7話『一の王』中編
緊迫した空気が一瞬にして崩れ去った。
自分の手に添えるように重ねられた白い手。
背中に感じる、柔らかな感触と、温もり。
だが、その白い手に触れられている指は、引き金を引く僅かな力も出せなかった。出す事が出来なかった。ピクリとも動かない。
アドニスは、突如として与えられた温もりに息を呑み、手を振り払う様に振り返る。
白い手は拒むことなく。アドニスの手をスルリと離す。
背中に感じていた体温が無くなり、彼女が離れるのが分かった。
「――やあ、少年」
振り向いた先。アドニスの頭上で、彼女は当たり前のように「ニタリ」と笑って宙に浮いていた。
なにが、「やあ」だ。状況を理解する。
笑うシーアの姿を見て、アドニスは徐々に表情を変えていった。
「お前、なんで此処に居る……!」
「何で、って、着いて来たんだよ。暇だったから」
怒鳴る様に問えば、シーアは悪びれも無く答える。
着いて、来た、だと?
いや、この女が着いてくることはアドニスだって事前に警戒していた事だ。しかしどれだけ注意を払い確認しても姿は無く、気配1つ感じる事も無かったじゃないか。
「何時から」
「最初からだよ。ずーっと君の側にいた」
アドニスの考えと裏腹にシーアはまた悪びれも無く答える。
最初からだと?だから、そんな事有り得ない。
だが、シーアは嘘もついている様にも見えず、それ以上の事は口にしない。
それどころか、会話に飽きたように、フワフワと飛ぶとアドニスの隣へ降り立つ。
遠くを見るように、手を額に付け、今まで彼が銃口を向けていた高層ビルへと視線を向けた。
まじまじと見つめてから、今度はアドニスへ。
正確に言えば、彼の足元にある端末を目に映す。その端末に映った、ジョセフの写真を見て。
「あー。やっぱり。アレ、其処に映って居る彼じゃないよ?別人」
やはり、また先ほどの言葉を一言。
この女は……。アドニスは苦虫を噛み潰したよう表情を浮かべる。
「ふざけるな、帰れ」――と。
もう一度彼女を咎め「約定はどうした」と、そう声を荒げようとした時。
シーアは言葉を遮る様に此方を見る。そして「ニタリ」と笑い端末に指を差し。
「ソコに映る彼とさ、あそこの彼。
「は……?」
到底理解が出来ない言葉を贈るのだ。
◇
シーアの言葉に出かけていた言葉は喉の奥に詰まり。
理解が出来なくて、唖然と彼女を見つめる。
色がちがう。何が?この女は本当にいったい何を言っているのだ。
疑問のままに、端末に視線を送る。画面に映るのは爽やかな笑顔を浮かべるジョセフの姿。
色なんて、別にない。今日とはスーツの色が違うぐらい。
「……ほーら、現れた」
首を傾げるアドニスの隣で、シーアがニタリと笑って言った。彼女の視線は高層ビルに向けられていた。
この様子に、アドニスは我に返ったかのように苦虫を噛み潰した。
たった今、現状をその瞳で見たかのように言った、この女。
先程も同じ行動を取ったが、よくよく考えれば此処から目標ビルまでは3キロある。双眼鏡の類無しで、3キロ先の高層ビルの中が見えるか?ありえない。
つまり、今の今まで彼女は、此方を
舌打ちを一つ。アドニスはシーアから視線を外した。
正直言うと、笑えない冗談過ぎて、殺してやりたくなったが。殺せないし、時間の無駄だ。言い争うのは更に時間の無駄。
今は任務に集中。そう判断し、再び銃を構えスコープを覗き込み。
「――っ」
只の一瞬で、眼に映った信じられない光景に息を詰まらせる。
当たり前だ。なにせスコープの先。
沢山のドレスを纏った女に囲まれる灰色のスーツのジョセフ。
その隣にワイングラスを片手に佇む男が一人。その男は。
銀髪に緑の目。黒いスーツで着飾り、物腰柔らかな人気者の笑みを湛える、其れは紛れもなく――
「ゲーバルド・ジョセフ・ゴーダン」であったのだから……。
◇
――……影武者。
親しげに笑いながら、並んで立つ2人のジョセフ。
彼らを見た時、アドニスの頭には瞬時にその言葉が浮かんだ。
引き金から指を離す。もう一人の正体は否が応でも分かった。
だが、でも、どうして影武者が此処に居る。
いや、影武者が居ること自体は可笑しくない。ジョセフは王族だ。
問題は本物と一緒にこんなパーティー連れて来ている点である。アレでは、影武者の意味を成してないではないか。
これは
そんな事よりも、アドニスは顔を顰める。怒りを募らす。自分自身に怒りが湧く。
今の今まで自分の眼で確認するまで、「影武者」の存在を頭から消去し、剰え任務を遂行しようとしていた。そんな自分が酷く腹立たしい。なんて浅はかだったのか。
現皇帝は影武者なんて、一人も作りもしないから。
ちがう、それはあの皇帝が特別なだけだ。
息子の方は悲しい程に凡人だ。むしろ影武者なんてモノは当たり前に作る。
それも『ゲーム』なんて命がけの賭け事に挑戦しようとしている人物だ。安易に想像できたはずなのに、なぜ自分はその可能性を見出さなかったのか。
アドニスは狙撃銃を下ろす。
もう一度舌打ちを一つ。
見る限り、あの影武者は驚くほどに良く出来ていた。スコープ超しのこの距離では、判別も出来ない。いや、アレでは肉眼で確認しても難しいだろう。
ジョセフなんて数回会っただけだ。記憶を頼りにするも、判別できる素材が少なすぎる。携帯端末の写真に頼るか。嫌、そもそもこの端末に映るジョセフは、本当に本物なのか。其れすら分からない。
アドニスは、再度2人のジョセフを目に映し、顔を顰めせる。
どちらが本物のジョセフか……?
