8話 答え

 頭は冷えていた。

 夜風を浴び、少し寒いほど。

 部活で汗を流したはずの七瀬が心配だったけど、それと同じくらい、七瀬なら大丈夫だろうと思っていた。自己管理を疎かにする選手は伸び悩む。

 たった一年半……いや、違うな。

 サッカークラブから今に至るまで、多くのスポーツに励む同世代を見て気付いた。自己管理も努力のうちだ。ボールを蹴るのが楽しいだけで通用するのは小学生まで。

 涼しすぎる風に流され、漂うままに歩いていたかのような足取りに終止符を打つ。

 苦労と努力はイコールで結ばれない。

 だが、楽しいばかりで何もかも上手くいくわけもなかった。

 想像通りで楽しくなかったから、だから別れたと夏希は言う。

 であれば――。

 俺を好きだと言ってくれた理由は、その裏返しなのだろう。

「人混みの駅でいきなり告白されるなんて、そりゃ想像はしないよな」

 長く続いた沈黙を切り裂く。

 七瀬がほぅとため息にも似た息を零した。隣では夏希が首を振っている。否定、ではない。駄々をこねる子供のような仕草だった。

 あぁ、嫌になる。

 それでも俺は、そんな仕草を愛おしいと思ってしまうのだから。

「昨日もそうだった。女装姿見て告白した男が、まさか男だと知った上で、男の格好してる相手に告白なんてするとは普通思わない」

「それだけじゃない」

「校門でのこと? まぁ同じことだ」

 驚かされて、嬉しかった。

 彼はそう言ったし、その時既に答えを告げていたのだ。

 期待と信頼は相容れない。

 よく期待を裏切るという謳い文句があるけど、あれと似たようなものか。期待通りの結末では納得しない。期待を裏切る、どんでん返しに次ぐどんでん返しでなければ満足できない。

 彼は観客、俺は監督。

 厄介な客を持ってしまったものだ。映画ならジャンルを変え、別の顧客層を狙ってもいいだろう。だが俺にとって観客はただ一人、夏希だけだ。

「無謀だなぁ」

 笑ってしまう。

 情熱だけで撮った低予算ムービーがヒットしてしまった映画監督の気分だ。

 良い意味で期待を裏切れたとしても、それは持て余す思いのままに空回りした結果でしかない。

 もう一度笑う。

 今度は笑い飛ばすつもりで。

「この話、これ以上続ける意味ある?」

 不意に足を止めた七瀬が呟くように言い、視線を明後日の方に向ける。

 釣られて目をやると、見慣れた駅があった。歩いた距離を知ってしまい、足がこれ見よがしに悲鳴を上げる。

「もういいだろ、終わりにしても。答えは出てる」

「待って。話はまだ――」

「いや、七瀬の言う通りだ」

 答えは出ている。

 どんな逡巡も、その現実を前にすれば意味をなさない。

「逢香! 違うんだよ、話を聞いてっ!」

 声を張り上げる夏希の姿に七瀬が眉を顰める

 次いで俺に向けられた眼差しに、なんと答えるべきか悩んでしまった。疑いのない瞳。それが痛いほどに心を刺す。

「七瀬」

「ん」

「先に帰ってくれ」

 たった一言。

 それだけの言葉を吐き出すのに、途方もないエネルギーを要した。

「は? 逢香、お前なに言って……」

「答えは出てる。確かに、その通りだ。だからこそ聞く。一昨日、あの駅で、お前がやろうとしていることは間違いだと言われたとして、俺が冷静になれたと思うか? そうだな、間違ってるよなって、そんな風に納得する俺が想像できるか?」

 断言できる。

 再会した彼のどこに惚れたのか言葉にできない俺だけど、どうして駅であんなことをしでかしたのか分からない俺だけど、これだけは断言できてしまうのだ。

 理由が分からなくても、俺はその感情に抗えない。

 抗うことを、認めはしない。

「答えなんか最初から出てる。俺の答えは。だから待ってるんだ、待っててほしいと言われたまま」

 声に苛立ちが混じるのを自覚した。

 何がこんなに腹立たしいのか。待たされていること? 七瀬がやけに首を突っ込んでくること? こんな風に話さなければいけないこと?

