1話 変わらない日常が変わった日

 修と七瀬はとも目立つ存在だ。

 修は身長一七五センチで、今なお成長中。日に焼けた肌がスポーツマン特有の魅力を発揮するのか、特別カッコいいわけでもないが何故かモテる。

 一方の七瀬も長身の持ち主だ。一七〇センチの長身を靭やかに撓らせる走り方は重さも忙しさも感じさせないのに速いから、ゴールラインから見ていると遠近感が狂う。また中性的な容姿と立ち振る舞いもあって、女子人気も高い。

 そんな二人の横に並ぶ俺は、果たしてどんな風に映るのか。

 首を振り、らしくもない考えを追い払う。

 その気配を察したわけもないだろうが、何やら話し込んでいた七瀬が不意に顔を上げ、こちらを認めた。

「よう、ヒーロー」

「勇者の次はヒーローかよ」

 悪態をついて返し、遅れて目を向けてきた修には軽く手を挙げて挨拶とする。

「ヒーローじゃなきゃ重役か? 遅刻野郎め」

「先に言っといただろ。……まぁ、悪かったよ」

 咎め、あるいは詫びつつも、そこに特段の意味はない。

 七瀬も引きずることなく話題を切り替えた。

「で、話ってなんだったんだ?」

 憂鬱な月曜日は、負担を減らすためという名目で部活の休養日でもある。

 それで使えない部室の代わりに教室で予定を合わせようと決めた矢先、ホームルームを終えたばかりの担任が俺を呼び出したのだ。

 理由は、何か?

「昨日のことだよ。見てた人が苦情……でもないか。ともかく、わざわざ連絡を入れたらしい。見ず知らずの他人に迷惑かけるのはやめろ、と」

 幸いにして修と七瀬以外の知り合いはいなかったみたいだし、相手が男だったという事実も伝わってはいなかったが。

 しかし、あれから丸一日以上が過ぎたとは未だに信じ難い感覚だった。

 というより、あれは本当に現実の出来事だったのか? 何もかもが昨夜見た夢じゃないのか。帰り道、予定を変更して立ち寄ったラーメン屋で、自分が何を食べたのかさえ上手く思い出せないほどだった。

 と、そうだ。

「あと、制服のままラーメン屋には行くなって」

「なんで?」

 それまでの沈黙はどこへやら、間髪容れず声を上げたのは修だ。

「買い食いとかは特に禁止じゃないだろ。居酒屋なら分かるけど、ラーメン屋は別にいいじゃん」

「や、制服に臭いが付くって」

「あー、それは私も言われた。先生じゃなくてお袋にだけど」

 思い出した。

 そういえば背脂マシマシ豚骨ラーメンにニンニクのトッピングまでした猛者がいたはずだ。その名も遠藤七瀬。尊敬に値する。

 対する俺は無難に味噌ラーメンを注文し、あまりに無難すぎる味とインパクトに記憶が薄れたんだった。

「背脂豚骨にニンニクトッピングはなぁ」

「それ駅であんなことやらかした人間が言えんの?」

 それとこれとは別だろう。

 至極真っ当な意見は口にはせずに呑み込んだ。教室には他にも居残りの生徒がいる。大抵は各々のグループで会話に花を咲かせているが、互いの話し声は漏れ聞こえる距離感だった。

 人でごった返す日曜日の駅で初対面どころか一言も交わしていない相手に告白するなんて言語道断を、しかも女装していたとはいえ男相手にやらかしたのだ。二人も言い触らすような真似はしないでくれたが、職員室には既に伝わっている。