もし、此処で標的を間違えれば、今日の任務は失敗。
今後ジョセフの護衛は強固となり、『ゲーム』前の暗殺は難しくなるだろう。
そればかりか、他の『ゲーム』の参加者達も警戒を強めるに違いない。
実はこの『ゲーム』は国全土に発表済み。
発表済みと言っても、参加者の名は正式には明かされず。新たな王を定める為の『10の王』の殺し合いがある、と言うその程度の物だが。
たが、『ゲーム参加者』だけは別だ。
彼らだけには他の参加者については、名も発表されている。
これはゲームを公平に、と言う理由から皇帝が決めた事だ。
そのうちの『
もしも此処で更にゲーム参加者の1人が狙撃されたと言う事実が明らかになれば?
バーバルは誰かに殺されても可笑しくはない人物だった。だが、ジョセフ皇子は?
ジョセフは、皇族で人気者。そんな人物の暗殺を狙う人物は、まずいない。
だから、言い訳が出来ない事実が浮き彫りになる
参加者は、少なからず気が付く筈だ。
『ゲーム』参加者を狙う「イレギュラー」が混ざり込んでいる、と。
イレギュラー存在に気が付いたら、次はその正体を考えるだろう。
考えて、直ぐに答えに辿り着く。
――
だからアドニスは此処で任務を成功させなくてはいけない。
これは元から極秘任務。暗殺に成功すれば『世界』が隠ぺいしてくれるはずだ。
標的が生き残ってしまえば、
むしろゲーム参加者が狙撃されたのだ、警戒しない馬鹿はいない。
そもそも、アドニスの依頼は『ゲーム参加者の暗殺』。
「バレる」なんてその時点で、任務失敗。
――……だから、ここで間違えるわけには行かない。
追い打ちを掛けるように、アドニスの頭に更に別の可能性が増える。
あの二人の内、どちらかがジョセフと言うが、それは本当か?
本当に二人の内どちらかが本物なのか?確証は?
――影武者は、一人だけでいいのか?
端末に手を伸ばす。
ファイルを調べるが、情報は何処にも無い。
だが、それはおかしい。皇子ジョセフだぞ。
彼の生活を保護しているのは紛れもなく『世界』だ。その『世界』が影武者の情報を知らないなんて、あり得ない。
そもそも影武者を用意したのだって『世界』の可能性が高い。
個人で用意した物でも『世界』に報告するのは義務、しなくても『世界』が。
『組織』の
ここまで考えて、気付く。思わず笑み口元に浮かぶ。
――……なるほど、
◇
皇帝はアドニスに『ゲーム参加者』の暗殺を求め、情報まで流した。
ジョセフに至っては、近日中に殺せと言わんばかりの詳細なことまで。
だが、どうやら
考えてみれば、確かにそれは、あまりにもアドニスを優遇し過ぎている。
こんな『ゲーム』を行う事を決めた男だ。
彼は遊び好き。しかし簡単に勝敗が決する様なゲームは退屈であると好まないと有名であり、ソレは事実。
そうなれば、今回のジョセフの一件は実に皇帝らしくない。
だが
むしろ、それでこそ皇帝らしいと言うモノだ。
此方の方が面白い、と。
それに、皇帝陛下は言っていたじゃないか――。
『
アドニスは皇帝の真意に気が付き、笑みを湛えた。
嗚呼、確かにこうなれば『ゲーム』だ。
つまり『ゲーム』はもう始まっている。
しかも開始の合図を出したのは、どう考えてもアドニス。
ゲーム参加者の一人を殺した時点で、皇帝は『ゲーム』の開始を決めた。
――そう、判断すれば。このジョセフの一件も、すんなりと腑に落ちる。
だとしたら、どちらを選ぶのが正解か。次の問題は此方になる。
ジョセフを殺す。コレは良い。遅かれ早かれ、彼は殺す。問題は今。
失敗覚悟で強行突破するか。
それとも、いったん引くか。
「……いや、馬鹿らしい」
アドニスは笑った。
何方を選ぶか?そんな物決まっている。選択肢なんて一つしかない。
再び手にする狙撃銃を構え、スコープを除く。
見えるのは、黒と灰色の二人のジョセフ。
何方にしようかな。
何方でも良い。
何方だって構わない。
――だって、その方が面白だろう?
