九
彼は、深い眠りの中にいた。ここ数日、何も食べず、なにも飲まず、ただただ眠り続けていた。このまま衰弱して死んでしまうのではないかという杞憂は、一切なかった。なぜなら、それどころか、身体が焼けつくようなエネルギーがふつふつと、内から湧いていたからである。超越者になるための、変化の兆しに違いなかった。
部屋には、顔の一部が喰われ、蛆の湧いた死体が横たわり、異様な匂いが部屋中に充満していたが、彼には一切、気にならなかった。まさかこの部屋を、借りている人間がいるとは思わなかったが、貧乏を絵に描いたようなみすぼらしい学生風の男が借りていたので、首を捩じ切った後、空腹を満たし、そのあとは、異様なほどの眠気に襲われたので、部屋にあったベッドで眠り続けているのだ。
眠ってはいるが、意識はあった。それが、自分自身のものであるのか、それとも、ディプロのものであるのか、もはや、彼には判別ができなかった。
闇の中で、憎悪と激情が渦を巻いて肥大化していく。肥大化していく何かとは反対に、彼の自我意識はすでに薄片のように、存在感をなくしていた。薄れていく意識の中に走馬灯のごとく、幼少の頃の記憶が流れていく。孤独と苦しみと絶望が、そこにはあった。救いはなく、死を待つだけだった存在。果たして、何のために生まれてきた存在だったのか。
生まれてほどなくして、彼は世界から、排除されそうになった。圧倒的な暴力の前に、なす術もなくさらされる身体。抵抗することもできず、声すら上げることができず、ただ痛みが、激しい痛みが、あった。痛みは、身体を破壊されていく恐怖と相乗して倍増していく。その恐怖は、彼の心に世界に対しての逆方向への反動、すなわち、憎悪の芽を培った。
自分を抹殺しようとする世界を、支配する。力への、欲望。この世界を支配することは、己を守ることとイコールだった。巨大な力を得るには、生贄を捧げなければならない。いつしか、彼の中に生まれていたそんな想念。神への捧げものを。いや、悪魔への。
悪魔――。そうか、ディプロこそ、悪魔なのではないか。いまや、自分は、悪魔と一体化しようとしているのではないか。より、強大な存在への跳躍を果たすため。
ぐつぐつと煮えたぎる窯の中で精神が焼き切れていくような感覚。物切れになり融合していくかのような感覚。自我という感覚が、完全に消失してしまう前に、彼は、一瞬だけ悲しみのような、虚しさのような、そんな感情を感じたような気がした。逆回転して増大していく憎悪の片隅で、ひっそりと捨てられるようにしてあった、それ。微かな願い。決して、二度と叶うことのないそれは。愛への欲求だった。
愛情など知るはずもないのに、それは、ずっとそこに落ちていたのだ。その、空虚な空間が、白濁し暗転していく意識の中で、ほんのわずかな時間、心の隙間を埋め尽くすようにして現れ
—―悲しみが、空虚が通り過ぎた。
そうして、それが完全に消失した瞬間、彼の変態への準備が整ったのだった。
やがて、彼の顔は、煮え立つようにその皮膚の形状を変え、部分部分で溶解し、溶解したその内側から、新たな皮膚が再生する。顔から、首へ、それから全身へと。
オマエハオレノモノダ——。どこか遠くから、ディプロの轟くような声が響き渡ってきた。
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