五
すでに、限界に近付いていることに、沙奈絵自身が気づいていた。このままだと、健一より早くに、自分のほうが崩壊しそうだった。健一は、日を追うごとに不気味な存在になっていくかのようで、もはや、沙奈絵がどうこうできるという段階を越えているように思えた。
そもそも、沙奈絵にとって疑問だったのが、自分の記憶を無理やりにでも引きずり出せば、物事が解決の方向へ向かうのか、ということだった。むしろ、傷口をますます広げるだけなのではないか。この自分がおかしくなってしまえば、健一を助けるどころではなくなってしまう。
とはいっても、いまのこの状況が、沙奈絵の過去と結びついていることは間違いないのだ。健一は、友人たちと一緒に、廃校になってかなりの年月を経た星川第二小学校へ行った。
その場所に行ったことが、明らかに健一をおかしくさせてしまった原因だ。
用務員室——。
早紀の言った、その言葉が、呪いの言葉のように、沙奈絵の頭にいまだ、こびりついていた。寒気を覚えるほどの恐怖感を、なぜ、その言葉は引き起こすのだろう。幻影に見た、男の影。
『ねえ、用務員のおじさんのこと、覚えてる?』
沙奈絵は、早紀との会話を思い出す。沙奈絵は、氷の溶けたアイスティーを喉に流し込み、早紀の言葉を頭の中で反芻していた。
用務員のおじさんのことを
ようむいんのおじさん
ちりちりと、髪の毛が逆立つような恐怖を感じ、沙奈絵は、胃に流し込んだ、味もしなかった液体を吐き出しそうになった。封じた記憶の核心は、そこにある。
『あたし、思い出せないの。それなのに、なぜか、昨日、信二から用務員室のことを聞いてから、たぶんずっと、わたしの心の奥には用務員のおじさんの記憶が刻まれていたんじゃないかと、思えてきた。なぜって、いつも夢に見ていたから。何度も、何度も見ていたから』
まるで、告解室で懺悔する教徒のように、早紀は早口にまくしたてた。自分と早紀は、似た者同士だった。早紀の心も、沙奈絵の心と同様、小学生時代の忌まわしい記憶を心の底に沈めてしまったのだろう。二人は、徹底的に抑圧しなければ、精神的な崩壊を免れないような、忌まわしい体験を共有しているはずだった。
それが、何かが分かれば、問題は解決するのか、それとも沙奈絵の精神が崩壊の憂き目にあうのか、いまのところ知る手立てはない。だが、もう後戻りはできないのだ。
早紀は、しばらくの無言の後、アイスティーを口に含んで、ゆっくりと喉に流し込んだ。そして、話の続きを始める。
『それは、わたしの手首を強くつかんで引きずる男の夢だった。でも、顔は見えない。痛いってわたしは叫ぶけど、男はわたしの手首をはなさない。来るんだ、こっちへ。男は、そう言って、わたしを引っ張っていく』
早紀は、またあの怖い表情に戻ったかのようで、沙奈絵はぞっとするような気持になる。
『それが、用務員のおじさんじゃないかって。夢に見る、あの男の正体は』
沙奈絵の心臓が早鐘を打つように、どくどくと鳴り始めた。その拍動の大きさに沙奈絵自身が驚くほどだった。幻影に見た男の影が、少しずつ形を取り始める。男の顔は、しかし、いつまでもはっきりとしないまま、熱で溶けた粘土のように、形が定まっていない。粘土の一部に亀裂がいくつも入り、そのうちの一つからくぐもった声が聞こえてくる。
さなえちゃん・・・・・・
そうして、男の手が、早苗の方へ伸びてくる。顔から、何か液体のようなものがぽたぽたと、流れ落ちている。よろよろと、早苗の方へ向かってくる男は、ぶるぶると震える手を、伸ばす。
こないでええええ!
沙奈絵は、心の中で絶叫した。
これが、封じ込めていた、記憶の一場面だろうか。
あたしと、早紀は、用務員のおじさんに襲われたのだろうか?
沙奈絵は、激しく頭を振って、心の中で自動再生される過去の記憶らしきものを振り払おうとした。
と、ぐらつく頭の中に、もう一人の男の顔が見えた。パステルカラーの柔らかい絵の中から語り掛けてくる肖像画のように、とても優しそうな笑顔で、早苗を見つめている。肖像画の口元が、ゆっくりと動き始める。
さなえちゃん、と。
甘くて懐かしくて、とても心地よい響き。とても、好きだった声。この男は、誰だろう?
