巨大な洞穴に入っていくような感覚に、沙奈絵は急激な眩暈を覚えた。それは、強い水流に飲み込まれるような感覚でもあり、抗い難い力を持って沙奈絵を包み込む。赤味を帯びた空が、突如、校舎の暗い影に遮られ、目の前が一瞬、暗転したような錯覚にとらわれる。埃を被った下駄箱の群れが、うっすらと幻像のように、薄暗い校舎の中から立ち現れてくる。その奥には、昏く先細りする長い廊下が、どこまでどこまでも続いているように思われた。

 沙奈絵は、急速に冷えてきた体を抱きかかえるように胸で腕を交差させた。

 怖い。

 自分が自分でなくなってしまうようで、あるいは、馴染んだ日常が細切れに瓦解していくような恐怖に、怯えた。この歳まで培ってきた大人の沙奈絵という記憶が壊れていき、そこへかつての小学生の記憶が徐々に流れ込んでくる。水の中の景色のようにぼやけていたものが、やがて、はっきりと鮮明に眼前に映し出されていく。

 生徒たちの風景と真新しい校舎。騒々しい子供たちのしゃべり声。目の前の薄闇は、霧が晴れるように明るくなっていく。音が、洪水のように流れ込んでくる。

 何が起きているのか分からぬままに、沙奈絵は、ただ茫然と立ち尽くしていた。

 背後を振り返る。どうしたことか、いままで後ろにいたはずの堂島ゆうの姿が消えていた。

 「さなちゃん、どうしたの、ぼっとして」

 そこに突如現れた可愛らしい少女に、沙奈絵は息を呑んだ。

 あなたは、あなたは・・・・・・。

 「幽霊でも見た?」

 月山結花――。いままでずっと、沙奈絵の記憶から消し去っていた少女。結花はくすくすと笑って、誰かを手招きした。倉橋早紀が、下駄箱から上靴をとって、こちらに向かってくる。

 「ねえ、今日も寄ってくよね。じんおじさんのとこ」

 早紀が、上履きを履きながら言う。

 じんおじさん? 

 「なに、どうしたの、さな。なんか、おかしいよ、今日」

 早紀の言葉が、石礫のように、沙奈絵の頭を揺らした。心臓の鼓動が急速に早くなる。息が苦しい。沙奈絵は立っていることができず、がくがくと膝を落とし、その場に四つん這いになった。

 誰かが背中を擦っている。

 振り返ると、目を見張るような美しい女性がいた。

 誰だろう、この人? さっきまで覚えていたはずなのに、とても大事な人のはずなのに。記憶が霞んで、それとともに、美しい女性の幻像が糸がほぐれるようにばらばらになっていく。

 ねえ、待って、お願い。沙奈絵は、得体の知れない不安に駆られ、消え去ろうとする女にすがろうとする。

 「大丈夫よ。沙奈絵ちゃん。あなたは、この校舎に埋もれた記憶を再体験するの。小学生のあなたに戻って、彼を——」

 最後まで言わずに女は、消えてしまった。登校時間のせわしなさは、いつも通りだ。沙奈絵の横を、浮かれはしゃいだ男子が、通り過ぎていく。

 「大丈夫? さなちゃん」

 目の前に、結花がしゃがんで、心配そうに沙奈絵の顔を覗き込んでいた。

 うん、と返事をして、沙奈絵は何とか立ち上がった。隣に、早紀がやってきて、「じゃあ、行こうか」と、沙奈絵の脇腹をくすぐった。それで、緊張が解けたのか、沙奈絵は小さく悲鳴を上げて、お返しに早紀の頬をつねってみせた。

 いったーい。早紀がことさら大袈裟に喚いてみせる。

 こんな風景が、続いていたんだ、とふと思った。

 こんな、日常が。

 安らかな日々が粉々に壊れてしまうまで。

 心の奥底で、もう一人の沙奈絵は、呟いている。

 誰? 小学生の沙奈絵が、背後を振り向く。

 記憶の中のわたし。それとも、この校舎に刻み込まれたわたしの記憶?

 ゆうさん・・・・・・どこ?

 沙奈絵は、やっと今の状況を飲み込めてきた。

 この場所は、そして、この風景はあの出来事が起こる少し前のもの。それだけは、確かだ。けれど、その肝心なあの出来事は、空白のまま、ぽっかりと穴が開いている。そうだ、これから、その空白が埋められていくのだろう。白く塗りこめたとて、決して消えることのない記憶を、もう一度、上書きして。


 用務員室には、すでに、先客がいた。隣のクラスの澪ちゃんと、きいちゃんだった。二人も、ここ最近、じんおじさんのところにくるようになった、沙奈絵の友達だった。

 澪ちゃんも、きいちゃんも、まるで自分の部屋でもあるかのように、畳の間にあがって、クッキーをぽりぽり、食べている。その近くで、じんおじさんが、手作りの箒を作っていた。そう、じんおじさんは、何でも作ってしまう何でも屋なのだ。それに、何だって修理してくれる。

 「ねえ、ねえ、じんおじさん。今度は、どんなお花植えるの?」

 結花が楽しそうに聞く。じんおじさんも、とても楽しそうに、サルビアだとかベゴニアだとかマリーゴールドだとかいろいろな花の名前を言っている。そんな花、知らないよお、と早紀が言う。じんおじさんが、作りかけの箒を持ち上げて、うんうん、と頷く。

 「紺色のサルビアをたくさん植えようか。この学校のみんながね、家族のように仲が良ければいいという願いを込めて」

 じんおじさんは、ちょうど沙奈絵たちが入学する前から、この小学校の用務員さんをやっているベテラン用務員さんだった。沙奈絵が聞いた話では、奥さんと子供を病気で亡くしてしまい、いまは、一人で暮らしてるらしい。ここに、泊まり込むことも学校から許可されているくらい、じんおじさんは働き者だったし、みんなから好かれていた。

 じんおじさんは、みんなのことを家族のように思い、自分の娘のように思っていつも、暖かく見守ってくれている。誰もがみな、そう信じ込んでいた。

 「また、ヒマワリも植えていい?」

 沙奈絵が言うと、じんおじさんは、にっこりと笑って、もちろんだよと言った。

 この、笑顔が、沙奈絵はとても好きだった。

 好きだったのに——。

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