13話 いつまでも、きっと二人で
約束通りに唇を重ねた。
少しだけ背の高い俺が求めると自然、押し倒すとまではいかなくても背を壁に追いやってしまう。
それで恨みがましい眼差しを向けられるけど、その距離はほんの数センチもない。
逃げ場もなく、苦し紛れの抵抗はむしろ気分を昂ぶらせるだけだ。
「逢香」
互いの身体に挟まれていた手が窮屈そうに胸を押してきて、仕方なく顔を離した。機嫌を損ねた眼差しのまま、貪るように息する夏希。
そして何を言うのかと思えば。
「そんなに焦らなくていいから……!」
焦っているわけじゃない。
言おうとして、やっぱり焦っているのかもと自嘲する。
しかし心中の思いは声にはならず、代わりの言葉が口を衝いて出た。
「夏希」
「な」
なに、と言うのも待たず。
「口、開いて」
えっ、と声なく開いた唇を、またも無遠慮に奪った。夏希が驚いたのが分かる。表情ではなく、舌の動きで。その舌に無理やり自分のものを絡ませる。
「んっ、ふぁ……ッ」
待って、とでも言おうとしたのか。
言葉もなく、表情さえ窺いきれない至近距離で、不思議と気持ちが伝わっても待つ気にはなれなかった。熱く、熱く、焦がれるままに求めてしまう。
「んぅ……」
「……っ」
抵抗を諦めた夏希が一転、思うままに求めてくれる。
それがまた嬉しくて、思考が溶けていった。
求め、求められ。
息が苦しくなって顔を離せば、すぐに追いすがって再び啄むように口付けて、互いに貪り求め合い。
そうして何分が過ぎ去っただろう。
時間の感覚も怪しくなってきた頃、どちらからともなく顔を離した。名残惜しそうな視線を見つけ、その表情に自分の思いをも知る。
「……夏希」
「ダメ」
「まだ何も言ってない」
「逢香ってエッチだよね」
そんな台詞を真正面から受け取る日が来るとは思わなかった。
お互い様でしょ、と視線で答えるも、どうやら伝わらない様子。それどころか疑いの目を向けてくる。
「すぐ舌入れてきたし」
それこそお互い様だろう。あの山道で先にやってきたのは夏希だ。
けどまぁ、それを言っても始まらない。
「嫌だった?」
代わりに言えば、夏木は目を逸らす。
「そういう話じゃないでしょ」
「じゃあ、もう一回していい?」
「そういうところがエロいって言ってるんだよ!」
「分かってる、冗談だって冗談」
笑いながら肩を叩き、さて上がらせてもらうかと履いたままだった靴を脱ぎかけるも、じとっと冷たい眼差しが痛いほどに突き刺さる。
「……なに」
「ほんとに冗談だったの?」
目が笑っていない。
昔話を聞く限りでは常識はあるはずの彼を、何がそこまで駆り立てるのか。
とはいえ俺も俺だ。
「冗談だったら残念?」
自分で何を言い、何をやっているのか時々分からなくなる。
今もそうだ。夏希じゃないけど、何を言えば喜んでくれるかは想像がついた。
だから知りたくなってしまう。
「逢香、やっぱり意地悪だよ」
どんな風に笑ってくれるか想像できる言葉より、笑うか怒るかも分からない言葉を投げたくなる。どんな表情を見せてくれるか、試したくなってしまう。
「まぁでも、なんだって腹八分目がちょうどいいでしょ」
「つまり、まだしたいんだ」
「夏希とならずっとしていられる気がする」
本心だった。
迷うことすらできずに言ってしまい、逢香がまた顔を背ける。
いいな、やっぱり。
見えなくなった右の頬に手を伸ばし、そっと触れる。夏希が強張るのを感じた。だけど抵抗はされない。力を優しく込めれば、手を引くのと同じか少し早いくらいで視線が戻ってきた。
不満げな、それでいて期待に揺れる瞳。
「嫌?」
「腹八分目じゃなかったの?」
「嫌ならしないよ」
「……意地悪」
そう言われると、もっと意地悪したくなってしまう。
嗜虐心とは、こういう気持ちを言うのだろうか。違うかな。分からない。考える余裕がなかった。視線が瞳と唇の間を行き来するばかりで、他のことなんか意識できない。
