7話 裏切りは甘く香る
夜の街、という表現がある。
卑猥なものを連想してしまう表現だが、現に今、俺たちが歩く道を他にどう言えばいいだろう?
日が落ちた後の街、とか?
それは面倒臭い。
言葉は時に多くの意味を孕みすぎ、本来の意味を失ってしまう。
誰かと話す時。
こと、大切な何かを告げる時。
嫌でも無駄なもので飾られてしまう言葉を、敢えて飾ろうとするのは間違いだ。
「一目惚れした。それが全てで、それ以上でも以下でもない」
口の中で転がしていたものを、そのまま吐き出しただけの声。
だけど俺は、それ以上の言葉を持たなかった。
「綺麗だと思った? 魅力的に感じた? 分からない。ただ心を奪われた。この瞬間を逃せば後悔すると、考えるより先に知ってしまった。我に返ったのは告白した後だ。男だと言われても、もしかしたら自分が告白した以上の驚きじゃなかったかもしれない」
夜の街を歩きながら話した。
何人もの見知らぬ誰かとすれ違ったが、その誰もが俺の言葉を最初から最後まで聞き取ることはないだろう。
聞かれて困る話は歩きながらするもんだと教えてくれたのは誰だったか。スパイ映画に出てくる上司役だっただろうか。まぁ、誰でもいい。役に立ったと礼を言おう。
「だから今、どうすれば幻滅するかと聞かれても、俺には答えられない。惚れた理由が分からないんだから、それを打ち消す理由も分からなくて当然だ」
消費税の計算なら簡単だ。なにせ掛け算である。税込みの値段から税抜きの値段を導くには割り算すればいい。
掛け算を打ち消すのは割り算。そうと相場が決まっている。
同じような方程式が俺の中にもあるのだろうか、人の心にあるのだろうか。
「教えてやろうか?」
声を返してきたのは七瀬だった。
楽しげな声に、自分でなんと言って頷いたのかも定かじゃない。
「恋に恋したんだよ、お前は。なんだったら最初の一目惚れも想像はつく。相手が女じゃなかったからだ。綺麗な女に見えるのに、どこか違和感がある。だから意識に留まった。それを恋と勘違いしただけなのに、お前はその恋にこそ恋をした」
笑う声が、問うてくる。
「違うか?」
さて、どうだろうな。
俺の答えは変わらない。分からないんだ、誰より俺自身のことが。
「随分と夢のないことを言うんだね、七瀬さんは」
「お世辞ならともかく、そうでない言葉を粉飾してどうなります?」
「それが恋愛でしょ? なんでもないことを喜んで、当たり前の言葉を彩って、有り触れた日常を自分たちだけの特別な物語みたいに欺くのが恋愛だよ」
夢がないと言った彼の方が夢のないことを言っている。
それが面白くて笑ってしまったら、二人が振り返ってきた。
夜の街は意外に人通りがあって、三人が横に並んで歩くと邪魔になる。誰が言い出したわけでもなく、俺が後ろで、二人が前を歩く格好になっていた。
「だとしたら夏希さんは、もう俺との恋愛をやめてしまったわけですか」
笑い声のまま言ってみる。
どすり、と鈍く重いものが胃の底で転がった気がした。
「どうかな、僕も君と同じなんだよ。自分のことが一番分からないんだ」
前に向き直り、スキップほどでなくとも弾んだ足取りで彼が笑う。
その横で、七瀬は一歩一歩確実な歩みを積み重ねていた。
「……二人とも、自分が何をしてるか自覚ある?」
呆れた声は、それ以上に困っているようにも聞こえる。
あるよ、と答えたのは夏希さんだ。
続くかと思われた答えは、しかしそこで終わり。肩透かしを食って、七瀬は何度目かのため息を零した。
「バレたらどうする気? 学校の外の人と付き合ってるってだけであることないこと言われるのに、その相手が男とか収拾付かなくなるからね? 特に逢香は……最悪、そういう理由でマネージャーなんかやってるんだって言われる」
「噂が怖くて恋ができる?」
「今の時代、人の噂話ほど怖いものはないと思いますけどね」
確かに怖い。
恐れ慄くわけじゃなくても、誰もがどこかで怯えている。物陰に潜む妖怪がごとく虎視眈々と狙われている気がして、恐れ始めたら止まらない。
だが、妖怪は空想上の生き物だ。
噂にしたところで、実在はするにしても誇大妄想じみた話は聞き流される。誰もが怯えながら、そんなものはないかのように毎日を生きるのも常だった。
「まぁ、君の心配は分かるけどね。それだけだよ」
自覚はあると思うけど、と夏希さんが笑った。
そう言われてしまえば七瀬は黙るしかない。
