2話 また、はじめまして

 その人は、今となっては見間違えようもなく男性だった。

 スーツだろうか。

 上下セットではない状態をなんと呼べばいいのかは分からないが、まぁ一目でスーツのそれと分かるズボンに、上もなんの変哲もないワイシャツを着ていた。

 対する俺も格好としては似たようなものだ。制服のズボンが紺色で、学校指定のワイシャツが僅かに水色がかっているくらい。

 学生も社会人も関係なく、男には男の装いがあるのかと改めて気付かされる。

 見慣れ、いっそ見飽き、どこで見かけても背景に溶け込んで意識もできないであろう服装だったはずなのに。

 心が、揺れる。

 いつどこで何度見ても、きっと今の姿の彼に一目惚れはしないだろう。

 しかし、これも面影と言っていいものか。昨日心奪われた姿と重なってしまい、抵抗しようにも乱れる鼓動を自覚する。

「昨日の人、ですよね」

 今更すぎる言葉を口にする。

 違いますよ、と言われれば、それが裏腹の答えになっていると承知で立ち去れた。

「……分かるものかな、一目で、あの距離で」

 だが驚きとも諦めとも取れる表情で答えられてしまえば、すみません人違いでした、と繋がっていない会話を演じることもできない。

「そりゃ、まぁ、なんといいますか」

 面と向かって、惚れた顔を忘れるかと言えばいいのか?

