三
なぜかは分からないが、信二の体はがくがくと震えていた。あの神社での出来事があってから、自分に何かの異変が起きているのは間違いなかった。聴覚が異常に鋭敏になっているのだ。雑多な音が、その明瞭さの区別なくひっきりなしに、信二の脳に届いてくる。
しかも、ただ鋭敏になっているだけではなく、ありもしない音さえもが聞こえてくる。雑多な音の中で、その音だけが極めて異彩を放っていた。それは、獣の唸り声だった。それも、普通の獣ではない。昔、信二が幻獣図鑑で見たような想像上の獣が発するようなおどろおどろしい唸りだった。
なぜ、そのような唸り声が聞こえるのだろう? これは、果たして、信二の脳が生み出している幻聴なのだろうか? それとも、実際に、この近辺に猛獣でも潜んでいるのだろうか? まさか。
「聞こえない?」
たぶん、彼らには聞こえていないだろうと分かっていながらも、信二は、一応、満と良治に尋ねてみた。
「何がさ?」
満が、答える。やはり、二人には聞こえていないのだ。
いま、信二たちは、一棟の古ぼけたアパートの影に隠れて青年の動向を見守っていた。アパートの外壁は、長年の酸性雨によって茶色く変色し、いまにもべりべりと剥がれ落ちてきそうだった。二階に続く錆の浮き出た鉄階段の前で、青年はしばらく視線を上向け、どこか思索を巡らすような難しい顔をしている。
青年にも、獣の唸り声が聞こえるのだろうか?
この唸り声は、やはり、幻聴なのだろうか、それとも、実際にどこかから発せられている声なのか? あるいは、もしかすると、青年が発している?
満と良治には聞こえていないという事が、信二をことさらに不安にさせた。いまに、とんでもないことが起こりそうな気がして、すぐにでもこの場を逃げ去りたい欲求に駆られる。
「何してるんだ、あいつ? あんなところに、ずっと突っ立って」
良治がしびれを切らしたように言った時だった。ガラスが砕け散って割れる破砕音が、夕闇迫る空間を切り裂くように響いた。それを聞いた、良治と満がびくっと体を震わせた。信二ももちろん、その音を聞いたのだが、その破砕音を耳にしたとき、唐突に不可解な出来事が起こった。一瞬、その出来事が現実のものなのか、それともそうでないのか、信二は判断に迷った。
音そのものが、目の前に映像のように見えたのだ。それは、その音の色というか性質というかそういったものを表しているように思えた。脈動している巨大な針鼠のような刺々しい球体が急速に膨張して弾け夜空に打ち上げられた花火の残像のように、空間を狂気の光のような禍々しい光線を放射しながら広がっていく。禍々しい、光の渦。音が、光の狂気と化して、信二のすぐそばまで迫ってくる。
信二は、目の前で繰り広げられたその映像に圧倒され、卒倒しかけた。
「何だ、あれ!」
その幻像に、呼応するように、良治の叫ぶ声が聞こえた。
半透明に薄れゆく映像の向こう側で、青年が素早く動き出すのが見えた。そして、信二はその先に、見た。禍々しい光の渦の中心にいる、異形の存在を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます