五章

 保育士の梅沢安奈は、目の前の黒ずくめの女性に畏敬の念を込めて、視線を送った。彼女、堂島ゆうの目の前で、いまはすっかりおとなしくなった築地優斗が、優等生のように椅子に座っていた。さきほどまで、暴れまわっていたのが嘘のようだった。

 彼は、暴れはじめると手の付けられない状態になる。何がきっかけで、そうなるのか、安奈には分からなかったが、突然、人間が変わったように暴れだすのだ。その症状は、およそ一か月ほど前から始まっていた。

 床で転げまわるように暴れていた優斗君の目の前で、彼女が手をかざしただけのように見えた。手をかざし、耳元で何かを囁いた。それだけで、いつもはなかなか収まらない癇癪のような症状が消え去ってしまったのだ。一応、優斗君の身の上や、環境に関しての情報、ここ最近の出来事などは伝えてあったが、安奈が協力したことと言えば、その程度のことだった。

 「一体、どうして、優斗君・・・・・・」

 そのあとに続く、安奈の心の声は、こうだった。どうして、優斗君、あたしの言うことは全く聞いてはくれないのに、こんな簡単に大人しくなったの? どうして? 畏敬の視線には、だから、ある種の嫉妬心も含まれていた。

 その安奈の視線を真っ向から受け、堂島ゆうは、静かな口調で語り始めた。それは、まるで、長い詩を朗読するかのような静謐さに満ちていた。

 「優斗君は最近、自我が芽生え始めたことで、精神的なバランスの均衡が崩れていた。両親の喪失により、極端に遅れてしまった自我の芽生えだったけれど、自分を気にかけてくれる存在がいることで優斗君の心は正常に成長し始めた。停滞からの急激な発達は、けれど心に亀裂を生み、霊障とまではいかないけれど、低俗な波動エネルギーの流入を導いた。優斗君自身の心にストックされていたネガティブな感情も、その成長とともに増長されてしまった。両親から、愛情というものをほとんど得られなかった彼は、愛情を得る術を知らなかったし、その準備もできていなかった。まだまだ未熟で、愛情をたくさん浴びたい時期に、愛情を与えてもらう存在がいなかったのだから。自分は、誰にも愛されていないという思いは、世界への破壊衝動へと向かってしまう場合がある。負の感情と相まって、それが、暴れるという行動で表現された。でも、暴れることで、安奈さんの関心を得られた。だから、優斗君はますます、暴れることで、あなたの関心を得ようとした。実際、彼が暴れ始めたらずっと、付きっ切りになってしまったでしょう? 優斗君に」

 耳に心地よい、低く抑えた声は、何の抵抗もなく、安奈の心にすっと落ちてくる。実際、彼女の言う通りだった。優斗君は、構ってもらいたかったのか。自分だけを構ってもらいたかった。安奈の愛情を、独占したかったのかもしれない。実を言うと、安奈もうすうす、そんな気はしていたのだ。だからといって、暴れまわる優斗君に、どう対処すればいいか分からなかった。

 「不安定で乱れた心は、凝り固まった霊的汚物を引き寄せてしまう。けれども、未熟ゆえに、祓いは、いともたやすいのよ。散らかった部屋を片付けるようなもの。きれいにしたら、そこに、方向性を示してやればいい。もう、大丈夫。ね、優斗君」

 俯いていた優斗君が、彼女の問いかけに、恥ずかしそうに顔を上げた。今年、七歳になったばかりの、そのあどけない顔に、どこか大人びた表情が浮かんだ。

 一体、彼女は、優斗君に何を囁いたのだろう、と安奈は思った。よく見るのも憚られるようなオーラを発している、堂島ゆうという女性は、大学生時代、ミスコンに選ばれたことのある安奈が足元に及ばないほどの美人だった。そもそも、美人の質が違う、と安奈は感じていた。この世に二つとない艶めかしく妖美な光を発する大粒の真珠のような美しさ。夜の暗黒の中で、孤高に輝いているそれは、近づくものを焼け尽くすかのよう。いま目の前にいる彼女は、ごく自然体でいるはずなのに、自ら思い描いたそのイメージに、安奈は圧倒されてしまっていた。彼女が、この場にいるだけで、部屋の空気ががらりと変わっていた。

 優斗君だけでなく、他の児童も、いすくめられたように大人しくなっていた。

 「では、わたしはこれで失礼します」

 堂島ゆうが、安奈の前で頭を下げる。安奈は、どこかの国の王妃にでも頭を下げられているような居心地の悪い気持ちになり、彼女の倍近く頭を下げてお礼を言った。それから、恐る恐る顔を上げると、鼻孔をくすぐるような甘いミントの香りがした。

 堂島ゆうの顔が、安奈のすぐ目の前にあった。蛇に睨まれた蛙のように、安奈の身体が硬直し、緊張で顔が強張った。心臓がどきどきと早鐘を打っていた。

 その美しい顔が、さらに接近してくる。顔からそれて。耳元へ。

 「大丈夫。安奈さんは、そのままでいい。あなたのままで。自信をもって、これからもあなた自身で、みんなに愛情を与えてやって」

 堂島ゆうの右手が、安奈の頬に伸び、優しく触れた。

 かっと血が上るように、全身が熱くなった。と、同時に、目頭が熱くなって涙が溢れそうになる。そうだ。自分は、自信を失いかけていたのだ。いろいろなことがあり、その中で優斗君のことがあった。こんな自分のままでは、誰一人、立ち直らせることもできないし、手助けすることもできない。優斗君、どうして暴れるの、どうして! 彼が、暴れるたびに、無理矢理にでも彼を大人しくさせようとした。わたしだから? わたしみたいな人間だから、言う事を聞いてくれないの?

 いつも、高みを期待され、それを達成できない自分がいた。誇れるのは、容姿ぐらいなものだった。そうやって、いつも、どこか自分を否定して生きてきたのだ。そんな自分を、堂島ゆうという女性は、一目で見抜いたのかもしれなかった。

 安奈は、彼女に、あなたのままでといい、と囁かれた瞬間に、自分の中にあった重荷のようなものが、すっと軽くなっていくのを感じた。重圧と使命感と、完璧主義。それから、自己嫌悪。そういったものが、ごちゃごちゃと、頭の中でうず巻いていて、息苦しかった。もっと、頑張らなくちゃ、このままじゃ駄目だと、自分を鼓舞するように生きてきた。どれだけ、頑張っても、満足できな自分がいた。

 この養護施設にくる子供たちは、みんな、自分などよりはるかに不幸な境遇で生きてきた子供たちであり、これからも試練が待っている。だから、自分が少しでも力になってやらなくては。けれど、そんな押しつけがましい思いは、空回りすることが多かったのだ。

 救われたのは、優斗君じゃなくて、自分の方だったのかもしれない。

 堂島ゆうが去っていく後姿を、安奈はしばらく眺めていた。午後の強い陽射しは、その黒い衣装を溶かしてしまうかのようで、輝く漆黒の天使のようだと、そんな幻想を安奈は抱いた。堂島ゆうという女性を、安奈は、ほとんど全くといっていいほど知らないはずなのに、ただ一回、安奈の苦しい心に寄り添ってもらえたことで、とても身近な存在に思えた。と、同時に、決して永遠に手の届かないところにいる人なのだという思いが、湧いてくるのだった。

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