11話 らしさなんて捨て去って
日曜日の駅は、普段とは違う顔色を覗かせていた。
平日は黒と白に身を包む人々も、週末は色とりどりの服で着飾る。
俺ももう少し考えればよかったかと慣れない服に目を落とすが、考えたところで分かるまいと諦めたことも一緒に思い出せた。中学までは短パンが基本だったのに、いつの間にか七分丈を穿くにも勇気がいるようになってしまった。
「別に変わった服装じゃないはずなんだけどな」
言い訳じみた独り言を零し、ほぅと吐息ともため息ともつかない息を続かせた。
少し早く着きすぎたのだ。
今日という日をそれほど楽しみにしていたつもりはない。ただ一方で、大切に思っていた自覚はある。それで電車を早めた。人身事故があれば無駄だが、多少の遅延なら巻き込まれても大丈夫なように。
けれど杞憂に終わった。
備えが無駄に終わるのはいいことだ。ましてや人の命が失われるよりはずっと。
ただ、お陰で一人手持ち無沙汰に考え込む時間ができてしまった。
ちょうど一週間前、この駅で出会ったのだ。
今となっては、あれを出会いと呼ぶことに遠慮や躊躇はいらない。女装した彼に、そうと知らず一目惚れした、勘違いだか思い込みから始まった俺たちの関係。
それが行き着くところまで来てしまったのか、あるいは今なお道半ばなのか。
後者であってくれたなら、と願う自分を見つけて苦笑する。
頭を振り、顔を上げたら自然と笑みが零れてしまった。心中の自嘲も、現実を前にすれば負け犬の遠吠えに等しい。
「ごめん、待った?」
手を振りながら駆け寄ってくる彼が、今や俺の恋人。
彼氏と呼ぶのはまだ若干の抵抗が残るけれど。
「あー、まぁそれなりには」
近付くのを待って正直に答えると、案の定、夏希は不満そうに目を細めた。
「違うでしょ、そこは『ううん、待ってないよ』って言うところでしょ」
「いやでも、夏希も俺が電車で来るのは知ってるんだから、この時間に来たってことは多少なりとも待ってることも筒抜けなわけで」
「ねぇ逢香? 予想は上方向に裏切るから意味があるんであって、下方向に裏切ったら普通に期待外れなだけだからね?」
面倒な観客である。
予想を裏切れと言いながら、裏切ったら裏切ったで文句を付ける。最初から期待に応えろと言えば済む話なのに。
まぁいいけど。
不器用だったり我儘だったり、天然だったりする相手には慣れている。
「じゃあ夏希」
「ん、なに?」
「周り見ようか」
言われるがまま、何かあるのかと辺りを見回す夏希。
その動きにつられ、夏用らしい薄手のカーディガンの裾が揺れた。丈が長い。膝くらいまである。街中で時々見かける他は、対談系のテレビ番組で俳優や何かが着ているのを見るくらいの代物。
随分と高そうだし、それ以上に着こなしが大変そうだ。よく着られるな。着こなせるな、と言い換えてもいい。
だからこそ、素直に思ってしまう。
「えっと、逢香?」
「あ?」
「急に柄悪いな君。……じゃなくて、周りがどうかしたの?」
「え、見て分からなかったん?」
言いながら、自分でも不安になって辺りを見回す。
行き交う人々のほぼ全員が入れ替わっているはずなのに、駅前の広場は相変わらず何一つ変わっちゃいなかった。
「……なぁ、この公衆の面前で『待った?』『待ってないよ』をやれと?」
「この公衆の面前で公開告白したのは誰だっけ?」
「忘れて」
「一生忘れない自信があるね」
その自信、俺にもある。
なんだったら俺や夏希じゃなくても、あの場に居合わせたうちの何人かは死ぬまで「そういや昔さ、人が大勢いる駅で――」なんて笑いの種にするのだろう。
軽く死にたい。
あの日、あの瞬間に戻って……あぁ、それでもまた繰り返すと断言できてしまう。
「まぁ、行こうか」
これが女相手なら、手の一つも差し出せたんだろうけど。
男相手にそれをやるのは、お互いのためにならない気がする。
とはいえ、何事も理性だけで片付けられてしまうなら、それこそそんなことを気にする必要もなかったわけで。
「……逢香、あのさ」
「言ってもいいなら言うけど、あれこれ気を回して言葉選べるほど器用じゃないよ」