「右だよ。写真の男は、ね」
再び、女が只の一言で緊張感を叩き壊す。
張りつめていた空気が和らぎ、黒の眼がスコープから外れ。
もう一度シーアを見据えた。心底呆れた眼で。
この女、またそんな世迷言を、と――……。
「――まて、お前。さっきも偽物と判断したな。何故だ」
いや、此処は冷静になって考えた。
狙撃銃を下ろし、改めて彼女に身体を向ける。
疑問が浮かんだのだ。
先ほどのシーアの発言、今の彼女の発言。
彼女は一目でジョセフが偽物だと判断した。
そして今、同じように彼女は写真の男を断言する。
アドニスから向かって、右。灰色の男が写真の男だと。
それは何故か。
驚くほどはっきりと断言し。何か、色がどうのこうのと言っていたが。
問いに対して、シーアは笑う。
「だから、色が違うんだよ。オーラ?……私は魂の色が違うと思うのだけどね」
「は?」
改めて聞いたが、さっぱり意味が分からない。何、魂?
急に何を非科学的な事を言っているのか。嫌、この女は最初から非科学的だが。
そんな少年の表情を見てか、彼女は初めて溜息を零し、ビルに向けて指差した。
「ま、何でも良いけどさ。殺さないの?」
「……まて、もう少し詳しく聞かせろ」
どうやら此方が信じていないと判断したようだ。まるで、さっさと終わらせれば?……と、言う様。
だがアドニスは冷静になった頭でもう一度問いかける。
これは、何かの手掛かりに成るかも知れない。
馬鹿らしいと思いつつも、今は任務に集中すべき。
その為なら、どんな情報でも聞くべきである。そう判断した結果の行動。
シーアは、今度は無言を貫いた。
嫌、何かを考えるようと言った方が正しいか。
まるで、「これは言うべきか」と悩んでいる表情を作ると俯いて。
少ししたら今度は視線を上に向けて顎をしゃくり、そして「ニタリ」。
端末に長い指を差した。
「その写真の男はさ、簡単に言うと黒々しい橙色をしている。でも、さっきの男は違う。灰色に近い紫。ね、あまりに違うだろ?」
「――……」
聞くんじゃなかった。再び後悔が募る。
反対にアドニスの様子を見て、シーアはケラケラ笑った。
「簡単に……って言っただろ?本当はもっとややこしいさ!」
そう言う事じゃない。だが、彼女は続けた。
「でも断言はしてあげる。その写真の男は間違いなく右の男だって」
笑いながら指差す方向は、やはり高層ビルのパーティ会場。灰色のジョセフだ。
「――………」
「なんなら、神様の名に誓ってあげようか?」
「は?」
険しい顔を浮かべていると、シーアが言う。相変わらず彼女は笑ったまま。
――『神に誓う』?
その言葉に、何の意味があると言うのか。
「馬鹿か。なんだ、それ」
「いや、神様が誓うんだ。本当っぽいだろ?」
苦言を零すと、当たり前に「ニタリ」
あまりに馬鹿馬鹿しくてアドニスは更に眉を顰めた。
そもそもアドニスは、この女を神とは認めていないのだが。
あまりに馬鹿馬鹿しくて、溜息を一つ。
膝を付いて、今度はケースに手を伸ばす。
「あれ?」
「――……やめる」
「やめるのかい?」
「いったん調査して………。いや、詮索するな」
頭を押さえながら、ケースを開ける。
今の会話で、彼の頭はすっかり冷め切ったのだ。
自分の遊びの為に、任務を失敗させる様な危険性行為は慎むべきである、と。
少しだけ名残惜しそうに、ビルから視線を外した。
遊びとは?
