5話『彼女』




 世界は酷く静かで、時間さえ止まった気がした。

 息が、上手くできない、額に冷や汗が流れおちる。

 

 愕然とするアドニスを前に、あの女は変わらず美しく。

 ただ只管に、釘付けとなる。


 改めて見れば、年のころは18程か。

 無駄に露出の高い喪服に身を包み。

 月明かりに照らされ、青白く輝く肌。

 艶やかな黒い髪。

 長いまつげは艶やかに、妖艶に輝く瞳。


 「なんだい?反応なし?つまらないなぁ」


 女は美しく艶やかに笑む。

 僅かに目を細めて、足音を立て楽しそうにアドニスの元へ。


 「――……近づくな!」


 漸くアドニスは我に返った。

 呆然としていた意識を覚醒させ、見知らずの女に殺気を放ち。

 構えていたナイフを握り構えると怒鳴り声を立てた。


 「なんだ貴様。何処から入った……!」


 ありがちな問いを彼女に投げれば。

 女はアドニスから1mばかり離れて止まり、「ニタリ」と笑い言う。


 「なんだ……って。こないだ会ったばかりだよね?忘れちゃった?」

 それは、まるで揶揄う様に。

 「君をさ、押し倒した女だよ。思い出した?」

 正に、心から馬鹿にするように。

 「いいや。ごめん、ごめん。覚えているよね?ついさっきまでは」

 ニタニタ、ニタニタ、何処までも不似合いの笑みを浮かべながら。

 心づくしの嫌味をアドニスへと浴びせる。

 

 その態度はアドニスを逆なでするには十分で、標的として定めるにも十二分。

 きつくナイフを握りなおすと、体制を変える。狙いは首で良い。


 地面を軽く蹴りあげるだけで床には穴が開き、アドニスの姿は消える。

 その速さ姿は常人でも、超人でも


 ――そのはずだった。

 

 地を蹴りあげた瞬間、アドニスは自分の行動全てが遅く感じる。

 部屋にある時計の秒針、外から聞こえる人の笑い声、自分の動きさえもゆっくりと進む。


 ずっと頭から離れないこの女。自分を張り倒し、身動き一つ許すことも無かった彼女。その彼女が今此処に居る。浮かべた笑みを絶やすことなく静かに佇んでいる。その事実に頭が追い付けないまま、彼女に襲い掛かる。


 酷く遅い時間の中で、少年の顔は青ざめていった。

 彼女の直ぐ目前に迫った時、彼女は。

 アドニスの動きを、自分の居場所を。


 赤い瞳は、確実に彼の姿をのだから。


 ナイフが宙を切る。


 「――……!」


 振り下ろしたナイフの先、アドニスは息を止め目を見張った。

 彼が見つめる先、彼女の首があった場所。彼女が立っていた場所。

 しかし、其処にはもう誰の姿も無かったのだ。


 姿だけどころか、血痕一つ無い。

 振り下ろしたナイフには手ごたえ処か、僅かな感触さえも無かった。

 いや、当たり前だ。彼女は消えたのだ。アドニスの前で、ナイフが振り下ろされるその一瞬の間に。瞬きをする間もなく。違う、消えた、じゃない。


 アドニスの眼は、その視線は隣に送られる。

 何処からともなく伸びる手、アドニスの腕を掴み上げる白い手。

 いつの間にか自分を抑え込み、目前まで移動してきていた女に――。


 「いきなり物騒だな、君は。それから及第点かな?ふふふ……それがこの世界の最強の力なのかい?それともまだ少年の君には早いのかな?」


 ナイフを握るアドニスの腕に艶やかに白い手が触れている。驚愕なんてモノは通り過ぎ、呼吸の仕方を忘れたかの様に息が詰まった。

 目に映るのは美しい赤い、血のような瞳。美しい女の顔。顔と顔が触れ合いそうな距離で彼女は此方を覗き込んでいる。


 いつ彼女は此処まで近づいた?気が付く事も出来なかった。

 でも分かる。彼女は此方の一撃を難なく避け、一瞬にして自身の側に寄ったのだと。


 ナイフを握る手から、彼女の温もりが手から全身に伝わる。

 ソレは本当に僅かな力だった。本当に触れるだけの物。

 ああ、しかし。アドニスは見る見るうちに表情を変えていく。


 驚愕を思い出し、驚愕から困惑の物へ。きつく歯を噛みしめ、女を見る。

 ああ、だって……ナイフを握る手、彼女に捕まれている手。


 ――この手がのだ、ビクとも。


 いつも自分が行っている様に。いや、自分以上に。彼女の力は異常なまでに強い。

 腕に感じる力は柔らかく、痛みも感じない。だのに、異様な重さを感じ、振り払う事すらも出来やしない。

 嫌でも察した。もし今、無理矢理にでも手を引けば簡単に千切れる……と。

 

