先ほどの女の匂いが、まだ鼻孔に残っていた。恐怖に見開かれた女の目から発散する匂いに、彼は忘れかけていた獣の本姓を取り戻した。どこかで見た記憶のある女だった。どこか、過去のいつか。女の幼い頃の姿を想像し、彼は、その記憶の中に女の姿と重なり合う少女を見つけ、ほくそ笑んだ。獲物候補だった、もう一人の少女。

 その少女が、大人の色気を纏って、いま彼の目の前に現れたのだ。運命だろう、と彼は思った。新たなる飛躍への、次のサクリファイス。

 恐怖に怯え脱兎のごとく逃げ去っていった女の行方を視姦するように目で追った。痩せ衰えた彼の体からは、とうに性の渇きは失せていたが、熟した女の色気を発しているその肌は、耐え難い血への渇望を思い起こさせた。

 少女の首をはねる。切断された頸動脈から、噴水のように噴き出す血液。その血液を全身に浴びて、彼は恍惚の表情を浮かべたのだった。

 少女を、捧げたのだ。

 そして、また、この場所に戻ってきた。

 本能に命じられるかの如く、彼は、野生の獣になって女を追い始めた。あっという間に、女のすぐ背後まで接近し、涎を垂らすように、舌を伸ばした。それは、自分の意志でそうしたというより、口の中から異様に長いものが勝手に伸びていったという風に、彼には感じられた。すでに、身体の一部の変態が始まっているのかもしれなかった。

 女が振り返り、つんざくような悲鳴を上げた。そのときだった。何か、異様なものが目の前に現れた。それは、突如として、彼の前に現れ壁のように立ちはだかった。背丈は数メートルはありそうな、巨大な人型をした黒い雲のようなもの。張り裂けんばかりの怒りが、稲妻のように影の内側で音を鳴らしている。

 彼は、じりじりと後ずさりした。怯えているわけではない。その証拠に、口元には笑みが浮かんでいた。

 喰え、とディプロが心の中で叫んだ。彼は、かっと、目を見開き影に向かって突進した。彼が影に接触する寸前に、粘着質な闇のエネルギーは、パチンと音を立てて、彼の前から消えてなくなっていた。

 湯気のように揺らぐ霊気が、彼の目の前で、しばらく肉の焼けるようなじゅうじゅうという音を発し続けながら、次第に薄くなっていく。空間そのものが、怒りで震えるかのごとく、ゆらめき、ゆらぎ、彼の前で渦巻いている。

 その怒りの波動に呼応するように、彼は吠えた。何度も何度も。

 渦は、その咆哮にかき消されるようにして、やがて消え去っていた。

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