 どれも違う。

 俺はただ、待つことしかできないことに苛立っていた。

 試合開始をじっと待っている時の焦れったさを思い出す。何かできることがあるはずなのに。きっと俺より上手い、素晴らしいパフォーマンスを見せる選手は何かしているはずなのに。

 俺には、ただ待つことしかできない。

 知識がなく、足りないそれを補う努力をしてこなかったから。

「七瀬は帰ってくれ。邪魔だってわけじゃないぞ。時間が時間だ。お前は自分が女だと自覚した方がいい」

 最大限に気を遣って言ったのだが、返されたのは冷たい眼差し。なぜ睨む。優しくしたら怒るだろうに。

「その自覚はあったつもりだけど」

 そこかよ。

「だったらこんな時間まで付いてくるなよ。これでも男二人だぞ、自覚を持て」

「お前こそ自覚を持てよ!」

「なんのだ!」

 売り言葉に買い言葉。

 叫び声の応酬になりかけたところに、さっと手が割り込んでくる。

「まあまあ、二人とも落ち着いて」

 元凶がいけしゃあしゃあと。

 しかし、そうまで我を忘れられるほど幼くはなかった。嫌でも周りを見てしまう。周りの目を気にして、すっと腹の底が冷えていくのも自覚できた。頭を振る。

「そもそも俺たちの問題なんだ。心配してくれたのは有り難いが、巻き込むのは本望じゃない。犬も食わない話を食わされたくはないだろう」

「もう夫婦のつもりか」

「言葉の綾だ!」

「ねぇ逢香、この場合はどっちがお嫁さん?」

 興味津々の眼差しで口を挟まないでくれ。そのボケはスベっているし、何より俺が一番不安なところだ。ノンケ二人が一緒になって何をどうするつもりなんだ本当に。

「逢香、落ち着け」

「誰のせいでこんなことになってると思ってる」

「実はほとんど自業自得だ」

「分かってる!」

 控えめに叫んで、ふぅと息をつく。

 深呼吸の習慣はスポーツをやっていれば自然と身に付くものだろう。火照った全身に冷めた感情が行き渡り、乱れた思考を落ち着かせる。

「とにかく、これ以上に赤っ恥な話をお前の前でさせないでくれ」

 それを言ってしまうのが何よりの恥だった気がする。というか、だから言いたくなかった。察してほしかった。肝心なところで鈍い女、それが遠藤七瀬か。

 何故か二人の視線が冷え込む。

「……待て、冷静に考えてほしい」

「私は冷静だったつもりだけど」

「だったら分かるだろう!? お前が心配したようなことはなかった。騙すならもっと上手く騙してる。少なくとも警戒して付いてきた七瀬の反感を買うような態度は取らない」

 この上なく理路整然と、七瀬が帰っていい、帰るべき理由を説明したのに。

 ……なのに、どうして夏希まで一緒になって憐憫の眼差しを向けてくるんだ。

「逢香、それって本気で言ってるの?」

「連絡先知らないからって学校まで来る男に不安を抱く気持ちは理解したつもりだ」

「……ほんと信じられない方向に裏切ってくれるよね」

 どこで何を間違えた。頼むから教えてほしい。

「逢香といると飽きないよ」

 その言葉と表情は悪役のそれである。

 七瀬までもが額に手をやり、急な頭痛に耐えるかのように口元を歪ませていた。

「分かった。分かったから、今日は帰る」

 なんで俺が駄々をこねたみたいになっている。

「だけど代わりに約束して」

「なんだ」

「まず平さん。今日ちゃんと答えるように」

 早くも約束の体を失い、命令じみた口調になった気がする。

 だが夏希は真正面から視線を返し、ちらと横目で俺を見てから口を開いた。

「大丈夫、僕も答えは出したから。あとは逢香次第」

 その答えは出ていると言った直後である。

 そして、それは既に答えを教えているも同然ではなかろうか。睨まれた。二人から同時に。どうも俺の表情は分かりやすいらしい。

「それと逢香」

「うむ」

「ダメだったら教えて。飯食いに行こう」

「分かっ――」

「ダメじゃなかったら教えなくていいから、私に飯奢れ」

「意味分かんないんだけど」

 ダメじゃなかったら……ということはOKだったらか。

 迷惑料的な? それとも幸せ税?