変な噂が立つことを恐れ、助言してくれるなら喜ぶべきだが、その助言は真摯に受け取る以上のことはできない類いのものだ。
噂が怖くて恋ができるか、なんて歯の浮くような台詞、俺は言えないけど。
だとしても、人の目を気にしてあれもこれも我慢するなんて生き方は成り立たない。どこかで必ず破綻する。
「代わりにってわけじゃないけど、僕の話をしてもいいかな」
言いながら、くるりとターンするみたいに振り返る。
隣を歩く七瀬が前を見ているのをいいことに、彼は後ろ歩きのまま話し始めた。
「逢香は覚えてくれてる? それとも本当に忘れちゃった?」
「なんのことか分かりませんけど――」
上手い言葉を探す。
しかし咄嗟には見つからなかった。俺の知る真実を、ただ知っているままに話すしかない。
「あなたの名前を呼んだのは覚えてますよ。ついでに頬も撫でました」
告げるも、返されたのは沈黙。
七瀬が反射的に何か言おうとして、呑み込むために拳を握り締めるのが見えた。あれは痛い。爪が食い込む。
そして夏希さんは……いや、夏希はといえば。
顔を赤くし、足元を乱れさせていた。進行方向である後ろに踏み出した右足の踵が、自身の左足の爪先を蹴る。それで後ろにトトトとバランスを崩し、四歩目か五歩目でようやく立ち直った。
「あれ、やっぱりわざとだったんだ」
「真っ直ぐ引いた手が頬に触れますか?」
「だから妙だと思ったんだよ! でも逢香君が……逢香がそんなことするとは思わなかったし。そもそも、あそこで呼び捨てにされるとも思わなかった」
七瀬の手には一層爪が食い込んだことだろう。
俺ですら顔が熱くなりそうな話を、一応は部外者である七瀬が素面で聞けるはずがない。実際、七瀬は首を振ってあらぬ方向を見始めた。
対する夏希は、三人でいるのに、まるで二人きりかのよう。
「驚いたよ、驚かされた。それが嬉しかった」
言葉をそのまま受け取るのなら。
「予想外のことが……その、誤解でなければ」
「そうだよ、予想を裏切ってくれた君が――。そういう逢香が、僕は好きだ」
言い切る声。
告白というより、宣言のそれ。
「だから迷った。悩んだ。期待していいのかって。君は僕の期待に応えてくれる? ていうか、期待するのっていいことかな? 君なら、君たちなら分かるでしょ? 期待と信頼は相容れないものだ」
俺たちなら分かる、その思いは期待なのか信頼なのか。
そう受け取れてしまった時点で、俺は分かっているのだろう。
期待と信頼は、なるほど相容れない。こうあってほしいと願うことと、こうだと知っていること。その二つが両立することは有り得ない。
「君には……逢香には、ちゃんと言うつもりだったんだよ」
信じてくれるかな、と曖昧に笑った夏希は――。
直後、告げる。
「昔付き合っていた、女の子との話なんだけどね」
夜の帳。
それは夜闇を緞帳に例えた言葉であり、なれば現代の明るい夜には似合わない。
いつの間にか一駅分は歩いただろうか。
見知らぬ風景の中に見覚えのある建物がちらほら見えて、こんなところに出るのかと驚かされる。
しかし、その驚きという感情はどこか慣れ親しんだものになりつつあった。
「つまり元カノの話ですか」
反射的にだろう。
それまで沈黙を守っていた七瀬が声を上げ、事もなげに夏希は頷く。
「そうそう。中学の、えっと……最初は二年だったかな。あ、僕は中学まで野球部だったんだけどさ、そこのマネージャーだった子でね。二年の最後の大会が終わった時に告白されて、まぁ可愛い子だったし、人気もあったから悪い気はしなくて。それで付き合った」
時に言葉は多くの意味を孕みすぎ、本来の意味を失ってしまう。
誰かと話す時。
こと、大切な何かを告げる時。
嫌でも無駄なもので飾られてしまう言葉を、敢えて飾ろうとするのは間違いだ。
だが今、どう足掻いても誤解のしようがない言葉を聞かされた気がした。
『それで付き合った』
彼氏の誕生日プレゼント選びたいんで男性目線の意見をください、と週末の買い物に付き合わされた可能性は存在するか? 否だろう。
「えっと、平さんはどっちもいける人で?」
「男性と付き合った経験はないね。裸に興奮したことも」
「あ……どんまい」
「待て、振り返るな、そこだけ振り返るな。俺も同じだ冷静になれ」
最後の一言は無意識に自分へと投げかけていた気がする。
え、この人、ノンケだったの?