拗ねた子供みたいな表情が寂しさの表れなのだと、短い付き合いであっても知っている。短くとも、浅からぬ付き合いではあった。
「それってつまり、本心から言うってこと?」
「本心からか、周りの目を気にしてか。迎合はできない」
「なら本心でお願いしたいんだけど、何を言ってくれるの?」
言ってくれる、と。
そう信じ込めてしまう辺り、この人は子供なんだろう。
あまりに頭が回りすぎて、物事が見えすぎて、正解を見通すのが当たり前になってしまったがゆえに、自分が間違える未来を想像しない。それは一歩間違えれば、世界は自分を中心に回っていると純粋に思い込む子供と同じだ。
「似合ってるよ、その服」
笑って、待ってましたとばかりの視線を見据え返した。
「すごくカッコいいと思う」
「ありが……んっ?」
「すごくカッコいいと思う。なんで俺もう少し真面目に服選ばなかったんだろって若干後悔するレベル」
「あー、えっと、それは褒めてくれてる……んですよね?」
「褒めてるよ」
見上げたところで何もあるはずのない、駅舎の天井を眺めてしまう。
「自分でも驚いてるんだけど、少し緊張してる。この人なんで全力出したんだろ、相手と行き先ちゃんと覚えてんのかな、とは思いもするけど」
膝まであるカーディガンを着こなす男とラウにゃーに行くのか、俺は。
昨日それを話した時に七瀬が見せた、あの怪訝そうな顔の意味を今になって知る。
大人の男だ。変な意味ではなく、自立した一人の人間。知性とは無関係のはずの眼鏡はそれでも知的な印象を与え、それなのに無邪気な笑顔は相反する幼さを抱かせた。そして時折、レンズの奥に泣きぼくろを見つけ、ドキリとさせられる。
不思議な人。
十秒も見つめていれば、きっと二度か三度は印象が変わる。
そして。
「好きだよ。夏希のそういう周りが見えなくなるところ」
その全てが魅力的に映ってしまうのだから、恋の病とはよく言ったものだ。
テレビの中の、椅子に座ってカーディガンの裾だけ垂らしているような若手俳優には何も感じなかったんだが。
「それじゃ、行こうか。立ち話してる間にバスが出ちゃう」
笑って言う。
差し出しかけた手は、掴まれる寸前に気付いて引っ込めた。
「……逢香って、もしかしなくても意地悪だったりする?」
「そうかな。言われたことはないけど」
「じゃあ、僕が言うよ。逢香はちょっと……ううん、すごく意地悪だ」
成長を感じる瞬間というのは、大抵が嬉しいものだけど。
重くて動かない身体に成長を実感してしまうのは皮肉なものだ。
ピピー、とタイムリミットを告げるブザーが鳴り響き、宙を舞っていたボールはリングに弾かれ落ちていった。
まぁどの道、このシュートゲームにブザービートはない。
それに並んだ得点は二十六対、二十一。圧勝というほどでなくとも、最後の一投でひっくり返る差じゃなかった。
「あー、負けたーっ!」
しかし、今まさに点差に気付いたらしい夏希は悔しそうに声を上げる。
「これで俺の三勝二敗だな」
「えっ、二勝二敗でしょ?」
「何を言うか。フットサル、バスケ、今のシュートゲームで俺の勝ち、バドとテニスで夏希の勝ち、三勝二敗だ」
「いやいや! 元サッカー部がフットサルで勝って嬉しい!?」
「嬉しい」
即答して胸を張ると、大人げないぞと年長者が口を尖らせる。
「ていうか、サッカーとフットサルは別物だから。フットサルがノーカンなら元野球部も手に棒状の道具持つ球技は全部ノーカンにしよう」
「必死!? そんなに僕に勝ちたいっ!?」
「勝ちたい」
「え、逢香に何かしたっけ、僕」
「バッセンの恨みは忘れない」
「あれ恨まれてるの!? 僕にとっては良い思い出なんだけどっ?」
「それはそれ、これはこれ」
元野球部が野球初心者の前でぽんぽん打ちまくった罪は重い。
言いつつ、笑って肩を叩く。それで夏希も我に返り、こちらに向かってくる中学か高校生と思しき男子の集団を見つけた。
男同士の二人なのもそうだが、それ以上にゲームが終わった後も居座り続けるのはマナー違反だ。
それで二人、どこに行くでもなく移動を始める。
「で、二勝三敗の夏希さん、次は何やりましょうか」
「敬語」
律儀にじろりと睨んで、何があったかなと記憶を辿る夏希。
