3話 聞こえなかった音を聞いた時

 そこは狭く、男が二人で立つのは窮屈だった。

 しかし彼は気にする素振りもなく後ろに立って、俺の腰に手を回す。

 腰というか、骨盤のすぐ上。

 力強くも細い左右の五指に力が込められ、特に右手の中指はへその近くにまで伸びる。その下にある薬指と小指は必然、へそよりも低いところに触れた。

「足、もうちょっと開いて」

 耳元で彼が囁く。

 開けと言われても、と困惑していると、それを察したのか彼も足を開いた。俺の左足の、もう少し左。ちょんちょんと爪先で示された位置に足を置こうとし、一瞬バランスを崩してしまう。

「おっと――」

 俺の左腰を支えていた手が上へと動いて、肋骨の辺りを強く掴む。

「ッ……すみません」

「ん、大丈夫。それより、ほら、腕を上げて」

 彼の左手は更に上へ。

 脇を通り越し、二の腕をそっと押す。締めていた脇が持ち上がると、右手で支えられたままの右腰がピンと張るのが分かった。

「そう、そんな感じ」

 足を開いた分だけ頭の位置が下がり、声は少し高いところから聞こえた。

 それだけなのに何故か、手に力が入る。緊張、しているのか。

「……と、もうちょっと力抜いて。そんなに強く握らなくても大丈夫だよ」

「は、はい」

 くすりと笑うような声に、返事が上ずった気がする。気のせいか。分からない。

「すみません、こんなの初めてで」

「気にしなくていいって。誰でも、なんでも、最初は不安になるもんだ」

「にしても、これは――」

 不安というよりも、と言いかけた口が不意に閉じる。

 二の腕を離れた彼の左手が顎を触れ、そっと引いてきた。

「お喋りもいいけど、顎が上がってるよ。口は閉じた方が楽かな」

「……っす」

「ん、そうそう。上目遣いするくらいでいいよ」

 足を開き、腕を上げ、腰を支えられ。

 慣れない姿勢はあと一分も続けたら攣りそうだったけど、ずっと腰を支えていてくれた彼にはその不自然な緊張も筒抜けだったのか。

「それじゃあ、一回やってみようか」

 耳元の声は楽しげに笑うかのようだった。

 腰の手が離され、背中からも熱が遠ざかる。

 そして。

「いいよ」

 彼の声を合図に、左足を上げて。

「――っ!」

 腰を捻り、構えたバットを半ば振り下ろす。

 ぶんっ、と鈍い風切り音が鳴った。右上から左下へ、全身を包むがごとき風と音には快感さえ覚える。

「おぉ……!」

「そうそう、上手い上手い!」

 背後からの拍手には童心を思い出すほどに嬉しくなってしまうが、しかし。

「それじゃあ、もう一回構えてみようか。腕はね、えっとね」

 ちょこちょこと近付いてくる足音と、再び脇の下に伸びてきた手。

 それを躱しながら振り返って、すぐそこできょとんと首を傾げている彼――平夏希に一言申す。

「いや、うん、近くないですか?」

「え? ……あ、うん、だからバット振る時はちゃんと人が離れたのを確認してからにしてね。あと余所見は絶対しないこと。他の人のボックスにも入っちゃダメだよ」

 大真面目な顔で言ってくれる夏希さんだが、彼は本当に気付いていないのか。

「ん?」

 どうやら本当に気付いていないらしい。

 俺、昨日あなたに告白してるんですけど。

 いくら男同士とはいえ……いや、男同士だからこそ取るべき距離というものがあるはずだろう。

「えっと、腰とか痛めた?」

 言いながらも腰に伸ばされた手を叩いて落とし、ふぅとため息をついてみせる。

「夏希さん」

「う、うん?」

「なんか色々、近いっす」

 顔には、はてなマークが並んでいた。

 頭を抱えたくなり、すんでのところでバットを握ったままだと思い至る。代わりのため息をもう一度。

「すみません、こっちの話でした」

