6話 もしも太陽が落ちたとしても

 夜と夕方とが重なり合う十八時半。

 そこから少し夜へと傾いた時間帯の駅は、第二の帰宅ラッシュを迎えて大混雑の様相を呈する。

 俺たちと同じ部活終わりの高校生は揃いの制服姿で群れをなし、会社帰りの社会人も似たり寄ったりのスーツ姿で改札口を通り抜けていった。中には塾帰りと思しき、鞄を提げた子供もいる。

 かなり小さいが、小学生だろうか? この時間に、一人で電車?

 不安に駆られ、背中を追いかけるように首を回してしまう。

 と、肩を叩かれた。

「なにロリの尻追いかけてんの?」

「尻じゃない、背中だ」

「や、同じだから」

 呆れ顔の主は言うまでもなく七瀬だ。遠藤七瀬。

 一七〇センチ近い長身だが、俺よりは低い。ただ僅かだ。男女差を考えれば、彼女は長身で俺は平均。見上げるとも言えない眼差しをじとっと向け、顎を進む先にしゃくってみせる。

「あれは小学生かな」

 示されるがまま視線を前に戻し、それでも話すのはすれ違った少女のこと。

「お前まさか成長した女がダメとか?」

「分かってて言うなよ。少し心配だったんだ」

「お節介」

「だとしても、思うのは自由だろ? 小学生が一人でなぁ……」

 ニュースで見る中国や韓国ほどには、受験戦争は激化していないはずの日本。

 しかし塾に通い、そこから帰る幼い姿は日常の光景だ。小学校のクラブ時代、塾の曜日だけ休むチームメイトもいた。中学に上がり、塾があるからとサッカーを辞めた仲間もいる。