なに、ツマラナイ遊びだ。
2人のジョセフ。
あの2人から適当に1人を選び、殺そうとしていた。其れだけである。
成功失敗なんて関係ない。むしろ、分からないからこそ遊びと言えよう。
成功すれば、ソレで良い。
失敗しても、それで良い。
強固になった警備の中、再度暗殺を仕掛けるのもまた一興だと、判断して。
だが、その考えは冷静になった頭で改めた。実に馬鹿な事であるから。
普通に考えて、そんなもの愚策なんてレベルを超えている。
個人的な趣味ならまだしも、これは皇帝陛下の『依頼』なのだぞ。
皇帝はアドニスもゲームの参加者だと言っていたが。残念な事に、任務であるのも確か。
彼を喜ばせるために動くならまだしも、アドニスが自身の遊びの為だけに動くなんて。それは『任務』の放棄。皇帝の
だから今回は引き上げて調査をし直すか、標的を変える事が賢明。
片づけを始めるアドニスに、隣に立つ赤い瞳は無言で見下ろす。
相変わらず、その瞳に感情と言うものはない。ただ、つまらなさそうだ。
「――失敗した!」
叫び声が一つ。何が失敗したと言うのか。
更に我慢出来なかったのか彼女は続ける。
「つまらん、つまらん、つまらんつまらん!!」
まるで駄々っ子のように、綺麗な顔を歪ませて宙を、アドニスの頭上をくるくると飛び回った。
ふくれ面で、彼の前へ降り立ったのは、それから一分ほど経ってからの事。
綺麗な顔が、不機嫌そう作り上げてアドニスを除き込む。あまりの事に唖然と彼女の様子を見ていたが、もう一度眉を顰める事になったのは違いない。
「なにが『つまらん』だ。お前には関係ないだろう」
「……いや、確かにそうだが、つまらんのだ。ここまでくると心底馬鹿らしくなる」
赤い瞳が、怪訝そうにアドニスを見つめる。やはり理解の一つも出来ない。
何故其処まで不機嫌になれるのか。いや、本心には見えないのだが。何はともあれ、彼女には何も関係ないと言うのに。
シーアがぐい、と顔を近づけさせたのは瞬きの間。
「もういいよ、分かった。ならば私は勝手に手伝う事にしよう」
「――……は?」
女はとんでもない事を口走った。
シーアは再びふわりと宙に浮く。宙に浮いて、アドニスから、ビルの屋上から、彼女の身体は離れていく。
足場も無い先で、シーアは当たり前に浮いたまま、その場に止まった。
「私は今からあのパーティに侵入してくる。そして、あの爽やかイケメンを宴から連れ出してやろう」
「は?」
「あの顔の男を全員、別の部屋に誘導してやるって言っているんだ。寝室の一つぐらい別にあるだろう!」
にたり、笑いながらシーアが言い放つ。
アドニスは口を噤む。彼女の言いたい事を理解してしまったのだ。
――つまり。
「お前が誘導してやるから、後始末は俺がやれ……と?」
「そうだ。手伝ってやる!」
アドニスが愕然とする前で、シーアは笑みを浮かべて頷いた。
確かにあの高層マンション、あの階は全てジョセフの自宅だ。
パーティ会場の他に、彼の寝室等は勿論あるだろうとも。そこに彼女が誘導すると?
――そんなの、無理だ。
第一あのパーティ会場にどうやって侵入すると言うのか。
だが、アドニスが止める暇も無かった。
「私は居候の身だ。――君の為ならこれぐらい手伝ってやるさ」
そう笑って、彼女はふわりと踵を返す。
シーアの身体が、華麗に舞い上がり、滑空。
「――まて!」
声を掛けても無駄。
何せ、滑り落ちた先にまたあの黒い穴が宙に開いて、シーアはその中に入っていってしまったのだから。
目の前で起きた規格外の行動に、理解できない能力にアドニスの声は遮られ、シーアは瞬きの暇も無く消えてしまう。
ビルの上。残ったのはアドニスただ一人。
風が吹く中で、暫く呆然としていたが、我に返った彼は険しい表情を浮かべた。
「馬鹿じゃないのか?誘導する?ばかか!」
舌打ちを繰り出す。
「俺はやらないと言っただろう。――くそ、やっぱり殺しておくべきだった……!」
勝手に動き、剰え自分の情報を持ったままに飛んでいった彼女を苛立つように思い浮かべる。
「もう知るか!」
もうどうしようもない。考えるのも馬鹿らしい。
どうせ彼女が捕まっても、邪魔者がいなくなっただけで得じゃないか。
そう考え、自分らしくも無く大声を振り上げて。
ケースを掴み上げると、アドニスは足早にその場から姿を消した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます