録画を早回しするように、目の前の光景が過ぎ去っていく。沙奈絵は、そのスピードに眩暈を感じつつも、小学生の自分に同化している自分をも客観視していた。心の奥底に封じ込めていた記憶の破片は、組み合わさっていくパズルのピースのように、徐々に沙奈絵の心の表層へと取り戻されていく。

 眼前の光景が、突然に急停止するように静止した。沙奈絵は、夕暮れ時の校舎の外に立ち、きらきらと目を輝かせ花壇を眺めていた。

 花壇に咲き乱れる花々。やわらかいシルクの生地のように滑らかそうな、群青の大海原。じんおじさんと、みんなで植えたベゴニアは、星川第二小学校を讃えるように咲き誇っていた。

 けれど、そう、このすぐあとに、悲劇が待っていた。沙奈絵は、まだ完全には思い出してはいない。もっとも肝心な空白の中心部は小さなブラックホールのように、徐々に闇の濃度を増していき、記憶のピースを吸い込んでしまったかのようだ。しかし、悲劇の予感だけは、それと反比例するかのように、膨らんでいく。その感覚は不吉で、絶望的で、耐え難いほどの哀しみに満ちている。

 逃げたい、逃げたい。もう、あんなものは見たくない。あんなもの?

 そう、それが、何なのかさえ分からないのに、怯えは、いまの沙奈絵を恐怖で金縛りにする。凍えた精神の外側に無邪気で無垢な沙奈絵の心がある。

 まだ、何も知らない少女。

 晴れやかな笑顔で、花壇に視線を向けているこの少女は、そんな予感の薄片さえも感じていないだろう。彼女には、覚悟ができていない。幼く、あまりにも純粋で無垢な子供。その心は、この後、ばらばらに砕け散るのだ。

 だから、一緒に、わたしがあなたと一緒にもう一度。あなただけでは、耐えられないだろうから。沙奈絵が、語りかけると、再び世界が動き出す。


 花壇で待っていると、早紀と結花がやってきた。三人は、いつも一緒に下校していた。大の仲良しだったから、いつも一緒に。そんな、結花のことをどうして、忘れてしまったのか。どうして、記憶の底に沈めてしまったのか?

 なぜなら、結花は——。

 早紀と沙奈絵に囲まれて、天真爛漫な笑みを見せている結花。お人形さんのように可愛い結花。本当に、花壇に咲き乱れるような花々のように、可憐で美しい少女。三人は、ずっとずっと親友のままでいるはずだった。大人になっても、いつまでも、中の良い三人のままで。

 じんおじさんは、そんな三人を、いつも優しい眼差しで見つめていた。あの視線の奥には、どんな暗闇が隠されていたのだろうか? あの偽りの笑顔の奥に、暗闇に潜む獣のように、凶暴な人格が潜んでいたのだろうか?

 どうして?

 なぜ、じんおじさんは、結花を殺してしまったんだろう。なぜ、そんな酷いことが出来たのだろう。沙奈絵は、道端に蹲りわんわんと泣いていた。泣き叫びながら、結花の名を呼んだ。そして、じんおじさんを憎んだ。天罰がくだりますように、と。


 「そして、あなたの願いは叶った」

 沙奈絵は、突然に、うすぼんやりとした空間に移動していた。どこかの部屋のようだが、視界がぼやけてはっきりとは分からない。ずっと走り続けたあとのような、虚脱感があった。その、うすぼんやりとした空間の中に、インクが滲むように一人の美しい女性が現れて言った。堂島ゆうだった。

 「憎しみは、人の精神を殺す刃にもなる。あなたは、まだ小学生だった。小学生のあなたには、その後に起きた出来事を抱えて生きていくには、重すぎた。精神が崩壊しかねなかった。だから、記憶は格納されたのだわ。早紀さんと沙奈絵さん、あななたちが、その先も生きていくには、心の防御機構を発動して記憶を封じなければならなかった。けれど、だからこそ、いま、真実を知らなければならないのよ」

 ゆうの言葉は、重かった。彼女は、続けて言った。

 「健一君を救うためにも、それから――閉ざされ、この廃校に磔にされた一つの魂を救うためにも」

 ゆうの言葉が、さらさら流れる水のように、沙奈絵の心に沁み込んでいき、それとともに、過去の記憶が、絡まった糸がほぐれるように思い出されていく。

 あの日の、夏の。

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