一目惚れの音
羊ヶ丘鈴音
プロローグ
音なんて聞こえなかった。
鼓動さえも感じられない静寂の中、踏み出した一歩だけが足音を刻んだ。
途端、麻痺していた思考が蘇る。
自分が何を思い、何を考えているのかも分からないまま、雑踏に消えゆく背中を追いかけた。
「あのっ!」
世界には、他の何者も存在しないかのごとく。
錯覚でしかない静寂に支配された世界で、俺自身の声がやけに大きく聞こえた。
その人が振り返る。
「ええっと……?」
困惑の顔。
無理もない。駅で歩いていたところをいきなり呼び止められ、振り返っても見知らぬ高校生が立っているだけなのだから。
「何か用、かな?」
辺りにちらちらと視線を投げながら、戸惑いがちに零された声。
それは思いの外低かった。ハスキーボイスとは少し違うものの、薄布を擦り合わせるかのような、さらさらとした質感の声だ。
心を奪われるというのは、こういうことを言うのだろう。
通り過ぎる一瞬の横顔を視界の端に見ただけの、出会いとも呼べぬ出会い。
一目惚れと呼ぶのもおこがましいほどの刹那から生じた想いに、しかし抗う術など知らなかった。
「好きです。一目惚れしました」
俺はいったい、何を言っているのだろう?
「付き合ってください」
まるでテレビのプロポーズ企画じゃないかと腹の底の自分が笑い出してしまう、頭を下げ右手を差し出した格好。
いつの間にか世界に音が戻り、駅を包む喧騒が耳を叩いた。
怪訝そうな声。隠し撮りのカメラを探す会話。重なるシャッター音。
あぁ、やってしまった。
この期に及んで、自分のことなど脳裏には浮かばない。明日には学校中に知れ渡るだろうと理性が冷静に囁くのに、心中で駆け巡るのは迷惑をかけてしまったと後悔する声ばかり。
「えっと……君、高校生だよね?」
見ての通りだ。
日曜日だが、部活で登校する際には制服の着用義務がある。だから一目見ただけで高校生だと、なんならすぐそこの高校の生徒だと分かるだろう。
「こういう冗談、良くないと思うよ?」
囁くような声だった。
反射的に顔を上げる。奇異の眼差しが痛いほどに突き刺さった。俺は……本当に何をやっているんだ。悪い冗談だ、そうだろう?
分かっていたのに、逃げ出すための言葉も用意できたのに、開いた口は理性とは裏腹の言葉を吐き出す。
「冗談なんかじゃありません。本気です」
相手の顔から、貼り付けたような笑みが消えるのが見て取れた。
あぁ、こうして見ると、どうしても自覚してしまう。好きだ。これが一目惚れか。そしてこれが恋だというなら、俺はきっと今、初めて恋に落ちたのだ。今まで経験した恋情とは、何もかもがかけ離れていて――。
大きな瞳。
シャープな輪郭の眼鏡。
右目の下の、いわゆる泣きぼくろ。
鼻も口も申し訳程度に付けたくらいに小さく、薄い色の口紅が嫌味のない大人らしさを思わせた。
ブラウスにプリーツスカートというシンプルな着こなしも、そのすらりとした立ち姿も、困惑と動揺を覆い隠して考え込む眼差しも、全て。
好きだった。
本気だった。
きっと何度でも。
この日この時この瞬間を何度やり直せたとしても、後悔すると承知で追いかけ、声をかけるだろう。
その人は、不意に微笑んだ。
そこに意味なんて見出だせない。笑みを見た。真正面から。それだけで有頂天に舞い上がる気がしてしまった。
いいや、気のせいではなく、舞い上がっていたのだろう。
顔が近付いてきて、あわや鼻と鼻がぶつかってしまうかという距離にまで来ても、現実感を捉えることができなかった。どこか夢心地で、そこに特別の意味を探そうとさえしなかった。
「ありがとね」
耳元で、さらさらとした声が紡ぐ。
「でも、ごめん。申し訳ないけど、僕は――」
世界が再び、静寂に支配された。
――えっ?
口に出したつもりだった驚きが、耳に届かなかったのではなく声になっていなかったのだと気付いたのは、遠ざかっていく背中を見つけた頃だった。
『申し訳ないけど、僕は――』
その人は、確かに言った。
聞き違いでなければ。
静寂を錯覚する余り、ありもしない声を聞いたのでなければ。
『――僕は、男だよ』
追いかけることも、引き止めることもできなかった。
困惑だけが脳裏にある。
何かの、それこそ悪い冗談だろう? あるいは面倒な高校生を引き下がらせるための方便か。でなければ、でなければ――。
「……え、なんて? なぁなぁ、なあって。今なんか言われたよな?」
背後から声がする。
聞き慣れた声。
その声を聞いてようやく思い出した。
自分が今、どこにいるのか。どうして、誰と、ここにいるのか。
振り返れば、嫌でも目が合う。
同じ陸上部に所属する二年の中で、特につるむことの多い二人がそこにいた。
「お前、勇者だよ」
七瀬……遠藤七瀬が笑って言った。
「勇者は勇者でも、勇気じゃなくて勇み足のな」
「全然上手くねえから、それ」
笑い声に応じるのは野崎
来年はそれぞれ主将と副主将を務めることが決まっている有望株だ。
そして今は、練習の帰り道。
乗る電車は違えど最寄り駅は当然同じで、同じ高校から同じ駅に向かうだけなのに別れるほど仲も悪くない。むしろ良好だ。だから言うまでもなく、一部始終を見られていたわけで……。
俺はそんなことも失念するほど彼女に――いや、彼に心を奪われていたわけで。
「で、なに言われたん?」
修が無遠慮に詰め寄ってくる。
だが、言えるわけがなかった。
女物のシャツを着て、それどころかスカートも穿いていた人物が男だったなんて。
顔を近付け、耳打ちしたからには、誰彼構わず聞かれていい話ではなかったのだろう。まぁ普通に考えれば女装家だ。そうでなくとも何かと気を遣い、遣われる立場。
「……いいだろ、別に」
「まぁまぁ修、
好奇心を隠そうともしない修を窘めてくれた七瀬に、思わず礼を言いそうになった時だった。
「逢香は、あとでこっそり私にだけ教えるんだよ」
冗談めかした口調とは裏腹に、微塵も笑っていない眼差しで射竦めてくる七瀬。
しかし、そんな眼差しでさえも今は心地良かった。
なんと言えばいいのか……そう、日常を感じる。慣れ親しんだ空気を吸って、失われかけていた現実感が全身に行き渡るかのようだった。
「こりゃ重症だね」
「あぁ、重症だな」
好き勝手言う二人に半ば引きずられ、俺は駅を後にする。
飯でも食って切り替えようぜ、とは七瀬の言だった。
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