 ふと、違和感を感じ。アドニスの眼は彼女の足元に視線を注ぐ。息を、呑んだ。

 ちらちら見えるのは白い滑らかな太もも、ガータベルトで止めた長い黒いソックス。――その足が、地に付かずふわふわと宙に浮いている。


 見間違い、じゃない。彼女は確かに宙に浮かんでいたのだ。

 あり得ない。そんなの。だって、飛べる人間なんてこの世のどこにも存在しない。存在するはずがない。


 アドニスは強張った顔で女の顔を見た。

 最初感じた恐怖が警告を発し、違和感が鮮明に答えを浮き彫りにする。


 この女は、人間では無い――。

 

 身体から血の気が引くのが分かった。額に冷や汗が伝う。

 この女の正体は分からない。しかし、先日自分に敵意を向けて来たのは確かだ。

 だから、自分の未来は、今から起きる事は嫌でも吞み込まざるを得なかった。


 たった今、自分は確実に殺される。

 

 自分より強い存在に抑え込まれ、もう逃げる術もない。

 身体に与えられる力から分かる。このまま首をへし折られて終了。

 逃げろと頭が警告を発し。しかし、同時に自身の終わりを理解するしか無いのだ。


 ――それなら、と。アドニスは顔を上げた。

 理解をしたと同時、感情が追い付かないまま身体が自然に動く。

 今、確実に自分を殺すつもりであろう女の顔を睨み上げる。


 殺される……。それは仕方が無い。――だったら。

 自分を殺す相手の顔を、最後まで睨んでやろうと。


 眼に映るのは、相変わらず整った美し過ぎる容姿。此方を見つめる何処までも興味のない真っ赤な瞳。

 そして、心から楽しんでいると言う様な、酷く不似合いな笑み。


 彼女の顔を見た時、初めてアドニスと言う少年の中に《恐怖》と言う文字が浮かんだ。

 ……怖い。この女が。どこまでも、怖い。それは、きっと死への恐怖。

 それでも彼女から視線は外さない。


 だが同時に、不似合いな、馬鹿らしい事も頭を掠める。

 彼女の……目の前に浮く、その女の赤い瞳を見て想う。


 ――ああ、残念だ。

 あの万華鏡の瞳じゃないのか……と。

 

   ◇


 そんなアドニスの表情を見て、綺麗な長い眉毛が吊り上げられた。


 「おいおい、そんな顔をするな少年。私は別にさ、君を殺したわけじゃないんだよ。殺すつもりないからね」


 女は呆れたような口ぶり。

 今までの表情が嘘のように曇った表情に変わり、溜息。

 白い手がアドニスを離す。


 「な、」


 驚いたのはアドニスだ。殺される覚悟を受け入れたのに。彼女は自分を殺すどころか、傷つける訳でもなくすんなりと身を離したのだから。

 愕然とした表情のアドニスを前に、女はふわりと宙に浮き離れ。まるで椅子でもその場にあるかのように、空中で腰かけた。


 その姿は見惚れる程に美しいが、異様の一言でしか無く。アドニスは直ぐに我に返る。震える手に再度力を籠め、ナイフを握り直し、体中に殺気を籠めると再び目前の女を睨んだ。

