翌日、沙奈絵は意を決して、かつての同級生である倉橋早紀に連絡を取った。早紀は、小学生時代の友人で、いまも交流があるのは、彼女と他数人しかいない。息子同士が友人ということもあって、たまに連絡するのは、ほぼ彼女だけといってもよかった。

 それでも、彼女と会うことは、沙奈絵にとって億劫だった。ここ数年は、連絡もとっていなかったし、会うこともなかった。早紀も、同じように沙奈絵と会うことを避けている風があった。

 小学生の頃は、親友といってもいいほど仲が良かったはずなのに、こうまで疎遠になってしまった原因は何なのだろうかと沙奈絵は、考える。そうして、考えるのだが、答えは自ずと小学生時代のどこかの時点まで遡るのだ。

 小学生時代、早紀と遊んだ最後の日の記憶から、沙奈絵には、大人になるまでに彼女と親しく会話したり、遊んだという記憶がない。その空白は、ただ会っていなかったことが原因なのか、それとも、記憶から抹消されてしまったのか、沙奈絵には知りようがない。

 そもそも、過去に遡って記憶を反芻すればするほど、こめかみから頭全体にかけて強い頭痛に襲われるのだ。結局は、過去を思い出したところで、現在が変わるわけでもないし、日常は、とどこおりなく進んでいるのだから、無理矢理、何かを思い出す必要もないと思い、いつも記憶の掘り起こしを断念してしまう。

 問題がないのだから。しかし、そうとも言っていられなくなった。健一の様子がおかしくなったあの日曜日、彼は、友人たちとどこかへ行った。どこへ?

 そう、それは、星川第二小学校ではないか? すでに廃校になっていて、いまは、どうなっているかは、沙奈絵は知らなかったし、知りたいとも思わない。けれど、彼らは、その場所へ行ったのではないか? 確信とまではいかないまでも、沙奈絵の直感は、そう告げているのだ。遊び半分だったのかもしれない。けれど、健一をおかしくさせてしまうような出来事が、何か起きた。それを、きっかけに健一は精神の均衡を崩してしまった。

 否応なしに、闇に包まれた過去が迫ってきているような気がして、沙奈絵は身震いせずにはいられなかった。このまま放っておくわけにはいかない。平穏な生活、大切な息子、そして、この自分までも、すべてが壊れていってしまう前に、なんとかしなければならなかった。


 駅の最寄りの喫茶店は、昼近くだというのに、やけに客が少なかった。気が滅入るような曇り空は、人の心も消極的にしてしまうのだろうか。

 沙奈絵は、アイスティーを頼むと、ちらと腕時計を見た。まだ、約束の時間まで十分ほどあった。店内に流れるジャズ風の音楽は、沙奈絵の心を落ち着かせるというより、そわそわとさせた。早紀と会うのは、何年ぶりだろうか。そのときも、沙奈絵から誘って早紀と会ったのだった。

 たまには、会ってみない、と。その程度の動機だったが、実際、彼女と会ってみると、気まずいまま一日が終わってしまった。たいしたやり取りもせず、上辺だけの話をして、まるで、ご近所の主婦と天気の話をしているような感じだった。小学生時代の話はお互いに暗黙の了解のように、話題に出ることはなかった。

 早紀は、ちょうど約束の時間ぴったりにやってきた。華やかなワンピースが、逆に彼女の暗い表情を際立たせているかのような印象を与えた。早紀から見える風景も似たようなものだろうか。きっと、自分も暗く厳しい表情をしているに違いなかった。

 お互いの覚悟を目線で感じ取り、今日は避けては通れぬ話題を話すのだと再確認した。

 「久しぶりだね、早紀」

 彼女が向かいの席に着くと、沙奈絵はあからさまに明るい口調でいった。早紀は、少し微笑んだだけで、しばらくの間、黙っていた。店員が、注文を取りに来ると、彼女は沙奈絵と同じものを頼み、静かな口調で話し始めた。

 「健一君の様子がおかしいことは、信二から聞いているわ」

 世間話でもしてから、という沙奈絵の思惑を外して、早紀は、直球をそのまま投げてくる。

 「実を言うとね、信二も、あの日からなんだかへんなのよ。妙におどおどして、わたしと目を合わせようとしないの」

 沙奈絵は、表情を硬くして、先を促した。

 「でね、とにかく、どこへ行き、何があったのか話しなさいと、問い詰めたのよ」

 店員が、沙奈絵のカフェラテを持ってきて、テーブルにおいた。グラスに氷が当たる音が、沈黙の間を倍増させるかのようだった。

 どこへ行ったのか? そして、そこで何があったのか?

