5話 その熱は過ぎ去らず

 晩夏と呼ぶべきか、初秋と呼ぶべきか。

 蒸して暑い日があれば寒いほどに涼しい日がある。揺れ動く炎のように残暑が行ったり来たりを繰り返す今の季節は、夏なのか秋なのか曖昧だ。

 なんて、そんなことを思っているうちに冬を迎えるのが毎年のこと。

 何一つ変わらないようで、しかし沈む早さや輝きの色合いで季節の移ろいを教えてくれる太陽を見上げる。

「どうしたよ、逢香」

 傍目には黄昏れているようにでも見えたのだろう。

 笑いながら肩を叩いてきたのは修だ。そのまま腕を回し、肩を組む格好になる。

「んーで、どした?」

「何がだ」

「俺が気付かないとでも思ったか?」

 半分は冗談、もう半分は心外だと少なからず憤る声音だった。

「ランニングの後、七瀬に何か言われて出てったろ。あの後から様子がおかしい」

「見てたのか」

 笑って返すが、校庭広しといえど陸上部が使える範囲は狭い。俺がいなかったことは部員全員が知っていても不思議はなかった。

「まぁ大したことじゃない。少し考え事をしてたんだ」

「考え事? それにしちゃ遠くを見てたな」

「考え事と距離とに関係はあるかな。……いや、今回はあるか」

 苦笑しつつ、校庭の脇に張られたフェンスを見上げる。

 道路側に面したそれは切れ目なく続き、不審者の侵入を防ぐ一方、校庭で部活を終えた生徒たちに校門からの下校を強いていた。陸上部の面々も校舎側へと続く階段に足を向ける。

「一つ聞くんだが」

「なんだ?」

「七瀬って、目は良かったっけ?」

「目?」

 陸上部だ、大なり小なり脚力はある。

 しかし視力はというと、陸上との因果関係はないだろう。

 ふむ、と考え込む素振りを見せた修だったが、答えは既に出ていたようだ。

「分からんな。少なくとも眼鏡はかけてない。コンタクトでもない」

 視力の悪い選手はレースの時に少し困る。

 激しく動いてもズレないスポーツ用の眼鏡をかけるか、いっそコンタクトにしてしまうか。ただコンタクトはコンタクトで、汚れだとか紛失だとかで問題になることがないでもない。