 勉強、こと受験勉強をどうこう言う気はない。

 だけど何が正解で、何が不正解なのか。将来のためと謳う塾のため、こんな時間に一人で駅を歩く姿が正しいのだろうか。

「逢香さ、なんで私が付いてきたか忘れたの?」

「なんでって……」

 部活終わりにジャージのまま帰るのは校則で禁止されている。

 ゆえに歩いて数分の距離でも、校庭での会話は十数分前の記憶となっていた。まぁ、それで忘れるほどの会話でもないが。

「分かってる。お節介だとは思ったが、言わないでおく」

「それもう言ってるから」

「けど、お前から見たら俺は小学生なのか」

 あの小学生を心配するように、逢香は俺を心配したのだろう。

 小学生の女の子と、高校生の男。比較するのも馬鹿らしいくらいの差があれど、視点が変われば景色も変わる。

「確かに小学生は心配だけどね。でも犯罪に遭ってる率で見れば、高校生の方が本当は危ないんじゃない?」

 七瀬が呟いた。

 東口から駅に入って、そのまま西口に抜けようとすると、途中の窓から裏手の駐輪場が見える。駅舎の陰になったそこは暗く、停められた自転車の多くは錆びてしまっていた。

 そんな錆び臭そうなところに好んで集まる者たちがいる。

 七瀬の視線は彼らに注がれ、嫌悪感とも違う、晴れない表情を呼び起こしていた。

「あそこにいる一人が明日いなくなってても、きっと誰も気にしない」

「気付きもしないだろうな」

「親は通報するかな。仲間内で警察に行く? まさか」

 着崩した制服姿は男だけじゃない。女もいた。

 窓から見下ろせるのを知ってか知らでか、時には顔を寄せ合ったり、胸に手を突っ込んだりする姿もある。劣情よりも、憐憫が勝る光景だった。

 彼らを引き寄せる何かがあるのか、他に行き場もなく辿り着いてしまうのか。

「お前が帰らなかったら親は通報するだろ?」

 窓もそう長くはない。

 駐輪場が見えなくなると、七瀬は手探りめいた声を零す。

「けど、通報を受けて警察が動いて、仮に事件が解決しても何もかもが元通りってわけじゃない」

「そりゃそうだ」

 殺人事件を考えれば一目瞭然だ。犯人が逮捕されても、被害者は返らない。

「逢香が信じたい気持ちは分かる」

「違う。信じたい、じゃないな」

 笑って言えば、七瀬も笑った。

 その横顔を、笑顔とは呼びたくないが。

「だったら尚更だ。お節介と疎まれても後悔はない。……だけど」

 夜だというのに、光が溢れる。

 光量が絞られた駅舎を抜け、夜空の下に出るかと思ったが、そこには地に落ちた星空のごとき景色が広がっていた。

 瞬間、行き交う人々やスマホ片手に佇む人々の中に、一つの姿を認める。

 向こうはずっと駅舎の出口を見ていたのだろう。

 俺より一瞬早く気付き、次いで隣を歩く姿に怪訝な顔を覗かせた。

「……逢香?」

 眉根を寄せて呟いた彼――夏希さんに軽く頭を下げる。

 会釈が半分、謝罪が半分。

 夏希さんは夕方見たスーツ姿ではなかった。当然だが女装でもなく、ジーンズにシャツとラフな格好。しかし上にジャケットを羽織っている。

 そういえば、もう夜は冷え込む時期だ。

「七瀬は寒くないか?」

「お前、第一声がそれかよ」

 どういうことだと首を振ったら、夜より冷え込む眼差しが見えた。

 夏希さんが不機嫌そうに見てくる。睨むのではなく、ただ見てくる。

「あー、夏希さん」

「夏希さん?」

「え? いやあの、これはですね。……ていうか覚えてます?」

 言いながら隣の七瀬を指し示すも、反応は芳しくない。

「ほら、日曜日に駅で一緒にいた部活仲間ですよ。今日はまぁ、えっと……」

 七瀬どころか、俺の言葉にも相槌一つなく見据え続けてくる夏希さん。

 その怒りか憤りか、ともあれ不機嫌な佇まいに気圧され、視線が横へと逃げる。

「七瀬、なんとか言ってくれ」

「なんで私が?」

「こうなった原因がお前だろ!」

「え、どう考えても逢香だと思うんだけど」

 そうですよね、と七瀬が言うと、あろうことか夏希さんはコクコク頷く。

 なんでだ。

 考えようにも頭が空回りし、何を考えているのか考え始める始末。

 しかし、何をどう考えても悪いのは七瀬だ。待ち合わせ場所に女を連れて現れたら、誰であれ腹を立てて当然だろう。

 かといって謝れば済む問題でもない。

 七瀬を連れてきたのは俺だ。その理由も単に根負けしたとかではなく、言い分に納得したから。だったら説明するのが俺の責任だ。

 なればこそ、何が悪かったか考えたことにこそ迷走の原因がある。

「あー、夏希さん」

 俺が一言喋る度に夏希さんの眼差しが冷たくなる気がするのは何故だろう。だが怯んではいられない。気のせいだ、気のせい。

「さっきも言いましたけど、こっちは七瀬、陸上部の仲間です。夕方もランニング中に彼女が見かけて、俺に教えてくれたんです。夏希さんのことには駅で見た時には気付いてたらしくて、それで……まぁ細かい話は後にしましょうか」

 途中だったが言葉を断ち切る。

 西口はサラリーマンが多く使うらしく、学生の帰宅ラッシュが過ぎても人通りが絶えない。目立ちはしないが、人目につきやすい駅前からは退散した方がいいだろう。

「で、必要ないと思うけど、あちらは平夏希さん」

「どうも」

 七瀬は短く応えたきり口を閉ざした。

 何も言いたいことはないのか、あっても今言うべきでないと思ったのか。ともあれ両者の紹介……というほどでもないが、最低限の区切りはできた。

「ひとまず歩きましょうか。ここで立ち話ってのは目立ちますから」

 夏希さんと七瀬。

 年上か同級生かで話し方を変えるのは当然のことだが、こうして二人を同時に相手しようと思うと案外困るものだと気付く。こういう時にどうすればいいか、それを学校で教えてもらいたい。

