10話 そして彼らは歩き出す

 その店は騒々しさに満ちていた。

 カチャカチャと食器や箸が触れ合い、ズルズルと麺が啜られる。

 店主の怒号にも似た威勢の良い声が厨房から聞こえ、それに負けじと店員や客たちの会話が飛び交う。

 ともすると味わって食事なんてできないほどに雑音だらけの店内だが、スープを一口含めば喧騒など吹き飛んだ。

 美味い。

 香りから分かってはいた。

 しかし想像以上だ。

 スープは熱く、適度に冷ましたつもりが舌に触れた直後は、ただ美味いと感じるだけ。だが熱さに慣れ、飲み下そうとした瞬間、迸った旨みがガツンと脳を揺らす。

 美味い。

 馬鹿の一つ覚えみたいに呟き、もう一度スープを味わってしまう。

 背脂の、少しでも間違えたら臭みにしかならない旨みと香りが鼻へと抜けた。白濁とした見た目に抱いたほどのしつこさはない。それでいて、あっさりしているわけでもなかった。

 甘いスープを、程よい塩味が味を引き締めている。

 細い縮れ麺を啜れば、やはりそうだ。全粒粉のそれだろうか。特有の食感が歯ごたえを単調にさせず、麺に存在感を出している。絶妙なスープに決して負けない。

 計算された必然の相乗効果が箸と、それを繰る手に休憩を許さなかった。

 一口含めば、すぐに二口目が欲しくなる。時には飲み下す前から頬張ってしまって、だが、それでも美味いのだ。

 水を飲みたくない。ずっと味わっていたかった。

 麺が見る見る減っていく。

 丼の底を浚うようにして摘んだ最後の麺を食べてしまうと、どろりとしたスープだけが残った。

 ごくり、と我知らず喉が鳴る。

 それはダメだ、と理性が叫んだ。

 だが本能は止まろうとしなかった。手がレンゲを離れ、丼に伸びる。

 と、しかし、そこで目が釘付けになった。

 テーブルを挟んだ向かい側。

 鮮やかな紅の、それ。

 紅生姜である。

 彼女はそれを、僅かだがまだ残っていた麺の上にぽんと置いた。不意に視線が持ち上がり、目と目が合う。

「……なに」

 怪訝にも苛立ちにも聞こえる声。

 それでも躊躇ってはいられなかった。

「合う?」

 端的に問うと、彼女はあぁと曖昧に視線を逸らす。

「まぁ、私は」

「んじゃあ」

 いくらなんでも背脂が溜まった、冷めてしまってくどさも出てくる豚骨スープをダイレクトで飲むのは厳しいものがある。紅生姜で中和し、また違った味を楽しむのも一興だろう。

 卓上のそれを一摘み頂戴し、箸で簡単に馴染ませる。

 そして手にしたレンゲで一口、静かに味わった。

 あぁ、これは美味い。

 一口目の衝撃には及ばないながら、その一口目との対比が憎いほどに利いてくる。

 もっと早くこうしておけば……。いやしかし、そうしたら元のシンプルでいて味わい深い絶妙なスープを十分に堪能できなかったかもしれない。

 脳が揺れる。

 答えは出なかった。唯一、禁じ手的な鬼札を除いて。

「また来よう」

「そんなに気に入ったんだ」

「予想以上だった」

 笑い、足りない言葉に思い至る。

「美味い店を教えてくれてありがとう。これはいい」

 言うと、向かいに座った彼女――七瀬は柔らかく微笑んだ。

「そりゃどうも。そっちも奢ってくれてありがとね」

「お安い御用だ」

 笑ったまま頷く。

 高校生の財布には決して安くはないラーメンだった。だが後悔も不満もあるはずがない。

 どうして俺が七瀬に奢らなければいけないのかは未だ謎ではあるにせよ、迷惑料に紹介料と考えれば一二〇〇円は安いものだ。

 あれが最後の一口になるだろうか。

 じっくり味わいながら食べている七瀬を見つめるのも悪い気がして、そっと視線を店内に巡らせる。脂の匂いに満ちた店内は、当然と言うべきか男性客の姿が目立った。額から流れる汗を構いもしないで丼にかぶりつく姿まである。