 噂がどこから漏れるか分からない以上、雑談には付き合いながらも気は抜けない。

「あれはすごかったよな」

 感慨深げに呟くと、修は一層声を潜めて続けた。

「正直、尊敬するわ。嫌味とかじゃなくて、逢香もあんな熱くなれるんだな」

「それは自分でも驚いてる。未だに信じられん」

 いつの間にか、汗をかくのも嫌がる歳になってしまった。

 気付けば何もかも無難が一番。豚骨ラーメンより味噌ラーメンで、トッピングもニンニクではなくテーブル置きの七味唐辛子で済ませた。

 退屈だと思ったことはないし、そう誰かに言われたら、これは退屈じゃなくて安定なんだと言い返してきただろう。

 なのに昨日は、あんなことを……。

「恋は人を変える、か」

 七瀬が呟く。

 必然、俺と修が揃って見開いた目を咄嗟に見合わせてしまった。

「七瀬が女子らしいこと言ってる……?」

「陰で七瀬様とか呼ばれてる陸上部の王子様の口から、こここ恋……っ!?」

「お前ら蹴るぞ」

 障害走までこなす短距離選手の蹴りは洒落にならねえ。

 黒は収縮色だというが、制服のスカートの下、黒のストッキングに包まれた足は男の俺と比較しても見劣りしない立派なものだ。

「おい」

「ん、どした?」

 鋭く重い声を零した七瀬。

 その視線が俺の目を見て、次いで自身の足に向く。

「人の足じろじろ見んな」

「すまん、立派だなと」

「マジで蹴るぞ」

「待て、褒めてるんだ。お前それでも陸上部の次期エースか!?」

 本気の眼差しに思わず声が大きくなる。

 それで何事かと視線が集まって、七瀬は居心地悪そうに鼻を鳴らした。

「まぁいいけど」

「や、悪い。無神経だった……か?」

「最後のが余計だ、最後のが」

 言いつつも、許しの言葉の代わりに笑みが向けられる。

 二人とは高校に入ってからの付き合いだ。去年は別々のクラスだったが、ただ同じ部活の仲間という以上の関係を築けたと思っている。

 気心の知れた仲、とはこういう感じなのだろうか。

 今みたいに少し冗談が過ぎることはあっても引きずらないし、黙って我慢もしない。嫌なことは嫌と言える間柄。

 だからこそ。

「まぁ、なんだ。迷惑かけて悪かった」

 冗談は冗談としても、何もかもを曖昧に流すわけにはいかない。

「気にすんなって」

「けど、目立ちすぎた」

 修は言ってくれるが、シャッター音も聞こえていた。平日の放課後ならまだしも、他の制服姿もなかった休日の出来事だから、二人まで関係者扱いされかねない。

「ま、後先は考えるべきだけどな。今のところは大丈夫そうだよ」

 俺の心配を汲み取って、七瀬がスマホの画面を見せてくる。

 SNSの検索結果が表示されていた。検索は、昨日やらかした駅の名前。

 しかし並んでいる投稿は見知らぬ誰かの待ち合わせのやり取りや、撮り鉄らしきアカウントの見慣れないホームと車両の写真ばかり。

「昨日もざっと調べたけど、似たような名前の別の駅の話ばっかり。人も結構いたし、制服から特定されるかもと思ったんだけど」

「あー。むしろ制服なのがよかったんかな」

 七瀬の疑問に修が応じる。

「迷惑行為っちゃ迷惑行為だけど、真剣なのは一目瞭然だったしな。あんなの上げたら炎上しかねない。特定なんかしたら騒ぎが大きくなるだけだ」

 なるほど、と手を叩く。

 雑談の種にはなっても、ネットで面白がるには火遊びが過ぎるのか。

「そうか、ありがとう。少し気が楽になった」

「お前は私たちのことより、自分のこと気にした方がいいけどね」

 自分のこと?

 まぁ職員室にも呼び出されたわけだし、心配して損はないか。

 というか、惚れた腫れたで盛り上がってもいられない。

 俺は陸上部の所属だが、選手ではなくマネージャーだった。普段は雑用係と言っても差し支えない立場なのに、今の時期は少々重荷を背負っている。

 秋で引退する三年生の送別会、その幹事だ。

 そうでなくとも来年に迫った受験のためにあれやこれやと……。

「いや、やめよう、自分のことなんて」

「なんだよ、急に」

「どれだけ悩んでも結局、努力するしかないだろ、自分のことって」

「そりゃそうだ」

 当たり前だろ、と笑う七瀬だが、不断の努力は当たり前にできることじゃない。

 スポーツをやっていれば、誰でも才能の存在を知らずにはいられないだろう。俺も小中とクラブや運動部に所属し、嫌というほど痛感してきた。

 しかし高校で初めてマネージャーを経験したからこその、今までとは違う気付きもある。

 努力と苦労は、これっぽっちも比例しない。

 苦しめば苦しむほど努力しているなんて道理はないし、反対に笑いながら楽しみながらでも努力はできる。七瀬はそういうタイプだった。自分の人並み外れた努力を、努力とさえ思っていないかもしれない。

