六章

 長い冬眠から醒めたような、激しい虚脱感を感じ、起き上がろうにも、なかなか起き上がることができなかった。しかし、しばらくすると、身体の芯から湧き上がるようなエネルギーが湧いてくる感覚に満たされ、彼は、ああとかううとか、感極まった唸り声をあげた。

 この自分が誰なのか、もはや彼には分からなかったが、そんなことはどうでもよかった。人間の意識レベルを越え、もっと原始的な激情に満たされていた彼にとって、いまは、肉体的な飢えを満たすことが何よりも必要だった。すると、目の前に、おあつらい向きの死体が転がっていた。アイボリーの絨毯は、死体の首から流れ出た血で、異常者の描いたロールシャッハの絵図のように、赤黒く染められていた。

 普通ならば、耐え難い死臭が、彼にとっては脳幹を貫くような刺激的な香りに感じられる。よろめきながら、死体のそばまで行き、何の躊躇いもなく、彼は、死体を貪り喰った。噛み千切った腐肉を喉に流し込む度に、獣のような唸り声を上げた。

 彼は、知らずの内に涙をぽろぽろと流していた。理由など分からなかった。涙を流していること自体、気付いていなかった。

 ただ、彼の記憶の遠景に、微かに見えたのは、捨てられた子供が必死に生きのびるために、猫の死骸を食べている光景だった。ひもじくて、寂しくて、苦しくて、だから、この子供は、こん棒で猫の頭を潰して、それを喰うことで生き長らえたのだ。

 憐れな。なんと憐れな弱い存在なのだろう。

 憎い。世界が。何よりも、己自身が。こんなにも無力で憐れな存在が。

 死肉を己の臓腑に吸収する度に、今度は、彼は高らかに笑い始めていた。体中がむず痒く、長年の垢が身体にこびり付いているような感覚に、彼は嫌悪し着衣している服を全部脱ぎ捨て、全身を掻き毟るようにしてかじった。すると、皮膚が、乾燥し粘着力を失った剥がれかけのセロハンテープのようにかさかさと音を立てて、剥がれ落ちていった。身体を見下ろすと、その内側から、何やら赤黒く隆起した筋肉らしきものが盛り上がってくる。己が生まれ変わっている快感に、彼は打ち震えた。

 顔を掻き毟る。鼻が削げ、眼球がひしゃげ、血の涙が溢れ始めた。黒目はルビーのように赤く染まり、複眼のごとく、彼の見る世界を一新した。体のありとあらゆる細胞が新生し、新たな鱗状の皮膚が鎧のように全身に覆い始めた。

 こいつは、一体・・・・・・。彼は、部屋の隅に、埃をかぶって立てかけてある姿見に映っている自分の変わり果てた姿を見て絶句した。これは、何だ? 化け物が・・・・・・。

 彼は、近くにあったガラス製の灰皿を、姿見に向かって投げつけた。鏡に、蜘蛛の巣状のヒビが入り、彼の姿をよりグロテスクなものとして映した。彼は、泣くように唸った。唸り続ける中で、こんな化け物に己を変貌させた世界を呪った。ルビーに艶めく瞳から、赤黒い液体がぽたぽたと、零れ落ちる。それは、もはや、涙ですらなく、濁った石油のように汚らしい何かだった。

 憎め、憎めば憎むほど、お前の肉体は限界を超えていく――。

 お前はもう、俺のものだ——。

 その、内側から強烈に発せられる声に、彼は完全に、自己を失った。それは、心の片隅に追いやられ、干からびて色を失った魂のように、ひっそりと転がりしぼんでいった。

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