 まぁどちらにせよ、俺は後日、七瀬と飯に行くと。

「え、これってダメだったら奢ってもらえるやつ?」

「失恋するとラーメン一杯無料」

「すまん、割り勘にしよう」

 全然割に合ってないわ、そのキャンペーン。

 むしろ二杯でも三杯でも奢るから成就させてくれ。そのラーメン屋、絶対に繁盛するから。

 面白くもない冗談を笑い飛ばし、ここまで付いてきてくれた親友に視線を返す。

「まぁ、どうあれ感謝する。それと付き合わせて悪かった」

 七瀬も視線を返し、微笑もうとした。

 そして失敗したのは、どうしてなのだろう。

「そうだな、こういうのは二度と御免だ」

 帰るよ、と返事を振り払うように手を振った七瀬。

 その背中は、今まで見たどんな姿より小さく見えた。強い違和感。何かを取り違えた感覚。遠ざかる背を追いかけ、肩を掴んで顔を覗き込めば、そこに答えは見つかったのだろうか?

 足は、踏み出せなかった。

「いいの?」

 彼は何を問うているのだろう。

 拒絶した背を、それでも追いかけることなど、できるはずがなかった。帰れと言ったのは俺で、七瀬はそれに従ったに過ぎない。

 そんな簡単なことではないと知りながら、ただ違和感だけでは足が動いてはくれなかった。

「少し、移動しましょう」

 答えの代わりに踵を返す。

「駅前は、やっぱり目立つんで」

「それじゃあファミレスとか?」

「ファミレスでできる話ですか?」

 答えは聞くまでもなかった。

 まぁ幸い、ここは歩き慣れた土地である。随分と久しぶりになるけど、迷うことはないだろう。

「近くに昔よく行っていたところがあるんですよ。今の時間帯なら人もいないでしょうし、話をするには打って付けかと」

「人のいない……」

「や、そういう意味じゃないんで心配しないでほしいんですけど」

 これ、俺が言う側かな。

 思いながら、しかし思い直す。

 夏希は女装こそしていたものの、現に異性と付き合った過去のある男。そして同性に欲情したこともないとなれば、むしろ男と知って告白した俺の方が過ちを犯しかねないように見えるだろう。

 事実、答えを待っている間にも、わざわざ呼び捨てにした。

 浮かれて、そして……。

 これは期待だろうか、それとも信頼だろうか。

 言葉はいつでも数多の意味を孕んでしまう。単純化した言葉は、単純化してしまったがために取り違えることも多い。

 恋、と。

 たった一文字、声に出しても二つの音にしかならない言葉に、どれほどの意味が込められていることか。

「話の続き、してもいい?」

 歩き始めた矢先、夏希がおずおず問うてくる。

「それは着いてからお願いします」

 話の途中で着いてしまって、中途半端に途切れるのも気持ち悪い。

 かといって道中を沈黙のまま歩くのも居心地が悪く、我知らず頭を掻いていた。

「あー、驕ってもいいですか」

「奢る? あ、思い上がるの方?」

「そうです」

「どうぞどうぞ」

 冗談めかして返された笑みに勇気を貰って、あー、ともう一度喉を慣らす。

 思い浮かんだのは、奇しくも昔話だった。

「七瀬が知っててあなたが……夏希が知らないのはアレだと思うんで、まぁ、小中とサッカーやってた俺が陸上部でマネージャーやるに至った話でもしましょうかと」

 答えを待ったつもりはなかった。

 しかし、どう切り出せばいいか迷った隙間に、彼が声を挟んでくる。

「でも一つ、お願いしてもいいかな」

「なんですか?」

「敬語、やめてほしいな」

 言われて、また頭を掻いてしまった。まずいな。癖になりそうだ。

「さっき少し敬語じゃなくなったけど、それが思ってたより嬉しかったんだよね」

 にへらと笑う姿に、やはり頭を掻く。

 これは、癖になるやつだ。

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