 他校の生徒ならいざ知らず、同じ部で一緒にやっていれば大抵は把握できる。

「けど、視力がどうかしたのか?」

 裏を返せば。

 目が良いかと聞かれたら、どうしても視力を……今までに眼鏡やコンタクトに頼っていたかを考えてしまう。

「気にしないでくれ、本人に聞けば済む話だ」

「そりゃそうだけど。……あ、呼んでくるか?」

 別に修経由で呼ばずとも俺が自分で呼べる相手なんだが。

 いや待て、そうだ、昨日の件があった。自分のことで精一杯になって忘れていたが、昨日の放課後、修と七瀬は二人で教室に残って何やら話をしたらしい。

 水臭い真似をすると思ってしまうのが本心ではあれ、社内恋愛ならぬ部内恋愛は何かと軋轢を招く。慎重なのはいいことだ。

 それに、そのお陰で昨日、夏希さんと再会できたことになる。

「すまんな」

 感謝の代わりに一言告げると、修は待ってましたとばかりに駆け足で行った。

 向かう先にいるのは必然、七瀬。ただし七瀬一人ではなかった。枯野がいる。しかも辟易した顔の。そこに修が駆け寄って、七瀬に俺の方を指差してみせる。

 七瀬が俺を見た。

 と同時、枯野がホッとした顔をする。あれは説教を食らっていたな。

 七瀬は再び枯野に視線を戻すも、それを修が押し留める。そのまま枯野を連れていった。いいのか、それで。思わんではないが、助けられたのは事実だ。

「すまんな」

 先ほど修に投げたのと寸分違わぬ言葉を投げる。

 それを仏頂面で受け止めた七瀬は、「で?」と短く問うてきた。逡巡は、一瞬で蹴飛ばす。

「いつから気付いてたんだ?」

 藪から棒の問いに、七瀬は首を傾げることもなく鋭い視線で応じた。

「最初から」

「一目で?」

「気付かないお前らがおかしい」

「そんなことはないと思うが」

「そんなことあるんだよ、普通分かるだろ」

 やはり七瀬は目が良かったらしい。

 違和感を覚えたのは夏希さんと別れた後、校庭に続く階段を下り始めた頃だった。

 夏希さんの来訪を――、俺に用事のある人物が校門前にいると告げたのは七瀬だ。だから最初、親か誰かが来たのだと思った。

 しかし蓋を開けてみれば、そこにいたのは夏希さん。

 あまりに予想外の人物だったことで些細なことは吹き飛んでしまったが、それが既に妙な話だった。

 夏希さんにしても、七瀬を見たのは駅での一度きり。

 事が事だったために顔を覚えていても不思議はないが、だからといって集団で走る揃いのジャージ姿の中から見つけ、わざわざ呼び止めるだろうか? 俺と夏希さんは互いに男で、あまり言い触らされて気分の良い関係でもない。

 そこまで考えて、ようやく気付いた。というか思い出した。

 七瀬の言葉だ。

 七瀬は言った。

『逢香に用事って感じの人が校門前にいたから』

 用事って人、ではない。

 用事って感じの人、である。

 七瀬は夏希さんに呼び止められて来訪を知ったわけじゃなくて、ただ一方的に見かけて来訪を、その意図を知った。

 だとすれば必然、駅で告白した相手が男だったと、七瀬は知っていることになる。

 いつから知っていたのか。

 藪から棒の言葉に即答できたのは、きっと七瀬なりに葛藤があったからだろう。

「気を遣わせたか」

 足りない言葉。

 けれど、それで十分すぎるほどに伝わると知っていた。

「別に。最初は教えるべきか迷ったけど、口割らないの見て察しは付いたから」

「七瀬はすごいな、目が良い上に頭も切れる」

「おだててどうするつもり?」

 どうもしない。

 言葉の代わりに口元だけで笑う。

「修にも言ってないんだな」

「言い触らすことじゃないでしょ」

「だとしても、な。助かった。感謝する」

「いいよ、別に。当然のことだし」

 それが当然なんかじゃないんだと、本気で自覚していないんだろう。

 もしかしたら七瀬は不器用なのかもしれない。

 あまりに器用でなんでもできてしまうから、適当に済ませることができない。

 過ぎたるはなんとやら。

 枯野にしてもそうだ。枯野は夏休み前という中途半端な時期に入部した。しかもマネージャーとして。普通なら溶け込むために必死であれこれ気を回すのだろうが、枯野は周囲の目など眼中にないとばかりにマイペースを貫いている。

 マイペースというか、有り体に言うと適度にサボっていた。

 わざわざ季節外れに入部しておいてサボるかよ、とは俺ですら思う。不断の努力を当たり前と思える七瀬にしてみれば理解できない人種だろう。

 それで目が行ってしまうのか、純粋に我慢ならないのか、二人の組み合わせは結構見かける光景だった。

 真面目と言えば聞こえはいいが、恐らく本人に真面目なつもりはない。

 ただ不器用なだけ。

 その不器用な七瀬が迷ったと口にし、今なお悩む表情を見せている。意外な姿だった。躊躇いがちの視線が向けられ、曖昧に開いた口が歯切れの悪い言葉を紡ぐ。

「昨日も、もしかして会ってたの?」

 何かと思えば、そんなことか。

「偶然な。それでバッセン行ったせいで今日は筋肉痛だったよ」

 あぁ、と納得の表情を覗かせる七瀬だったが、すぐに怪訝な顔になる。

「わざわざ?」

「すまん、何がだ?」

 言葉が足りないのはお互い様にしても、あまりに足りなすぎた。

 しかし七瀬は何が足りていないのかも分かっていない様子で、あれこれと言葉を並べる。

「や、だってそうでしょ? 昨日、じゃなくて一昨日か。駅で会ったきりでしょ? 同じ駅使ってたんだから偶然会うのは変じゃないけど、わざわざバッセンまで行く? なんのために?」

