前方に、廃校の微かな影が見え始めた。沙奈絵の足は、深い泥の中を進むかのように、次第に重くなり始めた。あんな場所に行きたくない。心が、嫌がっている。その恐怖が、足を鉄の棒のように重くしているのだ。やがて、一歩も前に進めなくなった。

 あの場所へ行って、一体どうしようというのだろう。あの場所へ行けば、健一が助かるとでもいうのか。自問自答を繰り返す中、背後に異様な気配を感じ、沙奈絵は体を硬直させた。

 「健一?」

 健一が、沙奈絵のあとをつけてきたのだろうか?

 恐る恐る振り返ると、異様に目をぎらつかせた、ひどく痩せこけた白髪の老人が、沙奈絵の方に向かって近づいてくる。その尋常ならざる雰囲気に、沙奈絵は、悲鳴を上げそうになったが、何とかこらえ息を呑んで老人を見守った。

 沙奈絵の方に向かって歩いてくると思ったのは、どうやら勘違いだったらしく、老人の視線ははるか前方へと向けられていた。一心不乱に歩くその姿は、どこか狂人の気配を漂わせ、沙奈絵を怯えさせた。

 浮浪者だろうか? その身体から発せられる禍々しい覇気のようなものは、しかし、浮浪者のそれではないように思える。浮浪者とは真逆の、生きようとする気迫がみなぎっているかのようだ。

 沙奈絵は、老人から視線をはずし、俯いて、老人が通り過ぎていくのを待った。 

 老人が近づいてくるにつれ、一種異様な匂いが、鼻をついた。そして、沙奈絵の横を、老人が通り過ぎていく瞬間だった。ぷーんと、強い異臭が、吹きかけられるようにして、沙奈絵の鼻孔を刺激した。

 老人が、沙奈絵のすぐ側で、立ち止まった気配。どうして? なぜ?

 沙奈絵は、わけもわからず、混乱し老人が早く立ち去ってくれることを祈った。 

 だが、気配は強くなるばかりで、耐え切れなくなった沙奈絵は、意を決して顔を上げた。老人の皺だらけの顔が眼前にあった。視線が、瞬間、交錯する。全身から、すべての熱を奪われてしまったかのような寒気を感じ、沙奈絵は、さっと、視線を逸らした。いま老人は、にたりと、笑わなかったか? 唇の隙間から見えるはずの歯は一本もなく、ぽっかりと開いた空間から、何か異様なものがぼたぼたと、流れ落ちている。赤黒い血?

 がたがたと、足が震えている。悲鳴が、口をついて出そうになる。しかし、沙奈絵は必死に堪えていた。声を出せば、老人を刺激し、暴力行為を誘発してしまうのではないかと恐れたからだ。俯いた姿勢でじっと、老人が立ち去るのを待った。ところが、獣が発する麝香にも似たアンモニア臭を伴う不快な匂いが、さらに間近に迫ってきて、我慢しきれずに再度、顔を上げると、老人の干からびたような顔が、すぐ間近に迫っていた。干からびた土のような皮膚の中で、巨大なビー玉をはめ込んだような目が、じっと沙奈絵を嘗め回すように見ていた。

 ひっと小さな悲鳴を上げて、沙奈絵は走り出した。一切、振り返ることなく必死に走って逃げた。老人が、ものすごい勢いで追ってくるような、悪夢の妄想を振り払い、息が切れるまで走り続けた。走れる限界まで走り、地面に倒れ込み、はあはあと喘ぐように、空気を吸っては吐いた。もう、動けないと思った。それでも、沙奈絵は地面を這いずるように進み、勇気をふりしぼって、背後を振り返った。

 振り返った瞬間、全身が恐怖で総毛立った。老人が、四つん這いの姿勢で地面を這うようにして追ってきていたのだ。悪夢だと思った。自分は、夢の中にいるのだ。これは、悪夢の妄想ではなく、悪夢そのもの。

 沙奈絵は、口をぱくぱくさせながら、喘ぐようにして、さらに地面を這いずって進んだ。もう、逃げられないことは分かっていた。それでも、必死になって、地面に爪を食い込ませ体を前進させる。と、脛の部分に、何か生暖かい感触を感じた。見ると、老人の舌が、蛇のように伸び、沙奈絵の足首に絡みつこうとしていた。

 あまりの非現実的な光景に、沙奈絵はとうとう我慢できなくなり、絶叫した。声の限りに叫んだ。どうして、ここには、誰もいないのだろう。どうして、誰も助けにきてくれないのだろう。そうだ、夢の中だからだ。まだ、目覚めない夢の中にいるからだ。

 と、沙奈絵と老人の間に、突如、黒い影のようなものが現れた。一体、どこからやってきたのか、黒い影は人間のような姿かたちをしていた。だか、どうもぼんやりしていて、現実感がない。電球が爆ぜるような、バチバチという音が、聞こえた。目の前の空間で、ミニチュアの雷が幾本も筋を引いて空気を降りていく。

 一体、何が起こっているのかまるで、把握できないでいるうちに、声が聞こえた。まるで、沙奈絵の心の中に直通して響いてくるようなその声は、有無を言わせぬ厳しさを湛えていた。

 ——逃げなさい、早く

 沙奈絵は、声の指示に従って、慌てて立ち上がり、ふらつくようにして、その場から離れた。

 助かったのだろうか?

 さなえちゃん、はやくにげるんだ

 え?

 声は、再び聞こえた。

 沙奈絵は、もう振り返ることもなく、必死になって逃げた。いつの間にか、目から大粒の涙が流れていた。子供のように、わんわんと泣きながら、沙奈絵は蛇行する難破船のように、走り続けた。

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