 だが、冷や汗は止まらない。震えは収まってくれそうにない。

 それでも恐怖を押し殺して再度問いかける。


 「……もう一度聞く。誰だ、お前。どうやって中に入った」


 女は笑う、ニタニタ、ニタニタ。腹立たしいほどに不似合いに。


 「あー、もしかして私の名を聞いているのかい?少年」


 会話をする気はあるようだ。彼女は初めて真面な返答を返す。

 しかし、その様子は全くと言っても良い程、心が籠っていない。どこか此方を小馬鹿にするような、嘲笑うような風貌だ。アドニスは歯を噛みしめる。


 「お前は、何処の何者で、何の目的があってやって来た。この部屋にどうやって入った!」


 腹立たしいが、僅かに思考が戻って来た。

 もう一度、今度は鮮明に問い返す。女は笑う。


 「そうだね……。うーんと」


 笑いながら顎をしゃくって、視線を左に右に。

 そして何かを決めたかのように、再びニヤリ――。


 当たり前に、堂々と、嘘偽りもなく、彼女は答える。


 「私は――…………シーア」


 まずは、名を。


 『シーア』

 勿論、そんな名等アドニスは知らない。聞いたことも無い。

 彼を前に女は笑う。――でも、と……そう続ける。


 「私はヒュプノスとも名乗る事にした」

 「――……ヒュプノス?」

 女は頷き。アドニスは首を傾げる。


 「ああ、知らないのか」


 アドニスの様子を見てなのか、彼女は片眉を上げ、何処か小馬鹿にした様子を見せる。一瞬イラっと来たがお構いなし。笑みを湛えて女は続けた。


 「ヒュプノス……とある神話の『眠りの神』。人を眠りに誘う『神』。私はこの『神』と同じだ」

 

 ――つまり、と女は言う。



 「私は、【神様】だ。この宇宙ではない、別の宇宙からやって来た。【異邦人神様】。――それが君への答えだ」



 シーアと名乗った女は再度『ニタリ』と笑って、自分を【神】と名乗ったのである。


     ◇


 「――……は?」


 ナイフを握ったまま、アドニスは険しい顔で思わず声を漏らした。

 この女は、今、何を言ったのだ?

 ――神、だと?そう言ったのか?


 「……馬鹿にしているのか、貴様」

 「失礼な。馬鹿になんてしてはいない。――私は本当に本当の神様なのさ」


 訝しげなアドニスの前でシーアは眉毛を片方上げて、小さく鼻を鳴らす。

 ただ、暫く、ほんの少し、シーアは溜息を零した。


 「君は浮いている人間は見た事あるのか?」

 「――……」

 ――それは、ああ、そう、きっと手品だ。


 「手品?違うよ、此処は君の家だろう。どうやって仕掛けを準備すると言うのさ?」

 「――……っ」

 アドニスの顔色が、僅かに変わる。


 「それから、君さ。今まで自分より強いと思った存在にあったこと無いだろ?その年で君は確かに誰より強いさ。誰にも負け知らず。――そんな君をついさっき、先日も含めて抑え込んだのは誰だい?」

 「……っ!」

 ――そんなもの。この女が、化け物だから!