 まさか、だ。

 言えるわけがない。女が相手でも歯が浮く台詞を、どうしたら男に言えるだろう。

「眼鏡、変えてないんですね」

「眼鏡? それだけで?」

「全部言った方がいいですか」

 思わず語気が鋭くなってしまった。それで彼も察したようだ。

 口にしかけた言葉を飲み込むかのごとく喉仏が動き、あぁ男なのかと何度目かの気付きを得る。なのに……いや、これは残滓だ。昨日の衝撃の、衝動の、その残り滓に過ぎない。

「えっと、すみません」

「あぁいえ、こっちこそ無神経に」

 無神経って何がですか、と喉まで出かかった声をどうにか制する。

「昨日のことです。あんな人前で」

「あ、そっちか。まぁあれは……あれは、すごかったね」

 たはは、と口の動きだけで笑う姿は、率直に言えば気の良い大学生のよう。

 夏期講習でお世話になった塾にも、人当たりが良く女子に人気の大学生がいた。

 この人も若く、二十代前半だろうか。細身で、そうでなくとも肩幅が狭い。とはいえ、男にしては、だ。

 そもそも髪も長くはなかった。カツラ……じゃなくてウィッグだったのだろう。昨日は肩口にかかる長さだったが、今は毛先から耳が覗く。

 どこからどう見ても、女と見間違える要素はない。

「すみません、ご迷惑おかけして」

 これで何度目の謝罪だろうか。

 何度謝っても足りない気がする一方、謝りすぎて気を遣わせるのも申し訳ない。

「え、あぁ、大丈夫だよ、大丈夫。知り合いもいなかったし」

「そういう問題ではないと思いますけど」

「そういう問題でしょ」

 愛想の良い笑顔を浮かべ、事もなげに言い切る。

 その静かな笑みを湛える眼差しが逸れて俺の背後、車道の方へと向けられた。

「でも今は、場所変えた方が良さそうかな」

「場所ですか?」

 振り返れば、言うまでもなく見慣れた校門と校舎がある。

 下校時刻を迎えてしばし。中途半端な時間帯ゆえに生徒の姿は疎らだが、校門正面とあってか少ない通行人は幾らかいる。その大半が一瞥はしてきた。

「僕の知り合いはいないけど、君の知り合いはいるでしょ」

 だから場所を変えた方がいい、と彼は言うものの。

 場所を変えて、いったい何を話すというのか。昨日言いそびれた謝罪を既に口にしてしまった以上、俺から言うべきことなど何もない。

 いえ、用はもう済みましたから。

 たったそれだけの言葉で事足りたはずなのに、どうして俺は別の言葉を探しているのか。

「時間、大丈夫なんですか?」

 まだ日が傾き始めた時分。

 高校生にとっては一日の終わりに等しくも、社会人にとってはどうなのか。

「それは大丈夫。今日は早上がりだったから」

「けど、予定とかないんですか?」

「予定かぁ」

 嫌なら嫌と言えばいい。

 ただ一度顔を合わせただけの、知り合いとも呼べない間柄。多少ぞんざいに別れたところで、後腐れも何もない。

 分かっていて、どうして煮え切らない言葉を繰り返すのか。

 それも自覚できてしまうと、彼の顔を直視するのさえ辛くなりそうだった。

「あると言えばあるね、予定」

「じゃあ、そっちを優先してもらえれば」

 終わりにしよう。

 何をと付け加えることもなく、心に決めた直後だった。

「君は?」

「えっ?」

「君は時間、大丈夫?」

 この人は何を言おうとしているんだろう。

 呆然と眺めた先に晴れやかな、それでいて相変わらず女と見間違えるはずのない笑みを見つけ、言葉を失った。脳が再起動するまでに要した時間は、きっと数秒に満たない。

「もう、これで帰るだけですから」

 大丈夫とは明言しない答えは、きっと最大限の抵抗だった。

「なら少し付き合ってくれる? 一人で行くつもりだったんだけど、そうだね、ちょうどよかったよ」



 カキン――ッ。

 甲高く硬質な音が響く。

 白球が鮮やかな朱色に包まれ、消えていった。

 しゅぱっと擦ったような音が鳴る。

 カキンッと再び金属音が響いて、再び白球が夕焼けに消えた。

 モニターに映し出されたピッチャーが構える。足を上げ、踏み込んだ。

 同時、こちらは映像ではないバッターが足をスライドさせる。腰がぐっと捻られ、上半身がそれに続いた。

 カキン――ッ!

 バットが振り抜かれる。

 高速回転するせいで縫い目が見えなくなったボールがぐんぐん高度を上げ、夕焼けに消えそうになった次の瞬間、ネットに取り付けられた白い的に命中した。

 ホームラン。

 初球を弾くように転がして以降、十八球をフライかライナー……水平以上の角度に打ち返してからの、ラスト一球だった。

 バッターが振り返る。

 白い歯を覗かせ、どこか誇らしげに片手を挙げてきた。

 無視するのも変な気がして、パチパチと手を叩く。

 それでようやく高すぎるテンションを自覚したのか、彼は笑いながら顔を背け、そそくさとバットとヘルメットを片付けた。

「久しぶりでも案外打てるもんだね。楽しくなっちゃったよ」

 と苦笑しながら言い訳する彼は、夏希と名乗った。

 平夏希。

「じゃあ次は君の、逢香君の番だ」

 そう言って差し出されるのは、別にホームランを打ったからといって増えて戻ってくるわけでもない謎のコイン。一枚二百円で、二十球。千円払うと六枚貰え、二百円分お得になるらしい。

 曰く、ちょうど三回ずつできるね。

「えっと、夏希さん続けていいですよ」

「いやいや、遠慮しなくていいから。僕も連続は少しキツいし」

 笑い、夏希さんは悪戯っぽく付け加える。

「僕も若くないからね。現役の高校生と一緒にされちゃ困るな」

 どの口が言うんだろう。

 よく野球部の奴らが『腰を入れる』などと謎の言葉を発していたが、素人でも一目で分かった。あれが腰の入ったスイングである。

 対して、俺は……。

 楽しそうに笑っているところに水を差すのも気が引けて、渋々とはいえコインを受け取ってしまう。二百円のコイン。ゲーセンと違って、成果にかかわらず一律の収支なのが救いか。