 なんのために。

 それに返せる答えはない。

 俺だって、どうしてバッセンにいるんだと思いながら、両替機のような購入口で千円札をコインに替える夏希さんの背中を眺めていた。

 ただ、答える必要もなかったらしい。

「……しかも、今日またって」

 絞り出すように呟かれた言葉が、重ねられた疑問符の辿り着く先。

 一目見ただけの女装姿から男だと見抜いた目の良さで、今日の……特に夏希さんと別れた後の俺に違和感を覚えないとは思えない。

 そして切れる頭は、そんな俺の様子と、昨日偶然会ったのに今日は自ら訪ねてきた夏希さんの姿を合わせて、一つの答えを導き出したことだろう。

「昨日、改めて告白した」

 答える言葉はなかったが、横顔を見ようとした先に言葉以上の答えがあった。

 真横から俺を見て、見据えて、しかし七瀬は絶句している。眼前の光景は、己の耳が捉えた声は、夢か幻ではないかと疑っているようだった。

「……。……それで会いに来るって、つまりそういうこと?」

「だと思いたい」

「は?」

 ドスの利いた声は無自覚なのだろうが、そろそろ自覚し改善すべきじゃなかろうか。折角の顔やスタイルが台無しである。

 あるいは、それさえも魅力に変えうるだけのポテンシャルを持っているのかもしれないが。

「保留されたんだよ、待っててって」

「なのに向こうから会いに来たわけ? 学校まで?」

「らしい」

「らしいって……」

 絶句、再び。

 一年半の付き合いになるのに、これほど混乱している七瀬は見たことがなかった。

「逢香は、だけど女が好きなんでしょ? だから一昨日もあんなことしたんだし、まさか昨日も――」

「いや、昨日は普通だった。ていうか今日と同じ格好だな」

「わけ分かんないんだけど……」

 呟く七瀬の声と表情に軽蔑や拒絶の色はない。

 言葉の通り、ただただ理解できない、範疇の外にあるのだと困り果てた顔色。

「それなのに告白するって……」

「言ってくれるな。俺自身よく分かってないんだ」

「ごめん、余計に分からなくなった」

 向こうは首を振っていた。俺は首を傾げる。

 全てを理解する必要なんかあるだろうか? 理屈では分からないままでも、感情がそうと確信していればいいこともあるはずだ。

 理屈じゃない。

 恋愛とはそういうものだと、誰もが謳う気がする。

「あの人は大学生?」

「確か社会人……や、ちゃんとは聞いてないな。早上がりとか言ってたから社会人だと思うけど」

 七瀬の呆れが見て取れる。

 息が凍る冬でもないのに、そのため息は可視化されたようだった。

「逢香、本気で言ってる?」

「だから、冗談であんなこと――」

「そうじゃなくてッ!」

 叫んだ声が、校庭に響いた。

 陸上部は勿論、野球部や他の部の連中も引き上げて閑散とした校庭。だけど我に返るには十分すぎて、七瀬は唇を噛んだ。

「あの人、なんて?」

「何がだ。いや待て、答えなくていい」

 また反射的に言いかけた声を制し、疑問に代わる本音を告げる。

「どうした、七瀬。修に言わせりゃ俺も変だったみたいだが、お前もお前で変だぞ。普段はもっと言いたいことをはっきり言うだろ。なんで今日に限って、そんな奥歯に何か挟まったみたいな言い方するんだ」

 ただでさえ俺と夏希さんの関係は曖昧だ。

 恋愛という事情を抜きにしても、互いのことをまるで知らない。それどころか、自分の気持ちでさえ満足に理解しているとは言い難いのに。

 七瀬まで曖昧な物言いを始めたら、何が何やら収拾が付かなくなってしまう。

「わざわざ学校まで来るなんて普通じゃないでしょ。用事はなんだったの? 告白の返事?」

 ……用事?