「したくないならしないよ」
もう一度言って、笑ってみる。
「だけど、したいならしてほしいかな。今度は夏希から」
恨みがましい視線が刺さる。それが揺れる心を優しく撫でた。
動じない俺を見て、また意地悪と呟こうとしたのかもしれない。けれど『い』の形を作ろうとした唇は、そこから先に進めず固まった。
揺れる瞳に引きずられたように、唇もふるふると小刻みに震える。
「……だめ」
ようやく紡がれたのは、身を寄せ合っていなければ聞き取れないほどに微かな声だった。
「どうして?」
「分かってて言ってるでしょ」
「分からない。これは本当」
いったい何がダメなんだろう。
ここはもうラウにゃーでも、そこからの帰り道でもない。夏希の家、というか部屋だ。
他を知らないけど、夏希の部屋はワンルームと言いながら玄関を上がってすぐにドアがあった。その向こうがリビングやキッチンなどの『ワンルーム』で、手前側に玄関の他、トイレや風呂場があるらしい。
ただ、玄関といえど部屋は部屋だ。
ここでコトを始めるならともかく、口を塞ぎ合うキスなら声が漏れ聞こえてしまうこともない。
「……逢香って」
「エロい? それとも意地悪?」
「時々頭悪いよね」
急に悪口を言われた気がする。
なんとはなしに夏希の視線も冷気を取り戻していた。何がいけなかったんだ。これまた本当に分からない。
「これ以上はダメ」
「どうして」
「僕がダメになっちゃうから」
説明になっていない。
と、そこで相手に求めてしまうから頭が悪いと言われるのか。
ふむ。
考えて考えて、答えを見つけた。
「ごめん、どうして?」
目の前に答えを知る相手がいるのに、どうして無い頭を捻って考えるのか。それは時間の無駄というものである。
「逢香」
「なに」
「真面目な顔してもダメだから」
「そんな顔をした覚えはないんだけど」
だから教えてくれないか、と。
それこそダメで元々のつもりで聞こうと思ったのに、声が出てきてくれなかった。
きゅっと胸が締まる。
そのすぐ下、脇とも横腹とも言い難い、肋骨の辺りに指が這っていた。思わず上体が反る。
けれど夏希は、そんなことお構いなしだ。手触りを確かめるかのように、夏希の指は奥へ奥へ、上へ上へとさわさわ動いた。
「どう?」
どう、と言われても。
「えっと、何してるの? こちょこちょ?」
こんなの口に出して言うのは小学生以来だと思う。
しかし、そんなわけがないだろう。曲がりなりにも恋人が二人きり、誰の目も耳も気にしなくていい場所にいるのだ。
「……じゃあ服の下に手入れていい?」
「入れたいの?」
「いい?」
「いいけど……え、何したいの?」
分からない。
さっぱりだ。
表情を取り繕うこともできず、する意味も感じず、ただ一直線に見つめてしまう。
先に目を逸らしたのは、やはり夏希だった。
「逢香は何も分かってない」
うん。
だから教えてほしいんだけど。
「ここ、僕の家なんだよ?」
「……? だから?」
「僕も男なんだよ? 押し倒されちゃうとか考えないの?」
言われるがまま、考えてみる。
ここは夏希の家。
まだ玄関だけど、盛り上がった夏希が俺を奥へと連れ込んでベッドなり布団なりに押し倒すか、あるいは今ここで無理やり押し倒してくるか。
社会人とはいえ、まだ若い男が一人で暮らすワンルームだ。そこまでの防音設備はないはずで、叫んで助けを呼べば誰かしら通報するだろう。
けど、その必要はない。
唯一必要があるとするなら――。
「夏希はそっちがいいんだ」
ただ、それだけだ。
「そういうわけじゃないけど、怖くないの?」
「怖い? どうして? ……あ待って、確かに痛そう」
そうか、出すとこだもんな。
なるほどな、と頷いてみたが、どうやらそうではないらしい。
「逢香って」
「今度はなに」
「男じゃん」
そりゃ夏希もだ。