 笑ってしまう。

 中学の頃に知り合っていたら嫌っていたに違いない。嫌味なやつだ、と。

「……だから、なんだよ」

「今は二人の心配をする方が楽しいって話だ。それで三送会、どうしようか」

 幹事は俺だが、二人も次期主将と副主将ゆえにやらなければいけないことが多い。

 昨日の帰りが俺たちだけ遅かったのも、そして休養日にもかかわらず今こうして居残っているのも、原因は三年生を送る会――略して三送会の相談だった。

 とはいえ、唯々諾々と雑用を受け入れるほど優等生でもない。

「折角なんだし、やっぱりバーベキューしたいよなぁ」

 何気ない風を装う修だったが、その提案は既に何度も却下されている。

「店の焼肉ならまだしも、火の取り扱いは許可が下りにくい。何度言ったら分かる」

「何度でも、だ。そこをこう、なんとかゴリ押すのがマネの役目だろ」

「マネージャーをなんだと思ってるんだ、お前は」

「並のマネージャーには無理でも、逢香にならできると思ってるぞ、俺は!」

 ここまで嬉しくない過大評価も珍しい。

 人が嫌がる雑用を買って出ている……ように見えるために顧問やその他教師陣の評判が良く、お陰で多少の我儘を見逃してもらっている立場だ。三送会を焼肉屋でやるならともかく、バーベキューはあまりに荷が重い。

「じゃあ、レクと一緒にすんのは?」

 いつもなら修が折れて次の案となるところで、意外な援護射撃が加わる。

「え、七瀬ってそういうキャラだっけ?」

「逢香ん中の私はどうなってんの?」

「冗談が通じないストイックキャラ?」

「喧嘩なら買うが?」

 言いながら膝を上げ、腕も軽く曲げてムエタイ的な構えを取る七瀬。

 失言一つで即座に膝が伸ばされ、弾丸のごとく射出された足が俺の鳩尾を捉える。本人は冗談のつもりなのだろうが、全く冗談になっていない。加減されても息ができなくなるのは確実だ。

「で、レクっていうのは?」

「あーあ、こいつ日和ったわ」

「了解した。次期主将がバーベキューをご所望だと教頭に嘆願しに行こう」

「よせ。角藤は洒落になんねえ、油科にしてくれ」

 角藤とは本校一厳しいとされる教頭であり、油科は厳しくも冗談が通じる体育教師こと陸上部の顧問である。

 本気でバーベキュー案を通すなら最終的には角藤教諭の許可も必要だと思うが、直訴するのと顧問を通すのとでは大違いだ。

「それで、七瀬? レクって具体的に何すんの?」

 ひとまず黙ってくれた修はさておき、臨戦態勢を解いた第二の提案者に視線を戻す。

「や、そこまでは考えてないけど、川辺とかでやるなら火の問題は解決しない?」

「あぁ……」

 確かに校庭でやるよりは火の事故が減るだろう。ただし減るのは火の事故だけ。

「そりゃ余計に無理だな。水難事故が怖い。いくら口で言っても悪ふざけする奴はいるだろうし、ゴミとかの不始末も問題になる」

 結局のところ、ぱっと思い付く範囲では厳しそうだというのが今までに話してきた結論だ。

 色々考えてはみたものの、焼肉屋が関の山か。

 それにしたって、どこかの空き教室に菓子を持ち込むよりずっとハードルが高い。

「何か抜け道あればいいんだけどな……」

 呟きつつ、こうも議論が踊る理由も承知はしていた。

「まぁ、無理なら無理でいいよ。何をどう繕っても三送会は三送会なんだし」

 話は毎度そこに行き着く。

 何をやりたいでもなく、何かをやりたいと言い合う限界がそこにあった。

 何か。

 あまりに漠然とした、主体性に欠けるそれ。

「もう少し考えてみるかな」

 それまで八年間続けてきたサッカーを辞め、たった二日しかない週末の長さを思い知った中三の日々。

 あの頃に味わった退屈と、曖昧なままに抱いた閉塞感と。

 そこから逃げるように探した何かを、果たして掴み取れたのだろうか?