 その彼が手にしたのはなんだろう。

 卵? コンコンと丼の角で割っている。いくら醤油や塩に比べて味の濃い豚骨とはいえ、生卵が合うものか。どんな反応を見せるのかとじっと見据え、驚くべき光景を目の当たりにさせられた。

 違う、生卵じゃない。あれは温泉卵か。

 なるほど、そういう手が……。

 次に来た時は必ず注文しよう。絶対に美味い。美味くないわけがない。あれが美味くなかったら――

「おいお前」

 鋭い声が思考を断ち切った。

 なんだ、今いいところなんだ、と視線を前に戻し、ラーメンでかいた汗が急速に冷えていくのを感じる。

 七瀬が妖気すら漂わせんばかりの冷え切った目で俺を見ていた。

「やっぱ男が好きなん?」

「なんでそうなる」

「や、おっさんに熱視線送ってたから」

「おっさんじゃない、温泉卵だ」

「は? 確かに太って……あ、温泉卵って温泉卵か」

「当たり前だろ。俺をどんな失礼な人間だと思ってたんだ」

 いくらなんでも人を温泉卵呼ばわりはしない。

 向こうも半ば冗談だったらしく、すぐに表情を切り替えてきた。

「で?」

 しかし続く言葉は、あまりに要領を得ないものだった。

「……で、とは?」

 一言どころか一音で終わってしまった言葉に、仕方なく質問で返す。

「や、だから、話の途中でラーメン来たじゃん?」

「……? そうだったっけ?」

 あまりにラーメンに夢中になってしまった自覚はあった。

 それで即答はできず、記憶の海へと思考を漕ぎ出す。

 どこまで話したかな。

 最初に会ったのは、待ち合わせていた駅だ。そこから七瀬の案内でラーメン屋まで来る道中、話したことといえば他愛のないこと。そうは言っても部活の、特に三送会のことは後回しにもできない。明確な期限がある。

 どこかの店に頼むならそろそろ話を通さないと間に合わなくなる、と話していた辺りで店に着いた。

 お好きな席へ、と言われて七瀬が座り込んだのはテーブル席。店内は狭く、L字のカウンターの他は、窓にへばり付くような二人掛けのテーブルがあるだけだった。その一番奥である。