あまりに当たり前のことすぎて、開いた口が塞がらなかった。
「そうじゃなくて! ……ほら、僕は女装してたわけで」
「けど、そういうんじゃないんでしょ?」
「そうだけど。でも、逢香よりはそっち寄り……に見えないこともないわけで」
「要するに?」
「……逢香は、僕に押し倒されることとか考えてないでしょ」
そしてここに戻ってくるのか。
男だとか女だとか、ノンケだとかゲイだとか。
きっと考えなければいけないことなんだと頭で分かっていても、いざ時が来ると分からなくなってしまう。どうでもいい、と他人事みたいに投げやりになる自分も知っていた。
「言っとくけど、押し倒すことも考えてないから」
出会って一週間だ。
付き合い、初めてのデートをして、何回目とも分からないキスをして、家に上がり込んで。
その先に進むべき時がいつかなんて分からないし、考えてもみなかった。別にいいだろ、どうだって。周りがどうであろうと、俺は俺で、夏希は夏希だ。他の誰でも成り立たない。
「夏希とキスがしたかった。意地悪だって言うなら、そうしたらどんな顔をするのか見てみたかった。それだけだよ。その先なんて考える余裕もなかった」
恥ずかしいから声にはしないけど。
でも真実を言えば、女相手にどうすればいいのかも俺は知らない。部屋でコソコソ動画を見ることはあっても、あれはフィクションであり、いわば幻想だ。どこまで参考にしていいものかも分からない。
にもかかわらず、夏希は男だ。
男同士の動画なんて見たこともないし、見ようと思ったことも勿論ない。
「そもそも本当に大丈夫なの? 尻って出すところだろ?」
「いや、……その、えっと、今その話する?」
「いつかはしなくちゃいけないでしょ」
絶対に痛い。
きっと痛いなんてもんじゃない。
もしかしたら裂けるんじゃないか。血が出る。後遺症とか残りそう。
でも現実には、ゲイやバイの人々が男同士でやっている。知らないだけでそういう外来があったりするのか。
考えれば考えるほど怖くなるけど、それはそれ、これはこれだ。
「そりゃ痛いのは嫌だけど、痛い思いさせるのも嫌だし」
「……じゃあ、しないの?」
「夏希はしたい?」
質問で返した質問に、また返されたのは沈黙だった。
悩んで、迷って、意を決した顔で夏希が口を開く。
「したいって言ったら?」
「調べるしかないでしょ。まぁ一人ですんの恥ずかしいから、できれば夏希も一緒に調べてほしいけど」
「そっちの方が恥ずかしくない?」
とは言いつつも、夏希はどこか安堵している。
好きだと、何度も声にしてきたつもりなのに、こればかりは何度言っても足りることはないらしい。時々頭が悪いと言われたけど、今度は一つ賢くなった。
「好きだよ、夏希」
「……っ!?」
「え、なに、どうしたん」
「えっ、それ僕の台詞だよねっ!? 急にどうしたんだ君は!」
どうしたんだと言われても。
今日はなんだか話が食い違ってばかりな気がする。
「いや、忘れてるのかと思って。誤解させたなら謝るけど、夏希のことはちゃんと好きだよ」
そもそも好きでもない男とキスなんかしない。したくない。顔も近付けたくない。
男同士だけど。
男同士だからこそ。
好きになり、エロいと言われても否定できない、それほどに求めてしまう意味を分かってほしい。
「あ、あの……」
「ん?」
「僕も、だよ」
「何が? ポップコーン? バター味?」
これでもかとニヤニヤ笑ってやる。
今は床に置いてあるけど、ずっと手に提げてきたそれだ。僕が持つよ、いやいいよ、じゃあ半分こで、いやごめんマジでいい、と途中までは恋人らしいやり取りを演じるに至った小道具でもある。
夏希も途中までは思い出したのだろう。
「……僕も」
俺の方が恥ずかしくなってくるくらい、真っ赤に染まった顔で。