 道徳とか保健体育とか、ついでに教えてくれてもいいだろうに。

「平さん、でいいですか」

 七瀬が口を開く。

 じゃあ少し移動しようか、と先導しかけた時だった。

「はい?」

「何があったか知りませんけど、逢香はこういうやつですよ」

「みたいだね、今知った」

「え、俺なんか悪いことした?」

 思わず口を挟んでしまう。

 そして二人から同時に睨まれた。

 どうやら俺が悪いことをしたらしい。まぁ七瀬連れてきたもんなぁ……。だとしたら七瀬は共犯者なんだし、夏希さんの側に立つのはおかしいんだけど。

「でも私、平さんのことは知りません」

「だろうね」

「そんな人がいきなり学校まで来たんです。これくらいのお節介は許してもらえますよね?」

 更には無視だ。

 俺の何がそんなに悪かったのか、できれば教えていただきたい。

 無言で念を送るも、一転睨み合う二人は気付く素振りも見せなかった。

 やがて夏希さんが首を振り、肩を竦めながら俺に向き直る。そこでようやく念に気付いたらしかった。バツの悪そうな顔。視線が逃げた。

「それはいいよ、別に」

 一言、絞り出される声音だった。

「逢香から聞いたかな、僕が答えてないって」

「それ言っちゃうと、また告白したっていうところまでバレるんですけどね。まぁ聞きましたよ。そのくせ名前で呼び合ってるんですね」

「先に呼んできたのは逢香だから。僕だけ苗字で呼ぶのも変じゃない?」

 先に呼ぶも何も、最初に下の名前しか名乗られなかったから下の名前で呼んだだけなんですが。

 言おうとして、はっと我に返る。

 あぁそうだ。

 これ、俺が悪いやつか……。そういや確かに、俺が先に呼んでいる。なるほど。

 しかし今、それを言い出してもややこしくなるだけだ。

「話を戻させてもらうけど、待っててほしいって言ったのは僕だ。デートの約束をしたわけでもないんだし、学校帰りに友達と一緒でも文句を言う筋合いはないね」

「ですね。まぁ私としちゃ、むしろ言ってくれた方が都合は良かったんですけど」

 馬が合う、合わないというのはある。

 俺にとって二人は馬が合う相手だったが、当の二人は馬が合わないようだ。言葉を交わすのは今が初めてのはずなのに、お互い気を許すつもりは微塵もなさそう。

「単刀直入に言います。あなたはなんなんですか?」

 七瀬に至っては露骨な喧嘩腰である。

「なに、っていうと?」

「男なのか女なのか、男だとしてゲイなのかどうか。他にも色々聞きたいことはありますけど、一番はまぁ、簡単なことですね」

 背丈は同じくらい。

 射竦めんとする水平の眼差しに、夏希さんは鷹揚と見返す。

「本気、ですか?」

「まだ答えてないんだけど」

「それなら余計に同じことです。高校生ですよ、それも男同士で。その意味を分かっていますか?」

 その言葉を、時代錯誤だと笑い飛ばす資格は俺にはない。

 移動しようと言ったのに無視されたせいで、駅を出入りする人々の視線が突き刺さる。そうだろうとも。高校生の男女と、パッと見は大学生らしき男。連想されるのは、良くて痴話喧嘩だ。

 遠巻きの、それでいて無遠慮な視線たちに居心地の悪さを感じる。

 理由は、ただ見知らぬ誰かに注目されるからというだけではなかった。これを痴話喧嘩と呼べたとして、私を取り合わないでと叫ぶヒロイン役は七瀬ではなく俺だ。そこにこそ違和感がある。

