二
健一の様子が明らかにおかしいと沙奈絵が気づいたのは、その夜の出来事がきっかけだった。その兆候は、すでにあった。健一が、日曜日に、友達の良治たちとともに、どこかへでかけ、帰ってきたときから、何か様子が変だとは思っていた。
どこへ行ったか尋ねても、健一はなぜか、答えようとしない。奇妙に歪んだ表情は、どこか大人びていて、健一らしさが感じられなかった。見知らぬ他人のようなその表情に、沙奈絵は、言い知れぬ不安を覚えた。忘れようとしていた嫌な記憶が、ふいに意識の表舞台に躍り出てくるかのような漠とした恐怖。
その、嫌な記憶が、果たして何なのかということが分からないということが、沙奈絵をますます不安にさせた。
翌日、友達の何人かに支えられるようにして帰ってきた健一は、げっそりと憔悴した老人のような顔をしていた。友達たちと、いくらか言葉のやりとりをして別れた健一は、家へ上がると、すぐに部屋に閉じこもってしまった。
沙奈絵が、声をかけても、大丈夫の一点張りで、夕食の支度ができると、やっと階下に下りてきた。その夜の、健一の食欲は異常だった。いつもなら、おかわりをしても、茶碗一杯もいかない程度なのに、大盛で茶碗三杯ぶんのおかわりをしたのだ。それでも、まだ足りないらしく、不服そうな顔をしていた。
何かが、おかしい。沙奈絵のその違和感は、日を追うごとに増していき、穏やかだった日常に楔が打ち込まれたかのようだった。それは、健一だけではなく、自分自身の何かが壊れつつある感覚でもあり、地下の奥深くに押し込めていた何かが、穿たれた亀裂の隙間から、浮上してくるかのようでもあった。
自分自身が取り乱してしまったあの夜から、その何かが始まっていたのだろうか。沙奈絵の心の隙間に、擦り寄るように忍び込んできた、あの沙奈絵を呼ぶ声は、一体誰のものだったのか? 疑念が渦を巻き、沙奈絵はその、心理的圧迫感に窒息感めいた息苦しさを感じる。
逃げたい。そんな気持ちが、心に沸き起こってくる。そうして、ふいに、ずっと逃げてきたんじゃないの、と自分を責め立てるような自分の声が聞こえてくる。
何から? 誰から?
だが、その声は、答えることはない。声は、やがて、次第に沈んでいき、低い不気味な男の声へと、変わる。その声は、囁くように言うのだ。
さなえちゃん、と。
なかなか眠りにつくことができず、沙奈絵はベッドから抜け出し、電灯をつけた。時計を見ると、すでに真夜中過ぎだった。どうやら、うつらうつらとしながら、数時間が過ぎていたようだ。まわりの、あまりの静けさに、沙奈絵は小刻みに揺れるように、身震いした。音が消えてしまったのかと錯覚するほどの無音は、その無音自体が、沙奈絵の耳朶の中で響き渡るようだった。
空調は効いているので、寝苦しいというわけでもなかったが、喉はなぜか、からからに乾いていた。水分を補給する必要があった。寝室の扉を開けて、階段を降り、キッチンへとむかう。
明かりをつけると、冷蔵庫の低く唸る音が、無音の隙間に入り込んでくる。中古の2ドアの冷蔵庫を開けて、なにか、喉を潤す飲み物でもないかと物色を始めたそのときだった。背後に、気配を感じた。黒い巨大な影が、沙奈絵の背中に覆いかぶさるように迫っている。アマゾンの暗闇で、獲物を狙う獣のように――。
そんな想像が、ほとんど自動的に沙奈絵の心を占拠してしまい、沙奈絵は金縛りにあったように動けなくなってしまった。スポーツ飲料を握ろうとしていた右手が、宙ぶらりんになり、ぶるぶると震えていた。
誰なの? 声にならない声で、沙奈絵は背後の気配へ問いかけていた。返事は期待していなかったが、わずかにくぐもった声が、聞こえた気がした。
さなえちゃん。
