退屈な授業は、時間の感覚を狂わせるほど緩慢で、永遠に続くかと思われるほどだった。理科の教師の口調は、いつもテンポがずれていて、めちゃくちゃに散らばったブロックのように、意味をなさない言葉として、健一の頭の中を無理やり叩いてくる。

 がちゃがちゃがちゃ。ブロックが、意識の底の方で、くっつきあって、蠢めきあっている。ブロックは、やがて、溶解し妙な黒い塊のようなものになり、タールのようにどろどろと流れ始める。いつの間に、健一は、そのタールの流れに飲み込まれ、溺れそうになっている。苦しさに、呻き声を上げ、なんとかその白昼夢から逃れようとする。

 授業の終わりを告げるベルが鳴り、健一の意識は、やっと現実の世界へと戻ってきた。ぼんやりと窓の外へと視線を向ける。雨。今日は、朝からずっと、雨が降っている。

 雨、大粒の雨。今度は、雨の音が、健一の頭の中を叩き始める。どんどんどん。いや、それは、雨の音ではなかった。扉を叩く音だ。良治が、扉を叩いているのだ。

 窓の外に、突如として、なにやら黒いものがどさりと落ちてきた。上から落ちてきたにも関わらず、それは、水平移動するように窓へと向かって突進してくる。べちゃりと巨大な顔が、窓に衝突し潰れて弾け飛んだ。顔は、雨水とともに、溶けて流れていく。

 健一は、悲鳴を上げた。恐怖からではない。頭の中に、太いネジを詰め込まれたかのような痛みを感じたのだ。

 良治たちがやってきて、騒いでいた。

 なにを、騒いでいやがる。健一は、無性に腹が立ち、ぶるぶると体を震わせた。

 頭が痛い。ぎりぎりと締め付けられるように。健一は、めくらめっぽうに腕を振り始めた。目の前で、無数の蠅がぶんぶんと飛んでいる気がする。巨大で、赤黒く肥え太った蠅ども。そいつらがノイズの大爆音をまき散らしながら、健一の方へと迫ってくる。健一は、必死になって蠅の群れに、拳を叩き込む。疲労感。とってつもない、疲労感が健一を襲う。

 そうして、いつの間に、健一は、満に羽交い絞めにされていた。

 「よせ、健一、どうしたんだ?」

 目の前に、良治の呆気にとられたような顔があった。

 「おまえ・・・・・・本当に、健一か?」

 良治は、健一に殴られた頬を押さえながら、茫然とした顔のまま呟いていた。その良治の顔が、次第に変形し始めて、鬼の形相を呈し始めた。違う、これは、良治じゃない。健一は、そこから、逃げようとした。良治が、いまにも襲ってきそうな雰囲気だったから。いつの間に、蠅どもは良治になったんだ?

 いや、違う。これは、良治ではない。違う人間だ。健一は、混乱した頭で目の前の恐ろしい男を眺めた。そいつは、手になにやら持っている。

 瓶? 瓶の中には、何か液体らしきものが入っている。いまにも、ぶくぶくと泡立ちそうなその液体を、健一は、怯えた表情で見つめた。

 おまえがコロシタ

 何だって?

 ユルサナイ

 もはや、誰だか分からない男の目が、爛々と赤く燃えていた。

 こいつは、狂っている。

 逃げなければ。そう思った矢先に、瓶の中の液体が、スローモーションのように、健一の顔めがけて弧を描く。強烈な痛みと熱が、瞬時に襲ってきて、健一の意識はそのまま途切れた。


 意識が、切れて、また繋がって、その繰り返しのような時間がずっと流れていた。夢と現実を行き来しているのか、ずっと夢の中にいるのか、健一には分からなかった。

 たぶん、ここは、学校の保健室だろう。保健室のベッドで寝かされているのだ。これも、夢の中なのか、それとも現実なのか、健一には、やはり分からない。誰もいない。声を出そうとしても、声が出ない。なら、やはり、これは、夢なのだろうか。

 「健一君。起きた?」

 誰もいないと思ったのは、錯覚だったのか、誰かの声がすぐそばから聞こえてきた。ベッドのわきの椅子に、見覚えのある女の子が座っていた。それが、一体、誰なのかすぐには思い出せなかった。

 「良治君たちも、もうすぐ来ると思うよ」

 「ああ、りりちゃんか・・・・・・」

 どうして、すぐに思い出せなかったのだろう?

 「なんか、昨日から、ずっとおかしいよね、健一君」

 健一は、凛々子の澄ましたような顔を見つめた。自分でも自覚していた。凛々子に、直截的にそう言われてみて、やはり、自分はどこかおかしくなってしまったのだと、悟った。しかし、何がどうおかしくなっているのか、自分では判断できなかった。

 心そのものが、分解して壊れていくような、得体のしれない不安感に襲われ、健一は言葉を詰まらせた。

 「でも、あたしも同じ。ずっと、心ここにあらずみたいな感じで。記憶が、ところどころ途切れているし・・・・・・」

 凛々子は、いまにも泣きそうな表情で、顔を俯かせた。そんな、凛々子を見ても、彼女を慰めてやれるだけの余裕は、健一には全くなかった。昨日から今日にかけて、意識を失ったのが、これで何度目だろう?

 凛々子と同じで、健一の記憶も切れ切れのテープのように、繋がりを欠いていた。

 「あんなところ、行かなければよかった」

 凛々子が、小声で言った。

 あんなところ—―

 凛々子の物哀しい声が、健一の頭の中で、さざ波のように広がっていく。そうして、低く響き合って、重しのようになって淀んでいく。

 そう、あんなところへ行かなければよかったのだ。そうすれば、あんなものを見ずに済んだのに。目の前に降ってくるように現れた死体の顔が、無数の蠅の群れとなって、健一の頭の中で飛び交っている。一匹一匹の蠅は、小さな牙をもっていて、健一の心を細かく切り刻んでいくかのようだ。

 何か、恐ろしいことが起こる予感がした。ふいに、母の、あの晩のことが思い出された。狼狽し、正気を失った母のあの姿。母の身に、なにか危険なことが起こるような気がした、健一はいてもたってもいられない気分になる。

 凛々子を見ると、彼女は、顔を覆ってすすり泣いていた。そのすすり泣きが、どこか異様で、健一は耳を塞いで目を閉じた。眠りの中へ逃げてしまいたかった。



     



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