「逢香のこと、ちゃんと好きだよ。キスも好き。もっとしたい。ずっとしていたい。だけど、だからダメ。逢香からしてくれるのはいいけど、してほしいけど、でも、僕からしたらダメになっちゃう。きっと我慢できなくなっちゃう」
溢れ出した言葉に、じんと優しい気持ちが胸に広がる。
それで夏希がむっと不満顔をしてみせた。
「なんでそんな平然としてるの」
「や、可愛いこと言ってるなって」
「僕の方が年上なんだけど?」
「背は俺の方があるし」
「ほんの一センチか二センチじゃん」
「そっちだって何歳も年上じゃないだろ」
思えば、互いに年も知らないままだった気がする。
俺の方は高校生で、更に後輩がいるから十七か八まで絞れてはいると思うけど、夏希は絞り込む材料が何一つない。もしかしたら三十代かも。それはないか。
同じことを考えたらしく、夏希は気まずそうに視線を逸らした。
「夏希」
「なにさ」
なにさってリアルで聞いたの、初めてかもしれない。
「一つお願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
夏希は横目で、俺を見た。
またも揺れる瞳は、いったい何を考えているのだろう。
想像通りであってくれと願いながら、答えを待った。
「一つだけ?」
「あぁ、一つ」
時間稼ぎにもならないやり取り。
そして夏希は、ふっと短く息を吸い込んで、ちゃんと真正面から視線を返す。
「わかった。いいよ、一つだけなら」
「ん、それじゃあ」
優しく微笑む。
最大限の、きっと期待された柔らかさで――。
「キスしてほしい。夏希から。心ゆくまで」
紡いだのは、全くの予想外であろう頼みだ。
えっ、と微かに声を漏らしたきり、まん丸な目で固まる夏希。まさしく絶句、言葉を失った。
してやったり。
どんなに堪えようとしても頬が緩んでしまう。
それで夏希も我に返った。
「えっ、えっ……今のって歳聞く流れじゃ」
「そもそもの話に戻っただけだよ」
「え、でも、それはダメだって」
「けど、一つだけならいいって言ったし」
「言ったけどっ! 言ったけど……ッ!!」
けどけどと何度繰り返したとて、男ならば二言はあるまい。
「うぐぅ……」
退路を探して行ったり来たりする視線も、程なく無理を悟って諦めを滲ませた。
男二人、他の誰が相手でも一秒とて我慢していられない至近距離で、しかし互いに離れようとせずに目と目を合わせる。
先にふっと息を漏らしたのは夏希だった。
「何がお望みか」
その言葉は、どこか演劇めいた堅苦しいものだったが。
「何って、キスだけど?」
「そんなのは分かってる。でも君こそ、無理なのは分かってるはずだ」
分かってないけど。
いやまぁ、無理なら無理で仕方ないと割り切る用意はあるが……と、そういうことか。俺でも知っているような交渉の鉄則だ。
「無理を承知で吹っ掛けてきてるんだ。何を引き出そうって?」
「そこまで策を弄したつもりはないんだけどね」
「だったら尚更悪いよっ!」
叫ぶ夏希だけど、いいと言うなら吹っ掛けない範囲で望むとしよう。
……とは、思ったものの。
果たして他に何を望んだものやら。今しがたの言葉は嘘偽りない本心で、そもそも策を弄したわけじゃない。
したかったからキスをして、してほしいと思ったから求めただけだ。
こう思い返すと下半身で生きているような気がしてくる。これは良くない。親しき中にも礼儀あり、だ。
ここはそう、一方的な主張を押し付けるのではなく、双方納得できる丁度いい落とし所を見つけるべきだろう。
答えを探して見回した部屋の中、ふと覚えた違和感が自ずと答えを教えてくれる。
「あ、それじゃあ――」
提案したそれに、夏希は表情を凍りつかせながら。
「……ど、どうしてもって言うなら」
そう頷く以外の道がないことを、俺は心のどこかで予感していた。
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