耳の錯覚かと思ったそのすぐ後に、確かに、沙奈絵の名前を呼ぶ声が聞こえた。
さなえちゃん。
それは、はるか昔に聞いた懐かしいような、甘い声だった。何度も何度も聞いたようでいて、決して思い出せなかった、いや、思い出さなかった声。
その声の主を思い出そうと記憶を巡らせたとたん、頭の中が黒いテープでぐるぐる巻きにされたような、強い圧迫感を感じた。それは、一種の恐怖だった。
沙奈絵の脳の中へ、突き伸ばされてくる、震える手。震える声。幻覚のように、眼前を過る映像。
いま、振り返れば、その手が現実のものとして、迫ってくるような気がして、沙奈絵の心臓は、早鐘を打った。暗闇の中から、伸びてくる手。
いや、いや・・・・・・。
こないで。
声をふり絞って叫ぼうとするが、呻き声にも似た擦れ声が出ただけだった。
一体、何を怖れているというの? 自分の妄想を背後へと、投影しているだけに決まっている。でも、どうして、そんな手の映像が? 腕の先の顔の主は、暗闇に埋もれて見えない。広げられた手が、沙奈絵につかみかかるように――。
と、そのとき、沙奈絵の背中の中心を、何かが触った。沙奈絵は、ひっと小さく悲鳴を上げて、身体を弓なりに反らして、硬直した。虫が、背筋を這い上るような悪寒を感じ、とうとう、我慢がならなくなった沙奈絵は、二度、三度と叫び声を上げた。
そして、その勢いで、背後を振り返った。
そこにいたのは、健一だった。青白い顔をした健一が、ただ、その目だけは爛々と輝かせて、沙奈絵を見上げていたのだ。沙奈絵は、へなへなと、その場に崩れ落ち、茫然とした面持ちで健一を見つめた。
心臓の鼓動が、激しい。胸を打つように、暴れまわり、沙奈絵はパニックに陥りそうになる。
「健一・・・・・・どうしたの、一体?」
沙奈絵は、仁王たちするように、突っ立っている健一に尋ねた。自分の子供への問いかけだというのに、沙奈絵の声は、微妙に震えていた。いまにも、健一が襲ってくるのではないかというような、いいようのない不安に襲われ、沙奈絵は、すくんだように動けなくなってしまった。
「大丈夫だから、さなえちゃんは、守ってあげるから」
「何を・・・・・・言っているの、健一?」
沙奈絵の体全身が、ぞわぞわと粟立った。この子は、一体、どうしてしまったのか? 健一が、沙奈絵ちゃんなどと呼ぶことは、いままで一度もあったためしがない。
「健一? あなた、健一なのよね?」
「そうだよ、母さん。母さんが、一人で、階段を下りていくのが見えたから。だから、心配だったんだよ」
沙奈絵は、まじまじと、健一の顔を見つめた。どこか棒読み口調で言う健一の顔からは、さきほどまでの異様なオーラが消え、機械仕掛けの人形のような生気のなさが窺えた。
「健一?」
沙奈絵は、健一の肩を掴み、両手で揺すった。健一の目が、とろんとして、心ここにあらずというった風だ。
「ねえ、健一ったら」
沙奈絵の再三にわたる呼びかけで、ようやく意識がはっきりしてきたのか、普段の健一らしき表情が、垣間見れた。しかし、それもほんのわずかのことで、すぐにもとの模糊とした表情へと戻ってしまう。
とにかく、健一を寝室まで連れていき、なんとか寝かしつけると、沙奈絵は深くため息を吐いた。
沙奈絵の不安は、ますます募るばかりで、解決の糸口が見えない。一体、何が起きているのか、まるで分からないのだ。目の前にいる子供が、自分の子供だとは思えない。そのことが、沙奈絵に強い危機感を生じさせる。とても自分一人の手には負えない何かが、音もなく進行していくような気がして、沙奈絵は、気が狂うような焦燥感に怯えていた。
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