「ボウリングとか?」
「二人で? 結構なハイペースで投げることになるけど」
あとボウリングは別料金である。まぁいいけど。
料金は気にしないにしても、やはりバスケ形式のシュートゲームで腕や肩を酷使した後のボウリングはキツい。夏希も腕が疲れているのは同じようで、早くも意識はボウリングから離れていた。
「でも他に何があったっけ。スカッシュとか?」
「おう元野球部。……っていうのは冗談として、ここにもあったっけ?」
「あれ、ないの?」
ラウにゃーは全国展開するチェーン店だ。
ゆえにCMやホームページで紹介されていても、店舗によっては利用できないケースも少なくない。ここはどうだったかな、とスマホを取り出す。
その間にも、夏希はうんうんと悩ましげに唸っていた。
「アーチェリー……はあったら話題になってるか。ピッチングとか?」
「ツッコミ待ち? いやフットサルを押し通した手前、ダメとは言えないけど」
「自覚あったんだ」
笑われ、笑い返し、さてどうするかと再び顔を見合わせる。
「でも対戦形式でできるのって他に……ん?」
しかし悩む俺とは対照的に、何か気付いた様子で夏希が顔を上げた。
「ねぇ逢香」
「んー?」
脳の半分を思考に割きながらの生返事で応じた直後――。
妙に冷たく、鋭い眼差しが突き刺さるのを感じた。
「これはデートじゃないね?」
いきなり何を言い出すか。
寝耳に水の思いでまじまじ見返すと、夏希は相変わらずのじとっとした視線で応える。
「えっと、僕たち今日が初デートだよね?」
「まぁ、バッセンは付き合う前だったし?」
何を言われているのかも分からないままに答えながら、ちらと辺りに注意を配る。
ラウにゃーのスポーツコーナーはネットでの仕切りが多く、視界は通りやすい。……が、それぞれのコートが広いため、声は視界ほどには通らないだろう。近くに人がいないことを確かめ、再び夏希に目を戻す。
少し不満げな、同時に悲しげでもある瞳で返された。
「やっぱり気になる?」
「なるというか、せざるを得ないというか……」
同性愛というものに、未だ世間は冷ややかだ。
どんなに相手のことを思おうと……いや、思えばこそ周囲の目は気にしなければいけない。俺はまだ学生で、どちらかといえば守られる立場にあるが、夏希は社会人だ。スーツを着ていたから、どこかに勤めてもいるだろう。
冷遇は、そのまま毎日の生活に影を落とす。
それを不当と叫んだところで、給料が出なければ生活は立ち行かない。
「だから?」
しかし夏希は、相変わらずの不満そうな面持ち。
「何が?」
「周りの目が気になるから……周りの目を気にして、こういうのばっかり選んでる?」
「こういうのっていうと、ワンオンワンとかシュートゲーム?」
「そう。別に仲良くはしてませんよーって」
いや、仲が良くなければ二人でラウにゃーなど来ないと思うが。
それこそ友人としても仲が良すぎ、傍目にも付き合っているのかと囁かれかねない。他にそれらしい可能性を考えてみても兄弟とか、叔父と甥とか、そういう関係性が浮かぶ。
「そういうつもりじゃなかったけど」
と言いかけ、ようやく不満げな理由を悟る。
「もしかして嫌だった? こういうの。結構楽しんでるように見えたんだけど、ごめん、俺の――」
「いえ楽しかったです」
「敬語ですか」
「すごく楽しかったよ、でもそれはそれとしてね」
それはそれ、か。
つい先ほど自分で口にした言葉で返され、思わず笑ってしまう。
「あー、デートらしいデートがしたかったとか?」
「……分かってるなら聞かないで」
「半信半疑だったから聞いたんだけど」
そうか、デートらしいデートがしたかったのか。
映画館で恋愛映画を見るとか、服を見に行って似合うだなんだと笑い合うとか。
思い浮かべた光景は確かに楽しそうで、実際やってみたら思っている以上に楽しいのだろうが、しかし。
「それじゃあ、やってみるか?」
言葉とは裏腹の内心は、これでもかと表情に出てしまったのだろう。
「嫌ならいいけど」
夏希は拗ねた調子でそっぽを向いてしまった。
「あぁいや、嫌ではない」
「じゃあなんなの?」