 そして七瀬にオススメを聞いたところで三送会の話を切り上げ、話は遂に本題へ。

 あの日――。

 俺たち三人、電車に揺られれば数分とかからない駅と駅の間を歩いた、その後。

 七瀬を帰してから何があったのか、流石に踏み込んだことまでは言わないにしても、あの日あの場所に居合わせた親友に必要な説明をしてきた。

 注文した豚骨ラーメンがテーブルに運ばれてくる少し前、どこまで話していたかを思い出す。

 山道での出来事。

 俺たちは言葉を費やし、そして……。

「で、その後はどうしたわけ?」

 男友達が年上の男とキスをした話のどこにそんな興味を惹かれるのだろうか。

 いや、実のところ一つだけ可能性には思い至っているのだが。しかし、七瀬に限ってそんなことがあるだろうか、と考えてしまう。とはいえ誰しもに趣味の自由はあるはずだ。

 詮索へと踏み込みかけた思考を引き戻す。

「どうしたと言われても」

「言いづらいこと」

「そりゃあ、まぁ」

 キスをした。

 そう一言で言ってしまえる、けれど言い尽くせはしない二人だけの時間の後。

 俺たちは。

「まぁ有り体に言うと」

「言うと……?」

「まぁ、そこで解散したわけだが」

 何をどう言い繕っても、それ以外の結論には辿り着けない。

 なにせ、過去の出来事である。タイムマシンでも発明されない限り、既に起きてしまった結果を覆すことは不可能だった。

「え、……えっと、ごめん、逢香」

「おう、なんだ、どうした」

「聞いていいのか分かんないんだけど」

「ここまで聞いておいてか」

「そうだよね、うん、そうだ」

 自分に言い聞かせるように呟き、深呼吸までする七瀬。

 だが、悲しいかな。

「えっと、そういうことをしてから?」

「いや、特にそういうこともなく」

「…………」

 なんだよ、その目は。

 沈黙する七瀬の眼差しは、今までに一度たりとも見たことのない色を帯びている。七瀬はこんな顔もできるのか。というか、人間の表情としても今まで見たことがない気がする。

 どういう感情なんだろう。

 憐憫とも違う、呆れや喜びにも似た何か複雑な、あるいは矛盾さえも混ぜ込んでしまった謎の眼差し。

「や、そのー、さ」

「言いづらいことなら言わなくていいぞ」

「確かに言いたかないんだけど、言わないとなんか、小骨がずっと刺さってそうで」

「そうか」

「そうだ」

 そして再びの沈黙。

 カチャカチャ、ズルズルと今思えば不愉快な雑音が二人の間を漂い続けた。

「……えっと、そのまま何かしたんじゃないの?」

「外でするとか変態かよ。それ以前に犯罪だぞ」

 俺がこうも冷静に即答できた理由。

 それは言うまでもない。

 あれから散々考え、考えに考えに考え抜いて、他にどうすればよかったんだと言い訳がましく叫ぶしかないことを悟ったからだ。

「え、でも、付き合ったんでしょ、結局」

「そうなるな」

「で、ねぇ、その……なんでも、的なことを」

「言われたな」

「じゃあ、なんで?」

 なんでも何も、答えは一つしかないだろうに。

「だってほら、夏希の思い通りになるのは嫌じゃん?」

「なれよっ! そこはなれよ、思い通りにッ!」

 叫んだ。

 あの七瀬が、いくら雑音に満ちているとはいえ、この狭い店内で。

 ついでにバンと手を叩き、椅子を押しのけるようにして立ち上がってしまったために、店内の至るところから痛いほどの視線が突き刺さりまくる。

 そして厨房から、咳払い。

「あっ……すみません」

 咄嗟の謝罪は、毅然とした七瀬にあるまじき消え入りそうな声だった。

「すみません、本当に……」

 俺も席を立って頭を下げながら、ちょいちょいと指の動きだけで七瀬を呼ぶ。

 そのまま二人、逃げるように店を出た。

 幸い食券式だったから、会計で足止めもされない。

「……今のは私がごめんなんだけど」

 店の窓からも見えないようにしばらく逃げ続け、吹き出した汗もようやく落ち着いてきた頃。

 未だ混乱が続いている様子の七瀬が口を開いた。

「普通さ、そこで意固地になる?」

「意固地っていうか、ほら、元カノさんとはそれで別れちゃったわけだし」

「そういう話になるかなぁ?」

 疑念の声音に、返す言葉は何もない。

 どこに行くという予定もなく、歩くために歩きながら話は続ける。

「まぁ、そこは夏希自身も分かってないところだろうし」

「だったら逃げなきゃよかったじゃん」

「逃げたわけじゃない。断じて逃げたわけじゃない」

「でもその後すぐに解散したんでしょ?」

 グサリと突き刺さる言葉。

「あれは違う」

「言い訳するんか」

「言い訳する権利が俺にはあるっ」

 叫びそうになって、咄嗟に声量を抑え込む。

 こほんと咳払いを一つ。

 それから、また七瀬に視線を戻した。といっても横に並んで歩く二人だ。ずっと見ているわけにもいかず、目が合うのは稀だった。

「逃げたのは夏希の方だ」

「……はい?」

「自分でもなんて言ったのかよく覚えてないけど、どうにか冷静になって引き剥がしたところで夏希も我に返って……ていうか多分、我慢してた恥ずかしさが一気に出てきて逃げ出そうとしたんだよ」

