空の赤に亀裂のように冥色が混じり始めていた。それでも、長い夏の日は、まだ終わろうとしていない。まるで、これからが本番だと言わんばかりに、赤く鮮やかに燃え立つようだった。

 その空の下に、校舎はあった。長い年月、誰にも顧みられることもなく、打ち捨てられ忘れ去られていた廃校が。沙奈絵は、わずかに身震いするように、体を揺すった。そうでもしないと、緊張で体が固まってしまいそうだった。

 何十年もの時を経て、再び訪れた廃校は、変わり果てた姿で、沙奈絵の目の前にある。

 ゆうと照須、それから、沙奈絵は、廃校の門の前に立ち、しばらく無言のまま存在感のいや増した校舎を見上げていた。外壁は、長い年月を経て、あちらこちらにひび割れが生じ、老朽化は著しかった。花壇には、一面、雑草が生い茂り、その近くにはなぜか無数の空き缶が転がっていた。風が吹き、空き缶の一つがころころと、転がった。

 「覚悟はできた? あなたは、小学生の頃の自分に戻るのよ。これから、記憶は、掘り返される」

 ゆうが、誰にともなく静かに言葉を発した。もちろん、それは沙奈絵に向かって投げかけられた言葉だった。

 沙奈絵は、いままでにないほどの激しい頭痛を感じていた。頭が割れるように痛かった。その痛みから逃げるように、いままでずっと記憶を隠し続け、心の底に埋めてきたのだ。この痛みの克服なしに、健一は救えない。

 もう、逃げない。一体、自分が何から逃げていたのかを今日、はっきりさせるのだ。それが、健一を救う道につながるのなら、それが母親としての使命であるはずだ。

 沙奈絵は、ゆうに向かって、はいと強くはっきりと返事をした。その声は明瞭で強かった。そうやって、覚悟を決めてしまうと、不思議に沙奈絵の頭から痛みが消え去っていた。締め付けられるような感覚は、むしろ解放感にも似た緊張感に変わりつつある。いまは、恐怖も迷いもなく、ただ、信念だけがあった。きっと、健一は助かる。その信念を与えてくれるほどに、目の前の堂島ゆうという女性の存在感が大きかった。

 沙奈絵一人では、とても無理だっただろう。

 けれど、少しの、懸念もあった。あの老人のことだ。あれが、沙奈絵の見た夢や幻覚ではなかったのだとしたら、再び現れる危険性がないとも限らない。老人は、確かに沙奈絵のことを知っているようだった。そして、沙奈絵が襲われる寸前に現れた、あの大きな人型の黒い影。沙奈絵は、その存在によって救われた。あれは、何だったのだろう? 

 「ここに入れば、あなたはいったん、現実というものから引き剥がされるわ。この場所は、過去から現在まで続いている心そのもの。建造物そのものに宿った、執念の中に入り込むのよ。できる?」

 彼女の言っている言葉の意味が、一体どういうものなのか、沙奈絵には想像がつかなかったが、どうであれ、彼女に従うしかなかった。魔女かもしれない女性を信じることが、いまの沙奈絵にできるすべてだった。

 「照須、あなたは見張り役として、ここで待っていて」

 照須が頷くと、ゆうが沙奈絵の右手首を掴んだ。一瞬、微細な電気が走ったような気がして、沙奈絵は、ぶるっと体を震わせた。ゆうの顔を見上げた沙奈絵は、その表情が奇妙に崩れ始めるのを見た。

 え・・・・・・幻覚? と、輪郭はすぐに戻り、その眼光は鋭く校舎を見上げていた。

 「さあ、いきましょうか。わたしと離れたはだめよ」

 ゆうの言葉は遠く厳かに、廃校に吸い込まれていくかのようだった。

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