「まぁ正直、それ楽しいのかなーって。夏希となら映画を見るより話してた方が楽しそうだ」
「えっ、あ、うん」
鳩が豆鉄砲を食ったよう、とはこのことか。
何をそんなに驚くのかと見ていれば、見る見る顔が赤くなっていく。夏希の顔はすぐに赤くなる。自分でもそれに気付いて、またそっぽを向いた。落ち着きのない手が髪をいじる。
「逢香って……逢香は、よく言えるね、そんなこと」
どこか揶揄の混じる声。
だが答えは決まっている。
「こういうのは恥ずかしがれば恥ずかしがった分だけ恥ずかしくなる」
「逢香って実は経験豊富だったり……?」
そんなわけがない。
見ていて分からないかと無言で返すも、互いに目を逸らしたら負けとばかりに視線を合わせたまま時間ばかりが過ぎていく。
「それで、どうする?」
根負けしたのは俺だった。
二人して何と戦っているんだという気にもさせられるし、周りの目もある。夏希も恥ずかしがるのが恥ずかしくなってきたのか、表向きだけ毅然と視線を返してきた。
「逢香はどうしたい?」
「どうしたいって言われてもなぁ」
今まさに映画を見るよりは話していた方が楽しいと言ったばかりなのだが。
しかし、ただ話すだけというのも意外と難しいのが実情ではあった。立ち話はなんだし、かといってファミレスやら何やらに行っても周囲の目を気にしてしまう。
それならいっそのこと映画館でスクリーンに集中する方がいいのかとも思いかけた、その時だった。
「あっ」
「えっ?」
思わず零してしまった声に夏希がピクリと反応する。
悪い悪いと詫びつつ、スマホで時間を確認。とっくに十二時を回っていた。動き回ったせいで無視できない空腹感もある。
それでダメで元々と腹を括ってみることにした。
「そういや夏希って一人暮らし?」
「へ? まぁ、一人暮らしだけど……え、ちょっと待って」
この流れで一人暮らしかどうか訊ねる意味など一つしかない。
すぐに気付いた夏希だったが、それでもまだ頭が追い付いていないうちに畳み掛けた。
「どうせなら部屋で何か食べながらダラダラ見たいんだけど、夏希んち行っちゃダメ? うちは遠いし、どうしてもってわけじゃないから無理にとは言わないけど」
映画館で映画を見るのと同じくらい、互いの暮らす部屋でレンタルした映画を見るのも定番のデートだろう。
家族と暮らすことの多い中高生には厳しいデートプランでも、社会人相手ならハードルは低い。
「え、っと……、あの、うちワンルームなんだけど」
「無理なら無理でいいんだけど」
「無理じゃないよ? 無理じゃないんだけど……」
だけど、だけどの応酬に。
終止符を打ったのは、一縷の望みに縋るかのごときか細い声だった。
「……狭いよ?」
「男二人で足の踏み場もないくらい?」
ワンルーム。
よく聞く言葉でありながら、実際にどんな感じか見たことはない。
ただ、いくらなんでもベッドがあるだけのカプセルホテルよりは広いだろう。いつだったか夕方のニュースで紹介されたカプセルホテルを見て、世のサラリーマンはあんなところに泊まるのかと抱いた驚愕と戦慄は忘れ難い。
俺の心中を知ってか知らでか、夏希は意を決する面持ちで頷いた。
「じゃあ、僕はいいけど」
無駄な足掻きである。
何をそうまで渋るのかは、そして渋りながらも拒絶しないのかは分からない。
「なら、お言葉に甘えて」
殊更に笑ってみせ、その裏ではあれやこれやと思いを巡らせる。
帰りにはどこかでジャンクなものをテイクアウトするか、いっそポップコーンなりホットドッグなり買っていってもいい。
考えながら、一人苦笑する。
帰りには、か。
気が早いものだと笑い飛ばし、ちらりと夏希を見やれば。
向こうも向こうで、目を白黒させながら何事か考え込んでいた。まさか今のこの電子の時代に大人なビデオや雑誌を散らかしているわけでもあるまいが、そういうのを見つけてしまったらどんな顔をすればいいんだろう。
考え、やはり苦笑する。
「これは案外、思ったより楽しいかも」
我知らず呟くのと、隣から恨みがましい視線が突き刺さるのは、ほとんど同時の出来事だった。
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