 あれには脱兎の二文字が脳裏をよぎった。

 一瞬にして身を翻した夏希を逃がさず引き止められた理由は、足場が俺に有利な山道だったからだろう。いや、俺に有利な足場ってなんだ。バトル漫画か何かか。

 幼き日に夕方の再放送で見た、ピンヒールが側溝の蓋か何かに挟まってしまって恋人を追いかけられなかったヒロインを思い出す。

 恋愛とは、とかく足元にまで気を付けないといけないものらしい。

「それであの人、どうしたん?」

 そういえば、どうなったんだっけ。

 咄嗟にヒロインのその後を思い出そうとしてしまって、いやいや違う、と記憶の引き出しを仕舞い込む。

「腕掴んでもまだ逃げようとしたから、連絡先くらいは交換しようって、そうしなきゃまた学校まで来る羽目になるって言って連絡先だけは交換した」

「だけは?」

「連絡先を交換してるうちに俺もどうすりゃいいのか分からなくなって、まぁうん、そのまま解散という運びに……」

「運びに、じゃねえが?」

 だが待ってほしい。

 自信満々に胸を張って言うことじゃないが、俺はこれでも恋愛初心者だ。彼女いない歴イコール年齢のまま、人生初の恋人である彼氏と付き合うに至った身の上。

 そこでリードすべき恋愛経験者にして年長者でもある夏希が逃げの一手を強行しようとしてしまったらどうなる。何もかも埒が明かなくなるに決まっているだろう。

「なに開き直ってやがる」

 しかし七瀬は容赦がない。

 人の心を読むがごとく鋭い声で吐き捨て、あまつさえこれ見よがしにため息までつく始末。

「で?」

「で、っていうと?」

「や分かるだろ。その後は?」

「その後、といいますと?」

「喧嘩なら買うが?」

「すんません、通話なら何回か」

 たった数回の通話と笑うなかれ、それでも難行だったのは言うまでもない。

 俺は未だに夏希の職業も知らないのだ。夜に通話していいものか、朝が早かったら迷惑じゃないか、と考えているうちに夜は一層更けていく。そうかと言って、なんの仕事してるんですか、とは通話でできるほどの世間話でもない。

 じゃあ直に会った時の方がいいのかな、なんて先送りにしたら、また通話するタイミングに悩む始末だ。挙げ句、向こうも向こうで似たようなことを悩んでいるのか、互いに相手からの着信待ちになって時間だけが過ぎていく。

 それでも何度か通話しただけ褒めてほしい。

「なぁ逢香」

 だが七瀬は、やはり甘えを許してはくれなかった。

「今日、何曜日だっけ」

「ええと、ですね……」

「今日はもう土曜日なんだよ。おかしいな、私がお前らに付き合ったの、確か火曜日なんだけど」

 あれから水と木と金、つまり三日が過ぎ去っている。

 いや待て、まだ三日だ。

「もう三日なんだよ」

「人の心を読むな」

「ちなみに何回かの通話って、具体的に何回?」

「いやぁ、それは――」

「覚えてねえわけねえだろ付き合いたてのくせに」

「二回です」

「なんで日に一回もしてねえんだ喧嘩売ってんのか」

 売ってません。

 そして何がここまで七瀬を怒らせるのか。もしかして女の子のそういう日なんだろうか。あまり詮索はしたくないけど、男女混合の運動部にいれば嫌でも影響を感じてしまうものだ。一歩引いたところから俯瞰できるマネージャーの特にそうだろう。

「はぁー……」

 しかしまぁ、これは違うか。

 七瀬は自分がはっきりした性格なのもあってか、どっち付かずの曖昧な態度を嫌うところがある。

 あれだけ大見得を切っておきながら煮え切らない俺たちの現状に、腹を立てても不思議はない。ただ、俺たちは俺たちだ。不愉快なものを見せてしまったなら謝れるが、だからといって言う通りにはなれない。

