沙奈絵の日常は、健一の異変とともに、加速度的に崩壊しかけている。健一は、まるで、登校拒否児のように学校へ行かなくなった。健一が、登校しなくなってから、すでに一週間以上が経過していた。

 いや、行けなくなったといった方が正しいかもしれない。健一自身、何か己の中で激しく葛藤しているような様子が、時々見受けられた。この子も、苦しんでいるのだと思うと、ますます危機感が募り、わが子を何としてでも助けたいという思いが否が応でも増した。しかし、沙奈絵のそんな希求とは裏腹に、何をどうしたらいいのかわからない自分自身に無力感が募るばかりだった。

 相談できる唯一の相手である早紀に会ったことで、むしろ、沙奈絵の心の平安はますます脅かされているる。誰に助けを求めていいのか分からず、だからといって、このまま手をこまねいていれば、健一が完全に狂ってしまうかもしれないのだ。

 沙奈絵は、忍び足で、健一の部屋の前までくると、中の様子を窺った。この頃は、寝ているか、沙奈絵のあとを監視者のようにつけているかの、どちらかだった。扉を開いて、健一が寝ているのを確認しようとしたとき、玄関のチャイムが鳴った。

 慌てて、階段を降り、インターホンを取ると、ぶっきらぼうな声が、聞こえてきた。それが、健一の友人である上原良治のものであると分かるまで、数秒とかからなかった。彼が、健一のことを心配して会いに来るのは、もうこれで、三度目だった。

 「健一は、いま、調子が悪くて寝てますので、ご心配なさらずに」

 沙奈絵は、前回と同じようにつっけんどんな調子で言って、彼に帰ってもらうようにした。

 「どうして、健一と会わせてくれないんですか?」

 「健一と、会わせてください」

 どうやら、今回は、上原良治一人ではないようだった。沙奈絵の心に、ふいに理不尽な怒りが沸き起こってくる。彼らが、健一を引きずり込んだのだ。彼らのせいで、健一はおかしくなったのだ。健一をこんな目に合わせて、ゆるせない。

 ユルサナイ——。

 はっとして、沙奈絵は手に持っていたインターホンを取り落としそうになった。まるで、誰か別の人間の声が自分の心に侵入したかのように、その言葉は発せられた。朗朗と空気をつんざくように発せられた声。

 こめかみが、ずきずきとする。自分でも制御できないような突き上げるような怒りが、こみ上げてくる。沙奈絵は、頭を抱えながら玄関の外へ飛び出していた。髪を振り乱して玄関から飛び出てきた沙奈絵を、三人の少年が目を丸くして見上げていた。

 「帰りなさい。あなたたちのせいで、健一がおかしくなってしまったのよ。もう、健一と関わらないで」

 沙奈絵のどこか普通でない剣幕に怯えたのか、三人の少年が、一歩、二歩と後退った。

 「俺たちは・・・・・・俺たちは、健一の友人です。健一が、会いたくないっていうんなら、俺たちは帰ります。だけど、もしそうでないなら、会わせてもらえませんか」

 上原良治の横に立っている大人びた雰囲気の少年が生意気そうに言う。確か、加賀満という名前だったか。その隣にいるのが、倉橋信二。彼が、早紀の息子だと知ったのは、ごく最近になってからだった。気真面目そうな表情の奥に、強い意思の光が宿っている。

 どうして、と沙奈絵は思った。どうして、早紀の息子の倉橋信二は何ともないのに、健一だけは、あんなことになってしまったの? どうして? 他の二人だって、平気な顔をしている。健一だけ、あんな目にあって、この三人は・・・・・・。

 沙奈絵は、信二をきっと睨みつけた。健一に会うまで、帰らない。その瞳は、そう訴えているかのようだ。そんな、真摯な眼差しを見ているうちに、沙奈絵の心に、またもや理不尽な怒りの気持ちがふつふつと沸き起こってくる。

 どうして、どうして、どうして、健一だけ。この子たちは、普通のままで、どうして健一だけが、あんなことになってしまったの?

 健一は、無理矢理に肝試しに連れていかれたのではないか? そうに決まっている。だから、健一だけ。

 ユルサナイ——。

 「帰って。帰らないと許さないから」

 静かな、それでいて断固とした決意が籠った口調だった。沙奈絵と三人の少年の間に生じた不穏な空気は、まるで冷気を帯びたように冷たく沈黙した。

 凍り付いた沈黙の壁は、決して破れない。そう悟った三人は、くるりと踵を返し、肩を落として帰っていく。沙奈絵は、その姿を、ぼんやりと見送っていた。体内で張り詰めていた緊張が、どっと抜けていく。沙奈絵は、しばらく、気の抜けたような表情で、その場に突っ立っていた。

 もう、何をしていいのか、分からない。さきほどまで、自分の内に生じていた憎悪にも似た怒りは、一体、どこからやってきたのだろう? いままで、生きてきた中で、沙奈絵は、あれほどの怒りを感じたことがなかった。そのことが、沙奈絵には、とても、恐ろしいことに感じられて、自分までもが、信じられなくなってくる。健一と同じように、この自分も得体の知れない存在に変わっていってしまうのではないか。

 沙奈絵は、そんな不安と怯えから逃れんとするかのように、ふらふらと、あてもなくさまよい歩いた。

 自分でも、どこへ向かっているのか分からなかった。それでも、身体は、自動運転の車のように勝手に動き、間違いなくどこかへと向かっている。

 そうして、沙奈絵はやっと気づいた。自分は、廃校へ向かっているのだと。かつて、小学生の沙奈絵が通っていた、星川第二小学校へと、向かっているのだと。

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