 「そんなもの?ふふ、化け物か……。ま、否定はしないさ」

 シーアが笑う。ニタニタと、ニタニタと。

 更にアドニスの表情が変わり、確信を付く。

 ――この女。


 「――心を読む、正解。分かったかい?」


 こんな事、人間にはできないだろう。

 と、シーアは笑った。


 「――……何が神だ。そんなモノ信じられるか!お前は化け物だ!」


 それでも、アドニスは目の前の女の言葉を、正体を、信じる気は微塵も起きない。

 だからこそ目の前の彼女を化け物と叫ぶ。

 その言葉を聞き、シーアは再びニタリと笑った。


 「別にソレで良いって。ヒュプノスと名乗る化け物。こう覚えておいてくれればね」


 少し呆れ交じりに肯定。

 「さて」そう呟いて、彼女はゆっくりと地に降り行き。


 「で、次の質問、『何処から入ったか』……だったね」


 そう、当たり前のように笑う彼女を前に。

 アドニスは再度、我が目を疑う事になる。


 シーアの足が、地面に付く……その前に、彼女の足先は地の中に吸い込まれていったのだ。


 いや、違う。


 よく見れば見たことも無い、ある筈も無い穴が一つ、彼女の足元にあった。

 常闇の様に暗く靄を纏って、何かの扉のような大穴。彼女はこの虚空に飲み込まれていったのだ。


 「え」

 「こうやって、入ってきたのだよ。少年」

 「――……」


 驚く暇なんて無かった。ただ、アドニスは息を呑む。

 彼女が消えて、嘘のように穴も消えて、その事実に驚くその前に。シーアの声が後ろから、先程と同じように耳元で囁かれたのだ。

 首に巻き付く白い手、背中に感じる確かな温もりと柔らかな感触。

 長い時間と共に、アドニスは漸く状況を理解する。


 彼女は今、自分の後ろに居て。その上、背中に抱き付いているのだ――と。


 「なあ――!この!!」


 事実に気が付いたアドニスは身を大きく振った。

 女の腕を掴み上げ、引きはがそうともがく。でも、彼女はビクともしない。振り払おうと、身体を振ってもピタリとくっ付いて、ただ彼女の身体がふわふわ宙に浮き動くだけ。


 シーアはアドニスの様子を、くつ、くつ笑いながら見つめていた。

 心底面白そうに、満足そうに、顔を顰めるアドニスの顔を後ろから覗き込んで。

 

 「くそ!」


 アドニスは握ったままのナイフを、顔を覗かせるシーアの顔に突き立てる。それは簡単に避けられた。

 ならばと、首元に巻き付く白い腕を見る。――愚策、そう分かっていても身体が勝手に動く。ナイフを振り下ろす。


 ――ガキンっ!!


 「――……は、あ?」


 女は避ける事はしなかった。

 だから、刃は彼女に突き刺さるはずだ。――しかし。

 アドニスは眼を見開き、息を止め、見下ろす。


 銀色のナイフ。

 自分用にと組織が作った、其処ら辺の市販されているモノより硬い代物。

 その切っ先が、何処にも無い。


 折れているのだ、ボッキリと。

 側でカラカラと転がる音、視線を向ければ、目に映るのは折れた黒曜の先。


 ――こんなもの、理解出来る筈がない。

 でもアドニスの頭は妙なほどに冷静だ。今起きたことを理解出来ていた。


 今このナイフは確かに女の腕を突いた。ソレは事実。

 だが、その切っ先が腕に刺さったと同時、ナイフの方が壊れたのだ。

 この柔らかい肌を突き抜ける処か、かすり傷も傷つける事無く。――この肌が、ナイフをへし折った。


 頭が、クラりとする。

 理解が出来てしまって、しかし理解したくなくて。フラフラ、力尽きるように、ベッドに腰を下ろす。

 

 「実感した?私が人間ではない事」


 アドニスの動きに合わせて女がふわりと、身体を動かす。

 黒い髪が舞って、アドニスの頬を撫で。

 白い腕が背中にまわり。

 膝に柔らかな彼女の感触と、驚くほどに軽い体重が広がる。


 アドニスの眼に映るのは、此方をのぞき込む美しい女の顔。

 何処までも赤く、何処までもアドニスに興味が無い、無感情の綺麗な瞳。


 「さて、自己紹介も済んだし。突然だが、私は君に頼みがある」


 アドニスの顔を覗き込みながら、唐突に女は言う。

 ここからが本題だ。まるでそう言わんばかりに。

 白い手がアドニスの頬を撫で、口元に不似合いな笑みが浮かぶ。


 「君、私を飼ってみないかい?」

 「――…………は?」


 そして、掛けられたのは耳を疑う様な一言。

 驚くアドニスに、女は無遠慮だ。

 構わず、艶やかな、しかし嘲り笑う声色で、彼女は身体を寄せる。

 鼻をくすぐる華やかな匂いと、胸板に感じる柔らかな感触。身体全体に感じる温もり。


 そんな、何かしら反応するのが普通の状態の中で。

 アドニスは一切動けずにいた。赤い瞳に吸い込まれるように、眼を逸らす事が出来ず、見惚れるように彼女の瞳を見つめる。


 「君の側において欲しいんだよ」

 「――………」

 「私は出来る限り君の世話をしよう。飯炊き女でも良いさ。何ならこの身体を貪ってもいい。君の望む欲を全て私が叶えてやろう」


 女も同じようにアドニスの眼を見上げる。艶やかな赤い瞳。

 細い腕が伸び、白い指がアドニスの首を優しくなぞる。

 彼女の小さな顔が近づいたのは、その瞬間。


 唇に熱い熱が広がる、柔らかな感触。――口付けを、一つ。

 

 彼女の瞳を見つめながら、頭が彼女の行為をボンヤリと理解する。

 触れる程度の感触を押し付けた彼女が唇を離し、ニタリと笑い。

 もう一度、触れ合ってしまいそうな距離で彼女はアドニスを見つめた。

 