「……? よく分かんないけど、逢香君ってもしかして不思議系?」

 そのまんま返したいんだけど、もしかしなくても伝わらないから呑み込んでおく。

「後で少し、時間貰ってもいいですか」

 最初あれだけ輝いていた夕日も藍色に呑まれようとしていた。

 そろそろ放課後が終わり、夜の時間が始まる。

 夏希さんは僅かに首を傾げたものの、すぐに納得の表情で頷いた。

「ん、大丈夫だよ」

 答えを確かめ、いつの間にかズレていたヘルメットを直す。

「それじゃあ泣きの二十球、できるだけ打ち返しますか」

 気合を込めて言うと、夏希さんは頬を綻ばせた。

 思わずといった調子の、飾らない笑み。

 きっと飾る必要など感じていないのだろうけれど、その無意識で無自覚の笑顔に、だからこそ思ってしまう。

 あぁ、――……。

「できるだけじゃなくて、全部打ち返そうよ」

「無茶言わないでください」

「いやいや、それくらいの気概でいかないと」

 六十球のうち、当たった球を数えて二つか三つ。

 前に飛んだ球は、アウト必至のピッチャーゴロ。

 そんな俺がいきなり二十球全てを打ち返すなんて不可能もいいところ。分かっていて、精神論だと彼は言ったのだろう。

 無邪気で、それなのに少し悪戯っぽい笑みに、思ってしまった。

「それじゃあ、まぁ」

 呟き、誰だったかメジャーリーグで活躍した選手の真似をする。

 ワイシャツの袖を引き、肩から一直線にバットを伸ばした。指し示す先は、遠く見上げた先、ネットに取り付けられた白い的。

「全部ホームランくらいの気持ちでいきます」

 笑って言えば、彼も笑う。

 無理だと、そう笑う顔ではなかった。昨日会った……いいや、会ったとも言えない、二言、三言交わしたきりの相手に。それでも、その意気だと心の底から応援してくれるような笑顔に。

 応えよう、とは思わない。

 だけど、思う。

 その笑みの先を、見せてほしいと。

「それじゃ、やります」

「よし、頑張れ!」

 バットを引いて、右肩の上へ。

 足を開き、腰を落とし、顎を引く。

 夏希さんが何か言う。微かな金属音。コイン投入の音か。

 見据える先、暗闇を映していたモニターにピッチャーが姿を見せる。

 足が上がった。

 さぁ、来い。



 カキィン――ッ!

 甲高い音、突き抜ける風。

 手に響く重い感触は、それでいて軽やかで。

 間延びした一秒が過ぎ、二秒が過ぎ、三秒を数えようとした頃だろうか。

 白球は、吸い寄せられるように白い的へと飛んでいって。

 そして――。

「……っ!」

 三十センチか、四十センチか。

 的の少し下を捉え、音もなくネットを揺らす。

「惜しいっ!」

 こちらはすぐ近くのネット越し、悔しささえも滲ませた声が聞こえた。

 たったそれだけで、胸の中に生まれかけた暗い感情が消えてしまう。自然、笑みまで零れた。

 残り十九、十八、十七……。

 一球一球、絶えず数え続けたそれを忘れるはずもなく、だからモニターが闇を映すより早く振り返っていた。

「行ったと、思ったんですけどね」

 呟く。

 我ながら変な声。

 知らず知らずのうちに喉が乾いていた。

 肩が痛い、指も痛い。腰に至っては攣りそう。だけど疲れたとは思わなかった。

「もう一回! もう一回やろう!」

「無理ですよ、体力が限界です」

「大丈夫! 逢香君はまだ若いから!」

「高二はそんな若くないですよ。中学の元気が懐かしいです」

「大学生になったら一気に老けるから! 今はまだ若いよ!」

「ていうか、そういう話じゃないですから」

 笑って、バットを片付ける。

 ヘルメットを外すと、髪が少し重くなっていた。このヘルメット、実は結構汚かったり……?

