心的外傷後ストレス障害。それが、精神科医によって下された闇堂ルナに対する診断だった。ホルダーズチルドレン(生まれつきの潜在能力の保持者、潜在能力保有者)である彼らの能力が発現するきっかけは、様々だ。闇堂ルナの場合は、少年にとってはあまりにも過酷な惨劇だった。惨劇は、悪夢の中で何度も繰り返され、終わらない悪夢として、ルナを苦しめ続けた。

 そのナイトメアは、いまだ終わらない。

 目の前で無残にも、猟奇殺人者によって家族が殺害される。その光景を薄く開いた扉の影から、震えながら見ていた。後に知ったことだが、そのサイコパスの名は、横田壮一といった。ディプロに取り憑かれた人間の一人だった。

 目の前の床が、父と母、それから妹の血で赤く染まっていく中で、ルナの心の中で何かが壊れるような音がした。それは、長年、頑丈に施錠されていた分厚い扉が、扉ごと破壊されるような凄まじい破裂音だった。

 ルナは、隠れていた扉の影から、ゆらゆらと横田の前に姿を現した。そのときは、気付いていなかったが、ルナは悪鬼のような笑みを浮かべていた。狂う寸前だった。

 ユルサナイ—―。ただ、その感情だけが先走るように破裂音とともに、ルナの心を占拠し、横田の前に立たせた。自分が無力であることは分かっていたし、このままでは自分も殺されることは分かっていた。

 だが、その一方で、それとは真逆の意識が、どんどんとルナの心の中で研ぎ澄まされていった。この殺人鬼を処理する。滅殺する。だが、どうやって?

 思考が、答えを返す前に、ルナの身体の一部が異形していた。ルナには、何が起きたのか全く分からなかった。右手の五指が、密着するようにくっつき、先端が先鋭化した。顔面に両親の返り血を浴び、目をぎらつかせた横田が、赤鬼のごとくルナの方へと近づいてくる。ルナは、まじまじと、自分の右手に起きた変化を見つめていた。

 もしかして、これは、夢なのかもしれない。

 なんて、嫌な夢なんだろう。なんて、残酷な夢なんだろう。

 でも、夢なんだから。こんなことが、起こるはずがないのだから。

 そんな希望を打ち砕くように、横田の濁声が、ルナの精神の割って侵入してくる。

 『ガキもいたか』

 横田が、けらけらと笑いながら、血の滴り落ちるナイフをぺろぺろと舐めた。

 『びびって、動けないか。お前も切り刻んで殺してやろうか?』

 ルナは、右手に落としていた視線を静かに上向ける。

 そこには、すでに人間としての精神をなくした化け物が立っていた。

 ルナは、視線を動かし、ずたずたになった父親を、その躯を静かに見つめた。それから、母と、妹。血の海に浮かぶように、三人のずたずたに切り裂かれた死体が横たわっている。もう、決して動くことのない・・・・・・。ルナだけが、たまたまその場にいなかったことで、犠牲者にならずに済んだ。

 ルナの父親は、格闘技経験のある筋骨逞しい男だった。母と妹を守るため横田と対峙したその父が、なす術もなく横田に嬲り殺しにされた。ただナイフを持っている強盗程度であれば、父はいともたやすく取り押さえていたであろう。しかし、横田の動きは普通ではなかった。とても、人間とは思えなかった。

 ルナの目の前に立つ、横田の身長はルナの二倍ほどもあった。それだけでも、とてもまだ十歳にも満たないルナが敵う相手ではなかった。

 そのとき、ルナは怯えていたか。恐怖に竦んでいたか? 

 否。ルナは、興奮に打ち震えていた。体内の血が、熱湯で沸かしたように熱く煮えたぎっていた。それでいて、意識の底の底では、驚くほど冷徹な自己があった。こいつを処理する。

 『お前を処理する』

 ルナは、ぼそりと言った。

 『うん? 何だって?』

 『お前を処理すると言ったんだ』

 横田が盛大に笑った。目をぐりぐりさせ、唾を吐き散らしながら。

 『ガキが、なにとち狂ったこと言ってやがる。お前みたいな、正義感面したガキが、一番むかつくんだよ。どこから切ってやろうか? うん?』

 横田が、一歩、ルナの方へと近寄ったそのとき、ルナの右腕が一閃した。鞭のようにしなった右腕の先端が、横田の喉笛をかき切った。一瞬、横田は自分の身に何が起こったのか判断しかねるような奇妙な表情をしたあと、ごほっと大きな咳ばらいをして、大量の血を吐き出した。

 『お、おおまええ、ななにを』

 絶命間近の横田が、ごぼごぼと血を吐き出しながら、ルナを睨んでいた。だが、その瞳にはすでに生気がない。と、切断された頸動脈の辺りから、なにやら黒い靄のようなものがにゅるにゅると伸びだした。まるで、淀んだ沼から頭を出す毒蛇のように。

 ルナは、直感的に、それが何らかの意思を持つ邪悪な存在であると感じ取っていた。物質的な何かというより、邪悪そのものが波動のようなものとなって、蠢いている、そんなイメージを抱いた。

 振りぬかれた右腕を戻しつつ、切断しようとしたが、刃物化した右手は空を切った。明らかに、それは、逃げようとしていた。逃がすものか。その圧倒的なまでに強いルナの信念が、再びルナの身体に異変を生じさせた。ルナの右腕の先端が、分身化するように二つに分かれる。だが、その一方は、肉体というより、影だった。横田の肉体から流出した影と同等か、それに近いもの。肉体の構造変化のみならず、ルナはこのときにすでに、シャドウキネシスの能力を獲得したのだった。

 影は、逃げ去っていく影、すなわちディプロの分身をあっという間に切り刻んだ。そうして、邪悪の断片がシュウシュウと蒸発するような音を立てながら消えていく様をぼんやりと眺めながら、次の瞬間には、ルナは意識を失っていた。その時点で、まだ幼かったルナは、精神力を、いわば特異能力を使うための通力を使い果たしていたのだった。

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