 吊るされていたヘルメットを被り、傘のごとく置かれたバットを一本抜き取る。

 握ったグリップは、ほんのり温かかった。同時に感じる湿り気は果たしてどちらのものだろう。考えたくなかった。大きく吸った息を吐き、投入口にコインを入れる。

 急いで五角形の左側に逃げた。バットを肩に担ぐ。

「ん? あっ、ちょっと待って」

 背後……というより右側か。ネット越しに声が上がるも、モニターに映し出されたピッチャーが待ってくれるはずがない。

 足が上がった。

 来る。

 勢いよくバットを振ろうとしたら、カコンと間抜けな音が側頭部で聞こえた。直後、ボールが二重になったネットを叩く。サッカーなら見事な得点だ。

「……えっと」

「言わないでください。分かってますから」

 カコンと鳴った間抜けな音の正体、それはバットで自分の頭を叩いた音だった。

 ヘルメットの重要性を思い知りながら、再びバットを構える。肩には担がなかった。少し腕は疲れるが、こうしないとボールの速さに対応できない。

 ピッチャーが足を上げる映像。

 先ほどよりワンテンポ遅らせる意識でバットを振、れなかった。よし、と思った時にはボールがすぐそこまで来ていて、何もできずに二点目がゴールネットを揺らす。

「…………が、がんば!」

 死にたい。

 諦めて、いいかな。

 だけどピッチャーが待つわけもなかった。

 また足を上げる。やめてくれ。後ろから見ていた時はタイミングが見えやすくなると思ったピッチングフォームだけど、いざバッターボックスに立つと視線をどこに向ければいいのかさえ分からなかった。

 ボールが飛んでくる。

 振った。

 風の音さえ鳴らせず、バットが空を切る。ピッチャーが三点目を獲得。ハットトリックだ。残り十七球で、彼は何得点決めるのだろう?

 バットを構える。

 ピッチャーが足を上げた。

「ふんっ!」

 見事な見事な、空振りである。



 肩で息をする俺。

 居た堪れない微笑で迎える、つい昨日告白した相手。

 なんだかんだ上手いことやれているんじゃないかと思えた十七年の人生は、たった二日で散々な有様に成り果てようとしている。

 どうしてこうなった。

「えっと、ほら、最後の方は当たるようになったじゃん!」

「どうにかこうにか前に転がしただけでしたけど、あれ、実戦じゃどうなります?」

「…………その、うん、ピッチャーゴロ?」

 素人でも知っている。

 ゴロ、それはアウトになるやつだ。

「いやでも、あの打球速度だったらダッシュすればセーフになるかも」

「俺が言うことじゃないですけど、そのフォローは間違ってます」

 悲しいけどこれ、実戦じゃないんですよ。

 二十球を六セットとなると意外に時間がかかり、途中でちらほら会社帰りらしいスーツ姿を見かけた。彼らは決まって二十球を上手いこと弾き返し、額に汗しながらも清々しい顔で出てくる。