 考えてはいけない真実から目を背けながら、ふと背後を見上げる。

 ネットが風に煽られ、ホームランを示す白い的も下手な凧みたいに揺れていた。

 一度も揺らせなかったそれが今、これでもかと揺れては沈みゆく夕日を反射する。

 結局、打ち返せたのは八球だけだった。二十球のうちの、たった八球。それも半分はどうにか弾き返した程度で、打球を見上げたのはただの一度、最後のあれだけ。

 運に味方された感触が今なお手の平に残る。

 努力だけでは届くはずのない領域に、しかし時折、それもここぞという瞬間に指先が触れることは今までにも幾度かあった。

 きっと、それ。

 だから悔しいとは思わない。

「でも、また挑戦したいですね」

 話の繋がりを無視した言葉。

 それをどう受け止めたのか、彼は柔らかい笑みを浮かべ頷いた。

「なら、また来ようよ」

 何気ない言葉を、俺はどう受け止めるのが正解だったのだろう。

 考えるより早く……考えようともせず、気が付いたら答えていた。

「来てくれますか? また、一緒に」

 考えるより早く、それを待つ気もなく、溢れてしまった思いは声を纏う。

「好きです。あなたのことが。一目惚れでしたけど、でも一目惚れだけじゃなくて」

 緑のネット越し。

 自分が……自分たちが今どこにいるのか不意に思い出して、苦笑する。雰囲気もへったくれもない、行き当たりばったりの、誰が言ったか勇み足のままに、それでも。

「あなたのことが、好きです。付き合ってください」

 頭は下げず、手も差し出さず。

 驚きとも違う、曖昧な感情を浮かべた瞳を見据える。

「僕、男なんだけど」

「知ってます」

「君って、バイ?」

「違います」

「……ゲイ、でもないよね」

「そうですね」

「じゃあ――」

「でも、です」

 短い声の応酬だった。

 そこに込められた感情は、きっと互い自身も持て余していたに違いない。

「少し時間が欲しい。待っててくれる?」

「少し、ですか?」

 彼は笑った。

 困った風に、首を振って。

「分からないよ。一週間か、一ヶ月か、それ以上か……」

 彼は上を見る。

 夕日は、もう沈んでいた。

 それ以前に、彼の頭上に広がるのは空ではなく低い天井だろうか。

「歳を取るのは嫌だね。迷うことが増えた」

「意外ですね」

「だから、僕は君ほど――」

「いえ、迷ってくれるんだな、と。てっきり即答されると思ってましたから」

 夏希さんは一瞬、首を傾げた。

 しかし直後には諦めたような笑みを浮かべ、やはり笑いを滲ませた声を零す。

「なのに言うんだ、こんなこと」

「自分でも驚いてます。昨日だってそうですよ。そんなキャラじゃなかったんですけどね」

 もっと冷静で、大人びていて。

 他人から告げられる評価は、裏を返せば退屈な人間であるとラベリングする。

 だから驚いた。

「初めてなんですよ、多分。本気で人を好きになるのが」

「恥ずかしいこと言うね」

「言わなきゃ、伝わらないと思ったので」

 夏希さんが不意に顔を背けた。

 その時ようやく、ホームランを打ち損じた時にも感じなかった悔しさを胸に抱く。

 とうとう沈んだ夕日に、それでも染まったかのような彼の顔を、できるなら正面から見たかった。

「……君は若いよ、やっぱり」

 声音は苦く、口は酸っぱいものを食べた時のように尖らせて。

「時間をくれる?」

「待ちますよ。……だけど」

 待つと言いながら、しかし返す言葉を待つことはなく。

「待っている間に、また来てくれますか? 意外と楽しかったんですよね。付き合うとか付き合わないとか関係なく、普通にまた来たいくらいに」

 だけど、それは当然。

 楽しかったからと、一人で来たら肩透かしを食うのは明白で。

「それは卑怯だよ」

「嫌なら嫌と言ってください。無理強いしたくはないので」

「……分かってて言ってるだろ、君」

「分かってるはずなのに確信できないのが怖いところです」

 一目惚れした、その顔を見る。

 少しは引いたけど、それでもまだ赤い頬を見て、分かった気になるのが怖かった。単なる見間違いか、あるいは怒りや何かに紅潮しているだけで、胸の高鳴りを共有などできていないのではないか。

 不安になる気持ちを鎮めるのは、一人では無理だった。

「嫌じゃないよ、嫌じゃない」

 言い聞かせるような口振りは、俺だけに向けたものではないのだろう。

「楽しかった、すごくね。我を忘れて楽しくなって、我に返って恥ずかしくなって、だけどまた楽しくなって」

 彼は俯き、そして顔を上げた。

「随分と久しぶりで……もしかしたら、僕だって初めてかもしれない。こんな心地になったのは」

 晴れやかな笑みが意味する思いは、想像しようにもできなかった。

 顔が熱くなる。

 あぁ好きなんだと、これから何度でも気付かされるのだろう。

「だから待っていてほしい。落ち着いて、これがそうなんだと君に答えられるようになるまで」

 カキン――と音が鳴る。

 バッターボックスじゃなくて、心のどこかで。

 そして知る。

 恋に落ちる音と誰かが言った。

 きっとそれは、こんな無機質な音じゃない。バクバクと鳴り響く鼓動か、重ねた手に伝わる脈動か。

 けれど今だけは知っていた。

 あと一歩でホームランになれた、打ち損じの金属音。

 それは心に刻まれ、いつまでも思い出させるのだろう。

 今日この日の、今この瞬間の、綯い交ぜになった高揚と不安を。

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