そんな言葉が頭の中を行ったり来たりする。まぁそうだ、女装家だからといって男が好きとは限らない。知っていたとも。
「ごめん?」
「謝らないでくださいマジで」
「あ、うん」
おかしいな。
この人さっき、俺のこと好きとか口走らなかったっけ。
もしかしてあれかな。人として、とか前に付くタイプの好きかな。LOVEじゃなくLIKE的な。
「話を戻していいかな」
「是非」
「う、うん。それで元カノの話なんだけど」
「オブラート捨て去ったわこの人」
七瀬が声を上げて笑っている。
ぎょっと驚いた顔で振り返った夏希は、またバランスを崩して転びそうになった。反射的に手を伸ばす。向こうも反射的に掴んできて、変な沈黙が漂った。七瀬が声を上げて笑う。手を引く。
前に一人、後ろに二人の隊列で、俺たちは前を見て歩くことになった。
「えっと、昔付き合っていた――」
「元カノでいいです」
夏希は無言で笑う。七瀬もいい加減静かになっていた。
「その子、すごく良い子でね。明るくていつも笑ってたし、人の悪口も言わないから話してて気分が悪くなることもないし。僕の方はどうだったかな。成績は良かった。勉強も野球もね。名門校ってわけじゃないけど、一年の後半にはレギュラーだった」
野球部のレギュラー争いは一種の戦争と聞く。
実態を知るわけじゃないが、三年が引退しないうちから選ばれるのは相当だろう。
「他の部で似たような話から揉め事になったのも聞いてたし、隠れて付き合った。練習もなかったわけじゃないけど、オフシーズンだったからね。隠すのは難しくなかった。それでも放課後に待ち合わせて一緒に帰ったり、休みの日にデート行ったり」
高校生にもなると恋人がいるのは珍しくもない。
当然のことではないにせよ、殊更に隠すことではなかった。だからデートでどこに行ったとか、そういう話は聞く。
しかし中学はどうだったか。
思い返してみても、誰と誰が付き合ったという噂は聞いても、デートの行き先までは聞いた覚えがない。
「どういうとこ行ったんですか?」
それで無意識のうちに訊ねていた。
夏希の過去の恋愛より、むしろ中学生の恋愛事情に興味を持った自分に驚く。そんなに気にしていた記憶は……ないわけでもないが、これほどだったか。
「えっと、今度一緒に行く?」
「いえそういう話じゃないです」
「あ、了解。……まぁデートって言ってもあれだよ、一番遠出したので映画見に行ったくらいじゃないかな。僕が三年の夏休みにね。それ以外だとバスで行けたショッピングセンターとか?」
「あー、思い出しました。そういや誰かもそんなこと言ってたな」
「今じゃ学校帰りに寄るとこになってるのにね」
中学生にとってショッピングセンターは最高のデートスポットらしかった。
同じような話をした思い出が蘇ったのか、中学は別々だった七瀬も似た感想を口にする。
「二人も行ったりするの? 学校帰りに?」
「や、私たちはスポーツショップが多かったですね。休みの日でしたけど」
「へぇ……」
七瀬の声に頷いたはずの夏希が真横、つまり俺の横顔を見据える。
気付かない振りを貫き通し、それで、と話の続きを促した。
「まぁ許そう」
「あんた何様?」
「え、逢香が一目惚れしてくれた相手様?」
この人、開き直ると強い。
撃沈した七瀬が黙るのを見届け、夏希は話を本題に戻す。
どこまで話したっけ……なんて虚空を彷徨う視線は、どこか楽しそうな色を帯びていた。
「色々したね。一緒に帰ったり、デートしたり、キスをしたり。セッ……えー、本番はしなかったけど。中学生だったし」
「その情報いる?」
「逢香には必要じゃない?」
「俺に必要だったとしても二人の時にしてくださいね!」
ゴタゴタしかけた話を咳払いで押し留め、で、と睨んで話を戻させる。
「……。逢香はそういう話、まだ二人でしてくれるつもりなんだ」