 七瀬を奪い合うならともかく、と。

 それが答えだ。時代がどれだけ叫ぼうと、道を行き交う人々は錯誤的なまま。俺とて例外ではない。

「逢香から聞いていますか?」

「何を?」

「陸部のマネージャーなんですよ、こいつ。中学まではサッカーやってました」

「それは聞いたかな」

「じゃあ、どうしてサッカー辞めて陸部に入って、しかもマネージャーなんかやってるか知ってます?」

 知るわけがない。

 そもそも陸上部のマネージャーだということ自体、話してはいないのだ。

 その理由に関しては、学校でも知っている人物は限られている。七瀬も修も、口は固い。他愛ない笑い話を言い触らすことはあっても、多少なり踏み込んだ話は決して漏らさなかった。

 そういう性格だからこそ信用できたし、関係も続いている。

「学校じゃ、それ知ってるやつってほとんどいないんですよ」

「特別な事情があるとか?」

「いいえ? 大したことじゃないですよ。本人も、あなたに聞かれたら普通に答えると思いますけど」

 そう。

 けど、だ。

「学校じゃ話してないんですよ。どうしてだか分かりますか?」

 挑発的な声音に、夏希さんが考え込む。

 いや、違った。

 考え込む振りをしただけだ、あれは。顔は俯き加減だったが、瞳は揺れることなく一点を見据えたまま。

 その視線は持ち上げられる。

「詮索をされたくないんだろうね」

「やっぱりあなた、頭は良いんですね」

 どうしてそこまで喧嘩腰なのか。

 確信には遠くとも、想像はついた。似ているのか、この二人は。

 そう思うと違和感がある。

 ただ同時に、謎も解ける気がした。

「逢香は人を信用しませんよ。驚くほど。どうしてだか分かります?」

「自分こそを信じてないから?」

 心外だ、とは笑えまい。

 乾いた笑いが口元に浮かぶのを、自覚しても止められなかった。

「そこまで気付いてて、まだ可能性があると?」

「だから、かな」

 夏希さんはにこりと笑う。

 温度のない、暖かくも冷たくもない無機質な笑み。

「君が何を心配しているのか分かった。君の不安と苛立ちは切り離せるものだね。なのに切り離そうとしない理由は、そうだね、黙っておくとするよ」

「そりゃどうも」

「その上で、それじゃあ答えようか」

 夏希さんが、笑う。

 ひどく性格の悪い、なるほど、と頷きそうになる笑みだった。

 これは、確かにただ人が良いだけの人間が浮かべるものではない。俺の知らない、想像もしなかった人物がそこに、七瀬の前に立っている。

「余計なお世話じゃないかな、それは。君が苛立ち、我慢ならないっていうならともかくね。ただ心配だというのなら、余計なお世話だ。知ってる? 逢香はそんなに愚かでも無責任でもないよ」

 昨日、名前を知ったばかりの相手だ。

 どうしてそんなことが言えるんだと、俺でなくとも叫べただろう。だが七瀬は沈黙した。それ以外の選択肢がないかのように、苦々しい表情で。

「ねぇ、逢香」

 打って変わって、彼は晴れやかに笑ってみせる。

「幻滅したかな」

 どこまでも透き通るそれは、初めて見るはずなのに、よく知っている気にさせられる表情だった。

 澄んだ笑顔。

 それは心の中のあれもこれも、全てを濾し取ってしまった残り滓。

「少なくとも、男だったと知った時ほどの衝撃はないですね」

「答えてほしい」

「じゃ、歩きましょうか」

 辺りを見る。

 空には重く闇が広がり、地上には星々のごとく明るい輝き。

 ちぐはぐな光景は、しかし当たり前の現実だった。

 空がいつだって晴れ渡り、太陽や月や星を輝かせるなんていうのは幻想だ。

「ここは目立ちますから」

 繰り返した言葉に、ようやく二人は頷いてくれた。

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