 「――……期間は、私が元の世界に帰るまで。どうぞ、私を側においておくれ」


 ぺろりと赤い舌先が唇を舐め、また白い手が背中に伸びる。

 その様子を、アドニスはただ黙って見つめるしか出来ない。

 艶やかな女を前に、シーアと名乗った化け物を前に、目を逸らすことも出来ずに、彼女を見据え続ける。


 ただ頭は妙にハッキリと、現状は理解していた。

 この女の正体は不明だ。少なくとも普通の人間じゃない、化け物危険だ。

 それが一つ。――でも、その考えが勝手に薄らいでいく

 

 たった今、自分はこの女に誘惑されている。

 艶かしく、その身体の全てを使い、なりふり構わず。――下手糞な口付けを押し付けて。

 アドニスと言いう男の側に居たがっている。

 それがもう一つ。――でも、正直そんな事、どうだって良い。どうでも良く感じる。


 彼女は何かを企んでいる。

 それは分かっている。

 気が付いている。

 突き放すべきだと。

 それでも、それが正解と分かっていても。


 アドニスは彼女を拒むことは出来そうになかった。


 彼女が美しいから、じゃない。

 艶やかな誘惑に落ちたから、じゃない。


 理由は瞳だ、その赤い瞳。

 自分を見つめる真っ赤な瞳。血のように綺麗で、しかし。


 どこまでも、興味も無い。

 感情が一切籠っていない。アリでも見つめるような瞳。

 ――いや、きっともっとひどい。でも言い表せられない。


 最初は、きっと混乱していた。

 口付けキスをされた時、頭が真っ白になりながらも、目の前の相手に怒りがわき。拒んでやろうと思っていた筈なのに。


 そんな怒りや羞恥心よりも遥かに、向けられた瞳が何故か酷く腹立たしくて、何よりも許せなくなって。あの、一度だけ見た輝かしいばかりの瞳が頭から離れなくて、どうしようもなく。

 


 「分かった。いいよ。俺の側に居ろ」

 「――……」


 艶やかな表情を浮かべていた少女の顔色が、僅かに困惑の物に変わった。

 あまりにもあっさりと、アドニスが彼女を受け入れたからなのか、彼女の身体が僅かに離れる。

 そんな彼女に、アドニスは続けた。


 「俺はお前の身体も何もいらない。――好きなだけ此処に居ればいい」


 自分でもあり得ないと感じる程、自然に口から出た言葉だ。

 何故かは分からない。自分自身が理解できない。

 でも、目を逸らしたくなかった。彼女から、自分を見つめる赤い瞳から。


 彼女の頬に手を伸ばして、ただ見惚れる。

 腹立たしくも、やはり、どこまでも感情のこもっていない瞳を。


 もう一度、どうしても。

 この瞳が、美しく輝くところを見たい

 ただ。その一心で。


 ――アドニスは彼女シーアを受け入れたのだ。



   ◇


 その静寂は、僅かな間だった。

 アドニスの眼の前で驚きを見せていた少女は、元の艶かしい表情に戻したのだ。

 赤い瞳を限界まで細めて、相変わらず「ニタリ」。美人が台無しに、いや、それでも彼女の美しさは劣らない笑みを浮かべ。


 「ありがとう、少年!心からの感謝を送ろう!!」


 彼女シーアはアドニスに、思いっきり抱き着くのである。

 アドニスの身体が僅かに傾く。女の体重は驚くほどに軽くて倒れることは無かった、が。


 ――むにり。

 その何度か味わった、妙に柔らかい感触が今度は明確に伝わる。


 背中に腕を回し喜ぶ彼女を前に、アドニスは漸くその柔らかな感触の正体に察しが付く。

 今までの態度が嘘のように、顔が赤く染まっていたのはその瞬間。


 いや、抱き着かれて漸くアドニスの本来の思考が戻って来た、と言った方が正しいか。わなわなと体が震え、細いシーアの身体を押さえ引きはがそうと奮闘するのは数秒後で。


 「――……っ!やっぱり今のなしだ!!離れろ!!!この変態女!!」


 自分でも、呆れるほどに無様な、慌て切った言葉を投げかけるのも数秒後。

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