三章

 無数の虫が、彼の体を這いずっては上り、黒ずみ汚れ切った皮膚を食い破って、彼の身体へと侵入しようとする。その度に、彼は、大量の虫を鷲掴みにして、口の中に放り込んだ。硬い殻ががりがりと砕け、腔内の粘膜を傷つけ、口の端から涎とともに、血がだらだらと零れ落ちたが、彼は全く気にしなかった。

 虫が大きいのか、小さいのか、彼の朦朧とした頭では認識できなかった。もしかして、巨大な一匹の甲虫だったのかもしれない。空腹のあまり、眩暈がして、視界が何重にもぶれて見えた。

 自分がどこかの廃村に置いてけぼりにされたのだと、彼が悟ったのは、夜がきて日が昇り、また夜がきて、日が昇り、それが何回か繰り返された後だった。

 鼠がそばを通り過ぎれば、彼は、素早い動作でそいつらを叩き潰し、食料とした。逃げられてしまうときもあったが、たいていは、ギャッと断末魔の悲鳴を上げこん棒の餌食となった。鼠は、貴重なタンパク源だった。そうやって、生き延びるたびに、世界への憎悪が積み重なり、支配と力への欲望が増大した。まともな自我が芽生える前に、彼の心はただただ暗く染まっていった。

 いつからだろう、自分の内側に、何かが住み始めたような気がした。そいつは、まるで、欲望の限りを尽くせと言わんばかりに、獲物を求めた。どぶ川で食い物を漁った。農家の家から、食料を奪うこともあった。

 ある日、腐りかけた鼠の肉を喰らった後に、激しい熱に冒され、死の淵を彷徨った。昏睡状態に陥り、目覚めた時には、ある施設のベッドの上に寝かされていた。

 それが、幼少の頃の記憶の一場面だ。


 施設に入ってからの彼は、ただただ、孤独に過ごした。誰とも交わらず、しゃべることもなく、いつも一人で憎悪の視線を周りに浴びせかけていた。だから、職員以外は、誰も彼に近寄る者はいなかった。その数少ない職員ですら、彼のことを毛嫌いしているようだった。それで良かった。俺は、お前らのようなひ弱な存在とは違うのだ。いまに、とてつもない力を手に入れて、周りの人間どもを服従させる。そんな、漠然とした権力欲が、彼の心の中で育っていった。

 学校に通うようになってからも、彼の態度は、変わらなかった。そんな不遜な彼の態度が、上級生の目に留まり、彼はひどいいじめを受けるようになったが、たいして苦にもならなかった。殴られたり、煙草の吸殻を押し付けられたり、そんな苦痛は、彼が生きてきたそれまでの辛苦とは比較にならない。

 ある日、偉そうに威張っているそいつらに無性に腹が立って、彼は、隠し持っていたナイフで上級生二人をめった刺しにした。地面に這いつくばって、信じられないといった風な目で見上げる二人の顔が、次第に恐怖に引きつり、紅潮し、いまにも泣きそうな顔になり、彼に許しを乞うた。殺してやろうかと思ったが、やめておいた。彼は、その傷害事件がきっかけとなり、学校を退学となった。

 それから、成人になるまで、彼は、施設でひっそりと暮らし、その後、都営の住宅で一人暮らしをするようになった。工場で日銭を稼ぐようになり、日々の灰色の暮らしの中、しかし、彼の心の奥底には、いつも彼を導くようにして、あれがいた。彼の心の中に住み始めた恐ろしい存在。けれど、彼にとっては、決してそれは、恐ろしい存在ではなく、むしろ崇拝する存在だった。

 捧げものを――。

 圧倒的な力を得るために。

 捧げものを見つけるために、彼は、澄む場所を転々とした。 

 捧げものを。いつしか、彼は、そんな狂気に取りつかれていく自分に、酔いしれていた。

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