料理人を夢見てアルバイトに励んでいた。ただ調理師学校を出てからそういう場所に務めるようになった訳ではなく、大学を出た後にホテルのカフェやレストラン、バイキングの取材をするようになって、徐々にそこで提供されている料理の数々に魅了されていくうち、取材する側ではなく、自分がそれを作る側、生み出す側になりたいと思うようになり、心機一転、厳しい世界に飛び込んだそうだ。
その男性は最初、客としてそのレストランを訪れた。女性と一緒だったそうだ。厨房を希望していた彼女だったが、人手不足からホール担当に回ることも多く、この日も制服を着て客対応に笑顔を振りまいていた。とても感じの良い二人で、優美は理想的なカップルだと思ったらしい。
その彼と再会したのは仕事終わりの深夜を回ったホテル近くの路地だった。酷く酔っ払って茂みに倒れるようにして寝ていたので、どうしようかと思ったが、置き去りにする訳にもいかず、タクシーを呼んで自宅に連れて行ったそうだ。
この時、最初から彼だけを家に送っていればこの時点で関係は終わったのかも知れない。けれど人と人との縁というのは、普段ならしなかったのに何故あの時はしてしまったのだろう、というちょっとしたボタンの掛け違えみたいなものから生まれるのだろう。
優美もバイト上がりで酷く疲れていたこともあり、シャワーを浴びると男性をベッドに寝かせ、彼女は床で毛布に包まってそのまま朝までぐっすりと眠ってしまった。後から友人に不用心だと叱られたらしいが、その男性に対して一ミリとして疑いの感情を持っていなかった彼女は「でも大丈夫だったよ」と笑って返しただけだった。
朝になり、とても良い匂いで目覚めたそうだ。見るとその彼が優美のエプロンをして、キッチンに立っている。作っていたのはエッグベネディクトだった。ただマフィンはなかったので土台になっているのトーストを小さくしたものだったし、ベーコンも安物だ。それでも牛乳を煮詰めて作ったという特製のソースは、普段優美がレストランで見かけるそれと遜色ない、いやそれ以上に出来の良いものだった。
「お礼にと思ってね」
「だからシェフではなく、料理人。それも流浪の料理人てとこかな。けど、店に縛られる料理人よりはずっと自由だし、好きなものを好きな時に作り、それを本当に望む人に届けることが可能だ。だから巷のシェフたちよりはずっと、本物の料理人だと自負しているよ」
やや顎の出た、イタリア人のような彫りの深い眉毛の濃い顔は、その笑顔で一瞬にして優美を虜にしてしまった。
彼の作った朝食を食べながら事情を聞くと、どうやら昨夜彼女と別れたところで、浴びるように酒を飲んだ後だったらしい。その割には朝にはけろっとしていたから相当酒には強いのだろう。ちなみに優美自身はあまり酒が強い方ではなかった。
その日をきっかけに、二人の関係は始まった。
斑目はよく気がつく男だった。疲れた優美を気遣い、無理にデートをしたりはしない。料理も大半彼が作った。斑目の作るものはどれも美味しく、優美の知らない料理、初めて見たり聞いたりするものも多く、一緒に食事をしているだけでも勉強になることばかりで、やがて一緒に暮らしたいと思うようになるのは自然なことだったのかも知れない。
同棲が始まったのは出会って一月程度経ったある日だ。朝から雨の酷い日で、その日は早上がりだった優美がマンションに戻ってくると、その玄関先で彼が荷物を詰め込んだ小さなバッグを手に、濡れながら立っていた。
「どうしたの?」
「追い出されただけさ」
そう笑っていたけれど、詳しく事情を聞くとどうも前の彼女と二人で借りていたマンションの家賃の支払いが滞り、どうしようもなくなって出てきてしまったということだった。流浪の料理人なんて気取ってみても結局はお金がないと何も出来ない。
「仕方ないわね。じゃあ、しばらくうちに来る?」
「料理人、雇ってくれるかい?」
「ばか」
彼の姿を見た時にはもう同棲を心の中では決めていた。優美はこの人の為なら少しくらい苦労したっていい。既にそういう心持ちだったのだ。
それからの三ヶ月は実に楽しい時間だった。優美の稼ぎと貯金を切り崩しながら、それでも笑顔が溢れた二人の日常がそこには存在した。振り返ってみても、あんなに充実していた時期はないだろう。
優美は「しあわせ」という文字を心の芯まで体験していたのだ。
その雲行きがおかしくなったと感じるようになったのは、彼の言動ではなく、優美自身の体の変化からだった。丈夫とまではいかないが、多少無理をしてもへこたれないくらいには強いと思っていた彼女が、倒れたのだ。
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