 勘違いするなという方が無茶なほどに実質的な返事だった気はするが、正式な返事だったかといえば答えは否だ。返事は相変わらずの保留。そのくせデートだとかなんだとか……。

 しかし、では何が目的で来たのかと改めて思い返すと、我ながら馬鹿げた答えが見えてくる。

「用事らしい用事はなかった」

「……は?」

「待ってくれ、昨日は連絡先を交換しなかったんだ。それにお互い知ってることといえば、この辺りが活動圏なことと、俺がこの学校の生徒だってことだけ。だから夏希さんも高校に来るしか――」

「へぇ、夏希さんっていうんだ」

 背筋が凍る。

 何も間違ったことは言っていないはずなのに、何か致命的な過ちを犯した気がしてならない。

「で、スマホもなく連絡先交換したの?」

「……何が言いたい」

「会うなら私も行く」

「どうして」

「分からない? 逢香一人で行かせられるわけないでしょ」

 俺はお前のなんなんだ、そしてお前は俺のなんなんだ。

 腹の底から湧き出た言葉を押し留めるのは苦労した。言ってしまっても許されただろう。だが言ってしまえば、売り言葉に買い言葉だ。余計に埒が明かない。

 それでも代わりの言葉を紡ぐほどの余裕もなくて、ため息が零れてしまう。

「……ごめん」

 バツの悪そうな声で七瀬が言った。

「謝るくらいなら最初から言うな」

「それは無理」

「理由を」

「お前は無自覚すぎる。椿先輩のことを言えない」

「話を飛躍させないでくれ。今どれだけ頭が混乱してるか」

「私もだよ!」

 叫ぶというより、呻く声だった。

 だったらお節介を焼かないでほしい。

 胸にふと浮かんだ言葉に、愕然とする。すっと頭が冷えた。お節介? 七瀬が? そんな馬鹿な。何かを取り違えている。バッセンをパッセンジャーの略かと勘違いした、それこそ桜さんのように。

「お前は、頭が良い振りして馬鹿なんだよ」

「話を飛躍させるな」

「だったら言うけど、逢香はさ、私たちの立場が逆だったらどうする?」

「逆?」

 呟きながら、思考は回る。独りでに。

 立場が逆。俺と七瀬の。七瀬が夏希さんの横にいる。最初に抱いた感情は、しかし嫉妬ではなかった。

 話は、あまりに単純だ。

 見ず知らずの男に一目惚れした女子高生が、相手のことをろくに知らないまま惚れ込んでいく。相手は高校まで来た。それしか会う方法がないから。

 では女子高生――、七瀬の側から会うにはどうすればよかった?

 不可能だ、それは。

 考えられて駅かバッティングセンターに張り付くくらい。それさえも現実的ではないだろう。

 敢えて言葉にするなら、それは不均衡の関係性。

 俺が七瀬の立場だったら、そうだな、お節介の一つや二つ焼くに違いない。

「……だけどな、七瀬」

「分かってる。言わないで」

 本当に分かっているのか?

 確かめたかったが、重く沈んだ横顔を見たら言葉なんて霧散した。なんて顔してるんだ、こいつは。美人が台無しだ。あるいは憂い顔にも魅力があるのかもしれないが、七瀬には笑っていてほしかった。

 そこに理由なんてない。

 あるとすれば、そう、ただ友達だから。……親友と、笑わないでくれるなら呼びたい相手だから。

 七瀬も、そう思いながら今日の俺を見ていたのだろうか?

 分からない。

 所詮、他人は他人だ。

 その気持ちを読み取るなんて、超能力者や占い師にも不可能だろう。

 もし読めたと思ったなら、それは……。

 思考を断ち切る。

「すまん、少し電話する」

「電話? 番号聞いたの?」

「違う、親だ。遅くなるかもしれないし、一応な」

 あぁ、と七瀬が頷く。

 それから不安げな目で見てきた。

「それ、私も連絡しちゃっていいの?」

「ダメと言えるなら、もう言ってる」

 夏希さんには謝らないといけない。

 七瀬の心配は分かったが、だからといって今の俺の立場から同じように心配できるわけもなかった。

 心配される、それだけの可能性があると教えられてなお、気持ちは変わらない。

 だから今、俺が心配していたのは。

 待ち合わせ場所に七瀬を連れていって、事情を説明し謝る前に夏希さんが怒って帰りはしないかと、そんな馬鹿げたことだった。

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