 そう、これは実戦ではない。

 ゴルフでいうところの打ちっぱなし、気分転換に心ゆくまで打つところ。

 なのに、俺は……。

「いっそバントした方がよかったんじゃないかな」

 肩と腕、ついでに変に踏ん張ってしまった左足が痛む。

「慣れないならバントはやめた方がいいよ。最悪、指とか手首持っていかれるから」

「そういう話じゃないんすわ」

「あっ……まぁ、そうだよね」

 俺、何やってんだろうな。

 一目惚れして、勢いのままに告白して。

 それだけでも下手をしたら一生ネタにされる醜態なのに、その相手が実は男で。

 しかも告白の翌日に偶然会ってしまって、流されるまま連れてこられたバッティングセンターでは、この有様。

 律儀にして残酷な、交互に臨んだ六十球。

 夏希さんは一度の空振りもなく、ゴロだかファウルだかも合わせて二、三回。

 一方の俺は、当たった全てを数えて二、三回。

 打球を見上げることは、ついぞなかった。

「えっと、なんかごめん」

「や……それは俺の台詞じゃないですかね」

 ここまで打てないとは、自分でも思わなかった。

 行き先がバッティングセンターだと聞かされ、俺はなんと応じたんだったか。打ててもいないくせに疲れた脳は、ほんの一時間かそこら前の記憶も引っ張り出さない。

 しかし、身体を動かすのもいいか、と軽く考えたのは覚えている。

 運動部のマネージャーは結構な重労働だ。選手ほどではないにせよ、炎天下で部活に勤しめばそれなりに汗をかく。その部活が休みだった今日は、だから運動不足な感じもあった。

 でも、これはなぁ……。

「聞くまでもないですけど、夏希さんって経験者ですか」

「経験者ってほどじゃないよ?」

 そんなわけがあるか。

 睨むと、目を泳がせる。

「まぁその……中学までは野球部だったかな?」

「がっつり経験者じゃねえか」

 思わず敬語を忘れるほどだった。

 経験者でしかも年上が未経験者連れてカキンカキン打つなや。

「でもほら、少年野球くらい基本やるでしょ?」

「俺はサッカーでした」

「あ、あぁ……」

 男子小学生の半数以上が野球かサッカーのクラブに所属すると言っても過言ではないであろう極東の島国、その名も日本。

 そこで日夜繰り広げられる争いは必然、国民的球技の代名詞を奪い合うそれ。

 サッカー経験者は行き過ぎた坊主信仰を糾弾し、野球経験者はサッカーなんて女にモテたい奴がやるんだと僻む。なのに野球はシーズンを通して話題に上がり、サッカーはワールドカップの時に思い出されるだけ。

 何故だ。

 どうしてだ。

「あの、ごめんなさい」

 サッカー少年の憤りに気付いたのか、かつて野球少年だった男が頭を下げる。

 ……これは、うん、俺が悪い。あまりに恥ずかしい姿を見られすぎて、ちょっとおかしなテンションになっていた。

「いえ、こっちこそすみません」

「いやいや。なんか途中でこれまずいなって気付いたんだけど、言い出せずに続けちゃった僕が悪いと思うんだよね」

「自覚あったんかおい」

 ありました、と夏希さんが笑う。

 しかし、そうは言っても、だ。

「でもまぁ、いいですよ。……なんて言うと偉そうですけど。あそこまで気持ちよく打つ姿を見るのは、それはそれで楽しかったですし」

 ピッチャーゴロも、実戦では褒められたところなんて一つもない結果かもしれないけど、自分なりに試行錯誤して打ち返した一球だと思えば嬉しくないわけがない。

 欲を言えば、ホームランとはいかずとも夕日に溶け込む一打を上げたかった。

 でも、たった六十球だ。

 これで打ててしまえるなら、誰しも努力なんて馬鹿らしくなってしまう。

 だから悔しさなんて、ないはずだった。

「逢香君」

「なんです?」

「もう一回やろう。二十球で、今度こそ打とう」

 腕と肩、足でさえ明日にも普段使わない筋肉が悲鳴を上げるのは目に見えていた。

 なのにどうして、俺は頷いたのだろう。

「無駄になるかもしれませんよ」

「大丈夫、構え方も振り方も教えるから。だけどね」

 夏希さんは、そして微笑む。

「仮に打てなくても、全部空振りしても、それが無駄なんてことはない」

 知っていますよ、と笑ったつもりだった。

 夏希さんが首を傾げる。

 これは、ダメだな。頭を振って、追い払おうにも、その努力はどれだけ積み重ねても無駄だと痛感するだけだった。

 どんな努力も、無駄なんてことはない。

 だけどこればかりは、どれだけ足掻こうと無駄だろう。

 笑ってしまった。

 そりゃ、そうだ。

 頭では振り払おうとしても、心が強く引き止めてしまうのだから。

 俺はやっぱり、この人のことが好きだ。

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