「悪かったな、待たせたのにろくな話にならなくて」

「仕方ねえ、今度ジュース奢れ」

 言った直後、すこんと修の首が前に倒れた。

 尖すぎるツッコミを無言で入れた七瀬が、どことなく疲れた顔で呟く。

「このアホはともかく、今の三年の想像通りに動くってのは私も癪だから。だけどお前は……逢香はやっぱり、自分のこと優先してほしいかな」

 俺も、なんだけどな。

 今の三年が嫌とまでは言わないにせよ、決められた型に自ら嵌まりに行こうとするかのような、面白味も意外性もない姿に尊敬は抱けない。

 そんな彼らの想像通りなんてまっぴらだ。

「ま、今日のところは帰るか」

 持ち帰って答えが出るとは思えない。

 それに明日やりますでやれるものでもない以上、顧問への計画案の提出は早ければ早いほどよかった。

 しかし、このまま居残り続けるのは時間の無駄だ。

 二年の夏も、いつの間にか過ぎ去った。受験まで一年という節目が近付く中、誰にとっても貴重な時間は、より掛け替えのないものとなっていく。

「じゃあな、また明日」

 修が軽く手を挙げる。

 あぁ、また明日。

 そう答えようとして、ようやく違和感に気が付いた。

「あれ、二人は帰らない感じ?」

「ん、あぁ、まあな。少し話があって」

 どこか気まずい顔で応じる修。

 確かに俺が教室に戻ってきた時、二人は何か話し込んでいる風だった。

 ふむ。

 ほう。

 二人で、俺に言えない話とは。

 青春の代名詞たる十七の夏も、とうに過ぎ去ったのだったか。

「……そうか。それじゃあな、二人とも」

 最大限の祝福を笑みに浮かべ、手を振りながら背を向ける。

「おう、また明日な!」

 背後からは威勢のいい修の声。

「おい? 待て待て、冗談だよな? 冗談なんだよなっ!?」

 七瀬が悲痛に叫んだ気もしたが、廊下に出てドアを閉めれば続く声は聞こえない。

 まったく。

 それならそうと言ってくれたら、こっちも引き止めたりなんかしなかったのに。折角の部活が休みの放課後だ。たかだか高校生といえど、寄り道する場所に事欠きはしないだろう。

 長身の二人は、それだけで並ぶと絵になる。

 あの二人なら……と、よぎる気持ちを追い払うのは大変だった。

「詮索はよそう」

 独り言ち、それから頭を振る。

 階段を下り、昇降口へと向かう最中。

 それでも気付くと、教室に残してきた二人のことを考えてしまっていた。

 靴を履き替え、重いガラス戸を押し開け。部活が休みだからか人影の疎らな広場で、傾くのが早くなってきた夕日を見上げる。

 そして。

 やけに赤い光に目を焼かれる気がして、視線を戻したそこに。

「……ッ」

 見間違いだと、笑い飛ばしかけた。

 校門を出てすぐ。

 二、三分も歩けば昨日の駅だと知らず知らず考えかけた時。

 視線を感じたわけもないだろうに、車道を挟んで反対側を横切るように歩いていた人物が、不意にこちらを見やる。

 シャープな輪郭の眼鏡。

 数メートルの距離があり、見えるわけがないのに、右目の下にほくろが見えた気がした。

「あっ……」

 零された声は、俺と彼、どちらのものだっただろう?

 あの人と――、

 昨日見かけた……いや、一目惚れしたその人と、再び目が合った。

 互いに、互いであると気付いてしまえば、見なかったことにして目を逸らすこともできず。

「ど、どうも……?」

 そして零した声が届かなかったと、相手の表情で見て取れてしまえば――。

 腹を括り、それでも苦し紛れに左右を確かめる振りで時間を稼いで、都合よく横切ってくれる車もなかった車道を渡る。

 複雑に、けれど険しくはすまいと引きつった笑みが近付いてきた。

 きっと俺も、全く同じ表情をしているのだろう。

「すみません。えっと、どうも」

「いえいえ、ていうのも変かな」

 男が二人。

 高校の校門前で、あまりにぎこちなく笑みを交わした。

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