「悪いな、少し熱くなった」

 七瀬もそれを察せられないほど頭が回らないわけじゃなかった。

 俺が七瀬を思っているように、七瀬も俺のことを単なる友人以上の仲に思ってくれていると驕ってもいいのだろうか。だとしたら、それは嬉しい限りだ。有り難いことでもある。

「こっちも悪い。でも……っていうのも変だけど、一応デートの約束はしてるから」

「デート? いつ?」

「明日」

 週末の練習は大抵が土曜日だと言ったのを覚えていてくれたんだろう。

 その日曜日……明日は部活もバイトもなかったし、向こうからの提案を断る理由もない。仮に先約があっても、電話口に謝り倒して夏希とのデートを優先したけど。

「へぇ、そっか」

 七瀬はなんとも複雑な表情で頷き、それから首を振った。羽虫か何かを追い払うみたいに。

「どこ行くん? って、こういうの聞いちゃっていいんかな」

「聞かれて嫌なことは嫌っていうし、そもそも答えないから気にするな」

 嫌なことを嫌と言えるからこそ、俺たちの仲は続いてきた。

「ん、そうだな」

 今までのことを思い出したのか、七瀬は満足げに頷いて先の言葉を繰り返す。

「で、それじゃあ行き先は?」

「ラウにゃー」

「は? ラウにゃー?」

 しかし、返した答えには怪訝な面持ち。

「え、ラウにゃー知らない? ラウンドにゃー。ほら、あのフットサルとかテニスとか色々できるところ。ゲーセンとかも入ってるんだっけ」

「いやラウにゃーは知ってるけど。あそこってデートで行くところ?」

「行くところだろ? 確か二組の……名前なんて言ったっけ、まぁ誰だったかも彼女と行ってたって噂になってたし」

「高校生同士のデートと一緒にするか?」

 するか、と聞かれても俺にはなんとも答えられない。

 恋愛経験とか以前に、そもそも俺自身が高校生だし。わざわざデートスポットを調べるような趣味もなかったから、必然的にそうした知識は乏しくなる。

 対して、夏希はどうか。

 中学時代の恋愛と呼んでいいものかも怪しい交際経験もあって、どこか距離を置いていたような感じだ。会社か何かの帰りにバッティングセンターに寄るような人だし、小洒落たデートスポットなんかに詳しいとは思えない。

「まぁ他の人はどうだか知らないけど、夏希と行けば楽しめるとは思う」

 他人がなんと言おうと、結局のところ当人たちが楽しめなければ意味がない。

 その点、ラウにゃーなら楽しめないわけがなかった。これは断言できる。

「それってやっぱり、好きな相手と行けばってやつ?」

 興味がなさそうに七瀬は言った。

 それもあるだろう。夏希とならどこでも、きっと楽しい時間を過ごせるはずだ。

 だけど。

「こればっかりは違うかな。多分、結構楽しいよ」

「どうして?」

「いやいや、考えてもみてくれよ」

 俺と夏希でラウにゃーに行く。考えるだけでワクワクしてきた。

「前はバッセンとかいうアウェイで惨敗したけど、ラウにゃーならフットサルできるからな。次は勝つ。必ず勝つ。徹底的に叩きのめして野球部に目に物見せてやる」

 俺は今、燃えているのだ。

 その熱に気圧されてか、七瀬が半歩ほど離れながら驚きの眼差しを向けてきた。

「なんていうかさ、逢香」

「おう、勝つからな」

「……うん。まぁ、そうだな、頑張れ」

 諦めの混じる、それでいて晴れやかな笑顔に。

 俺も笑ってしまって、二人でしばし、言葉も交わさずどこへともなく歩いた。

 そして、七瀬が足を止める。

「逢香」

 余計に進んでしまった分だけ距離が生まれ、それを埋めようと振り返る。

 踏み出しかけた足は、後ろだった前へと進んではくれなかった。

「応援してるよ、あんたのこと」

 その声には、言葉には違和感があった。

 けれど正体は掴めず、たった一歩か二歩の距離に流され消えてしまう。

 残された道は、だから一つしかなかった。

「おう、ありがとうな」

 きっと今、俺たちは何かを取り零した。

 それは珍しいことなんかじゃなくて、誰しもいつでも何度でも、そうやって取り零しながら歩いていくのだろう。時に気付いて、時に気付かず、だから大切な何かだけは零すまいと必死に抱え込んで。

「じゃあ、ここでお別れだ」

「……? 急だな。駅まで行かないのか?」

「あぁ。ここからならバスの方が近いから」

 そうか、という返事を待とうともしないで、七瀬は背を向けた。

 すたすたと淀みのない足取りで遠ざかっていく背中を見送り、再び振り返る。

 俺の帰る道は、こっちだ。

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