第4話 「第二ボタンっていうんだ」
名前。
そんなものは持っていなかった。
私は生まれたときから何も持っていない。
名前だってもっていない。
持っていないと正直に話すと目の前の彼はとても困ってしまった。
私は一生懸命考える。
私の名前を。
だけれど、一度ももったことがないものを一から考えるのは難しかった。
だから、ときどき私を指しているだろうと感じたことば「ニエ」が私の名前に近いだろうと思った。
本当は「桜子」と名乗ろうかと思った。
ちょうど、私が身に着けている服は桜子のものだったから。
桜子になれるような気がした。
だけれど、桜子が彼に優しくされる姿が脳裏に浮かんでやめた。
私じゃなくて、桜子が彼に優しくされる。
きっと目の前にいるこの男性は、とっても優しい。
桜子が彼の目の前で困れば、彼はまちがいなく桜子を助けただろう。
私じゃなく、桜子が彼に優しくされるのは嫌だった。
だから、必死に考えた。
そして今まで誰かが私を示した言葉、それは「ニエ」だった。
それ以外は「おまえ」とか「おい」とか「あれ」だった。
「あれ」でも響きが可愛らしいのでよかった気がするが、なんとなく「ニエ」の方があまり聞かない特別な言葉のような気がした。
そう言えば、桜子は今頃どうなっているのだろうか。
彼女が毎日着ていたこの服を勝手に借りてきてしまったのでひどく怒っているだろうか。
毎日、着るくらいのお気に入りのこの服。
目の前の彼とも布地がそっくり同じ。
もしかして、桜子と彼は知り合いだったりするのだろうか。
ならば、やはり「桜子」って名前を借りなくて正解だ。
もう、彼女が使うことはないけれど。
私はそっと彼に寄りかかり、服を脱がせる。
こうしている間は暴力が振るわれることが少ないから。
ときどき突き飛ばされることや、胸の先端をつねり上げられることはあるけれど。
こうやっている間は、頬をはたかれたり、首を絞められたり、腹を蹴られることはない。
こうしておけば、このあたたかい場所ですこしだけ体を休めることができる。
私はできるだけゆっくり丁寧に、私が着ている服とおそろいの生地の男物の服を撫でまわし、ボタンを外す。
上から二番目のボタンに触れたとき、なぜだか無償に切なくなる。
外すのがもったいないようで、指先でその金色のボタンをそっとはじく。
冷たく、複雑な模様をもったそれは指先を楽しませる。
そういえば以前、桜子がこれにそっくりなボタンを私に自慢げに見せたことがあった。
「第二ボタンっていうのよ。お前には一生縁のないものかもしれないけれど」
ふふっと優越感にあふれたその笑いはひどく私の心を傷つけた。
桜子はいつもそうだ。
私に似た顔をしているのに、私と全く違う生活。
名前だけでなく、様々なものをもっている。
みんなから愛される桜子。
私はいつも彼女に憧れていた。
憧れ焦がれ、そしてとてつもなく……この感情にいったいどんな名前があるのか私には分からない。
けれど、とてつもない渇きが桜子を見るたびに襲ってきた。
そして、今も。
桜子の名前を思うだけでその渇きに襲われる。
雨に濡れる美少女を助けたら、因習村の座敷牢で飼われていたらしい 華川とうふ @hayakawa5
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