 早紀は、グラスへ視線を落とし、それにつられるようにして、沙奈絵も視線を落とした。目が合えば、その名前が発せられる。そんな予感に、二人とも怯えていた。お互いが隠し合っている、見せたくないものを見せ合うような、追い詰められた気分で、封じられた記憶が露呈するのを、少しでも先に延ばそうとするかのように、黙ったまま俯いていた。先に口を開いたのは、早紀の方だった。

 「廃校へ行ったんだって、そう言ったわ」

 廃校。沙奈絵も早紀も、その廃校がどこであるのか、言わなくても分かっていた。

 星川第二小学校。沙奈絵が卒業してからほどなくして、星川第二小学校は廃校になった。それを、沙奈絵が知ったのは、かなりあとのことだった。そもそも、星川第二小学校の存在自体が、極度に薄められた記憶として、沙奈絵の心の中では消えかかっていたのだ。

 いや、そうではない。本当は、違うのだ。それは、自然と薄れていくような記憶ではなく、沙奈絵の脳の一部が倦んだ皮膚を修復するように、かさぶたを被せ、能動的に封じ込めたいった記憶に違いなかった。意識の上にのぼらせないように。無理やりにかさぶたをはがそうとすれば、痛みの信号を強烈に発し、抵抗した。

 心の、潜在的な防御機構。人間は、あまりに恐ろしい体験をすると、記憶を抑圧するようになる。抑圧したトラウマが、沙奈絵の心の奥底には眠っている。しかし、押し込め、抑圧したそれらは、決して消えることなどない。いつしか、マグマのような強烈な力となって、噴出する時期を窺っていたのではないか。心理学を齧った程度の沙奈絵の自己分析では、その程度の考察が限界だった。

 「そこで、その・・・・・・健一君は、用務員室に閉じ込められたらしいの」

 チクリ、と頭皮に針を突き刺されたような痛みを感じ、沙奈絵は悲鳴を上げそうになった。早紀の震えるような声が、波を打って、頭の中で反響していた。ふいに、目の前が真っ白になり、その空白に黒い影のような男が立ちふさがった。

 呼吸が荒く、激しくなる。怖い、怖い、いや、助けて。黒い影から逃げるように沙奈絵が走っている。小学生の沙奈絵だ。空白が、ぼんやりと形を取り始める。星川第二小学校だった。

 かさぶたが一枚、剥がれ落ち、沙奈絵の眼前に過去の幻影を映し出していた。幻影は、ほんの一瞬だったのかもしれない。それでも、沙奈絵にははっきりと見えたのだ。星川第二小学校の校舎のすみずみまでもが、くっきりと、色鮮やかな油絵のように。それから、絵はぐにゃりと動き出し、まるで早回しのように、校舎の外壁がひび割れ黒ずんでいった。そして、はっきりと、聞こえた。ひび割れの奥深くから、

野太く漏れ出る声が。

 「さなえちゃん・・・・・・どうして?」

 絵が流れ去った瞬間、目の前に沙奈絵を凝視している早紀の顔があった。それは、まるで、鬼婆のように恐怖に満ち満ちた顔に思え、沙奈絵は、またも悲鳴を上げそうになった。

 「沙奈絵ちゃん、大丈夫?」

 早紀の表情から、鬼面の影が消え、元の表情に戻っていたが、さきほどまでの異様な顔との落差が沙奈絵の現実感をひどく危ういものにさせていた。

 頭の中で、野太く遠く響く声が、いまや現実以上の重みをもって、沙奈絵の心を引き裂こうとしていた。

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