訂正、全然戻ってなかった。
「今はいいですから」
「後でならいい?」
「その話をするために昔の話を始めたんじゃないんですか?」
吐き捨てる。
なんだか疲れてきた。前を歩く七瀬の肩も、らしくなく沈んでいる。大会帰りのバスでもああまで気怠そうにすることはなかった。
「ごめんごめん、なんだか言いづらくてさ」
からから笑いながら言われ、その態度とは裏腹に身構えてしまう。
というか、誰だってそうだろう。
言いづらいと軽やかに笑いながら切り出された時、それが生易しい話であった試しがない。
「そんなにひどいことがあったんですか」
「うん、そんなにひどいことをした」
夏希は笑う。
君の想像は誤解だよ、と笑い飛ばすがごとく。
「本当に色々したんだよ。カナ……あぁその子、花名っていうんだけどね。花の名前でカナ。カナはすごく良い子だった。いつも楽しそうで、大した話じゃなくても面白そうに笑ってくれて。だから――」
一瞬の沈黙。
もしかしたら七瀬は、その違和感に気付かなかったかもしれない。
しかし、俺は気付いてしまった。
逡巡、あるいは躊躇。
そうした思いに気を取られ、一瞬でも言い淀む不自然さに。
「だから、楽しくなかった」
夏希は笑う。
悲しそうに、寂しそうに。
それでいて、ようやく本心から笑ったように見えた。
「楽しくないんだよね、ああいうのは。面白くないんだ。僕に何を望んでるのか見て取れる。何を言えば笑ってくれて、どうしたらもっと喜んでくれるのか分かる。だからつまらない」
冷淡な、いっそ冷酷なまでの言葉。
俺も七瀬も挟むべき言葉を知らず、ゆえに堰を切って溢れ出した言葉を押し留めるものは何もない。
「あれは中三に上がった頃だったかな。うん、桜がようやく咲いた頃だ。視力が誤魔化せなくなって眼鏡を作ることになった。それでまぁ結構印象も変わるだろうし、作る前にカナに言ったんだよ。眼鏡作るんだーって」
答えは、嫌というほど想像できた。
似合いそうですね、楽しみです。
それ以外の言葉がどうして紡げるだろう。
夏希の視線が俺の横顔を見ていた。黙る俺に、何を思うか。
「つまらないよね。じゃあ私も試してみようかなーってカナが言うから、その次のデートでファッション用の売ってるお店に行ってさ。まだ僕のは出来てなかったから、二人であっちが似合う、こっちが似合うって取っ替え引っ替えやるんだよ」
傍目には楽しげな光景だろう。
いっそ嫉妬さえしてしまいそうな、幸せを絵に描いた一幕。
だけど。
「逢香はそれ、楽しめる? 相手が好きそうなの選んで、見せて、喜んで掛けてみてるところに似合ってる、可愛いっていうだけの何か。僕は無理だった。楽しめなかった。だってそうでしょ?」
彼は呟く。
自嘲するでもなく、どこか淡々と。
「想像通りなんだもん」
それは期待ではなく信頼。
こうあってほしい、ではなく。
こうでしょ、知ってる、と零すしかない諦観にも等しい感情。
「そりゃ僕も神様じゃないから間違えることもあるけど、間違えたらどうすればいいのかも想像はついてて。夏休みの宿題で、答えをそのまま写す方がまだ楽しいよ。だって終わりがあるから」
永遠に続けばいいのに。
そう謳われる恋の話をしながら、終わってほしいと願うかのように笑う。
「中学を卒業する時、一緒にはいられないからって言い訳して別れた。いつも笑ってたあの子が泣いてて、初めて後悔した。最初から付き合わないのが彼女のためだったんだろうね。僕もそれが初めての恋愛だったから、後悔するまで気付けなかった」
帳が降りる。
明るすぎる夜の代わりに、彼の顔か俺の視界に影が落ちた。
あまりに暗い、その中で。
「そんなの、恋愛じゃないですよ」
独り言にも聞こえそうな呟きだけが零された。
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