頭が、割れそうなほど痛くなる。
結局、早紀とこれ以上会話をすることは、とても出来そうになく、その日は別れたのだった。
背後に、また視線を感じ、沙奈絵は振り返ろうとした。振り返ろうとしたが、振り返ることはせず、感情のこもらない声で息子の名を呼んだ。
「健一!」
その呼びかけは、虚しく空を切り、残された沈黙をより重くした。沈黙に耐え切れず、沙奈絵は喚いていた。
「あんた、どうして学校に行かないの? 体の調子が良くなったのなら、学校に行きなさい。あたしのあとばかりつけて、どういうつもりなの?」
それでも、答えることのない健一に我慢ならなくなった沙奈絵が振り返ろうとした瞬間だった。何かが、下腹部に巻き付いてきた。ぞっとして、下を向くと、背後から、細い腕がちょうど沙奈絵の下腹部あたりに巻き付いている。
首筋の辺りに、生暖かい息が吹きかかる。
「駄目だよ、だって、僕が学校に行ったら、お母さんは一人になっちゃんだもの。僕が、守らなきゃ」
沙奈絵は、健一の腕を掴み、無理矢理に引きはがした。その反動で、健一がバランスを崩し、廊下に尻もちをついた。
沙奈絵がくるりと体を回転させると、床でしゃがみ込んだ健一が、恨めしそうに沙奈絵を見上げていた。
「さなえちゃん・・・・・・どうして・・・・・・」
沙奈絵は、両手で耳を塞ぎ、寝室に逃げ込んだ。あの子は、もう健一じゃない。気味が悪い、と思った。自分の息子に対して、そんな思いを抱く自分にひどい罪悪感を感じながらも、沙奈絵には、その感情をどうすることもできなかった。
もう無理だと思った。早紀に会って相談しても、事態はより悪化する一方のように思えた。
いまや、沙奈絵は、確信していた。
あの子は、健一は、何かに取り憑かれている。
きっと、あの場所で。あの学校で。
どんどんどん、と突然、扉が強く叩かれる音がして、沙奈絵はぎょっとして、扉を凝視した。恐ろしくなって、ベッドの中にもぐりこんだ。体を亀のようにして、心臓を直接叩くような音から逃れようとする。いつからか、その音が自らの心臓の鼓動音と区別がつかなくなり、極度の眩暈を感じ、沙奈絵は意識を失っていた。
夢の中で、沙奈絵は早紀と並んで道路を歩いていた。そういえば、小学生の頃は、いつも早紀と一緒に家へ帰ったんだっけ。双子みたいだねって、よく周りから言われるほど、二人は仲が良かったのだ。
沙奈絵は、横を見て、早紀に笑いかけようとする。すると、どうしたことだろう、さきほどまでは早紀と歩いていたはずなのに、隣には誰か違う子が歩いている。
誰だろう、これは?
沙奈絵は、夢の中で必死に思い出そうとする。
背丈は、沙奈絵と同じくらいだから沙奈絵の友達だった子なのかもしれない。よく見ると、その子の向こう側に早紀がいた。真ん中に、誰なのか分からない子、その両側に沙奈絵と早紀がその子を挟むようにして歩いているのだ。
「結花ちゃん、大丈夫だった?」
これは、早紀の声だ。早紀が、その誰なのか分からない子に話しかけている。
大丈夫って、何がだろう?
だ い じょう ぶ
その子が、早紀の問いかけに答えた瞬間だった。その子の首から上が突然、切り離されるようにして宙に浮いた。空高く宙に浮いて、はるか頭上から沙奈絵を見下ろしていた。
だ、だ、だ、だ、い、いいいいい
その子の歯が、がたがたと震えるようにして動いていた。その震えに共鳴するように皮膚が蠢き、剥がれ、ぼたぼたと宙から降ってくる。やがて、その顔は髑髏のようになってカタカタと歯を踊らせながら、沙奈絵めがけて落ちてきた。沙奈絵は、あまりの恐怖に悲鳴をあげ、亀のようにうずくまり頭を抱え、絶叫する。
「母さん、母さんったら」
沙奈絵の体を、誰かが必死になって揺すっている。全身が、ずぶ濡れになったように湿っているのを感じた。汗を大量に吸った下着が鎧のように、肌に密着している。
まだ、いま見た夢の衝撃で、体ががくがくと震えていた。にもかかわらず、夢の内容をはっきりと思い出せなかった。自分の方へ、骸骨のような白い物体が飛んでくる映像だけが、瞬間の映像として瞼の裏に焼き付いていた。
茫然自失の体で顔を上げると、健一がいまにも泣きそうな顔をして沙奈絵を見下ろしていた。愛おしさに、健一を引き寄せ抱きしめた。
これは、健一だ。あたしの息子なのだ。ああ、健一、ごめんなさい。あたしの方が、おかしくなっていたのよ、きっと。健一・・・・・・。
そう思って、腕の中を見下ろすと、ずずっと胸にあてられた頭が上向き、破顔した健一の顔が、沙奈絵を見返してきた。
「誰!」
反射的に、沙奈絵は健一を押し返していた。困惑と混乱で、頭がどうにかなりそうだった。健一の顔をしているが、これは、健一じゃない。薄気味悪い。
いや、いや・・・・・・。
動悸が急速に激しくなり、息苦しさで窒息しそうになりながら、もう一度、沙奈絵は健一の顔を確認した。
まるで、健一の顔に、老いた男の顔が張り付いているかのようなしわくちゃな笑顔。目じりの皺は、初老の男のそれだった。
「健一、あなた・・・・・・」
沙奈絵は、ぼろぼろと涙を流し始めた。現実が、急速に遠のいていき、その上に、悪夢が塗りたくられていく。もう、どうしていいのか分からず、沙奈絵は、にこにこと笑いかけてくる気味の悪い健一を、ただ茫然と見つめていた。
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