これは、何の音だろう? うすぼんやりとした意識の中で、どんどんどん、と何かが叩かれるような音がずっと聞こえている。深い眠りから醒めたあとのように、健一はゆっくりと重い瞼を開いた。

 ここは・・・・・・一体・・・・・・。

 なにか、ひどく長い夢を見ていたような気がする。自分が自分じゃないような妙な感覚。健一は、ゆっくりと頭を巡らせた。そうして、やっと、少しずつ記憶が戻り始めていた。

 ここは・・・・・・そう、良治たちと廃校に肝試しにきたんだった。それから、ここは、ここは・・・・・・。

 そう、廃校の用務員室だ。健一は、うすぼんやりとした頭の中の記憶を手探りするように、手繰り寄せていく。何か、恐ろしいものを見たような気がする。意識を失う直前の映像が、ノイズにまみれた映像が鮮明になっていくように、次第に記憶のスクリーンに映し出されていく。

 鴨居にぶら下がった男の首吊り死体。そうだ。用務員室で、あそこに、男がぶら下がっていたんだ。健一は、びくっと体を震わせて、半身を起こした。それから、畳の部屋の方へとこわごわ視線を巡らせた。しかし、どうしたわけか、部屋の入り口には、何もぶらさがってはいなかったし、部屋の中も完全に無人だった。目の錯覚だったのだろうか。幻のようなもの? あれは、一体、何だったのだろう? どうして、あんなものを見たのか。

 まだ、意識のはっきりしない頭の中で、健一は怖々と男の顔を思い出そうとした。それは、健一の意識に鮮やかに刻まれたはずだったのに、それが逆に男の顔を遠景へと追いやってしまうようだった。あまりにも、近くにあるために、細部がぼやけて、遠くにあるような気もした。そもそも、男の顔は、輪郭がはっきりしていなかったのではなかったか。

 健一の記憶の中で、男の顔が、ゼリー状に崩れていく。崩れた男の顔の、内側から、健一の顔がぬっと、飛び出すように現れた。健一は、鏡の部屋の中に迷い込んだような、奇妙な感覚に囚われ、頭をぶんぶんと振った。

 息をすうっと吸い込み、気持ちを落ち着ける。いままで、ずっと、息を止めていたような妙に息苦しい感覚があった。恐ろしい体験をしたはずなのに、なぜか、恐怖感は微塵もなかった。

 自分は、もう死んでいるのではないかと、そんな妄想に取りつかれて、にやにやと笑い始めた時、背後の扉がガラガラと音を立てて開いた。開いたと思ったら、良治たちがなだれ込むように、用務員室へと入ってきた。

 「健一、大丈夫なのか? 何があった」

 良治が、しゃがみ込んでいる健一の肩を、ゆさゆさと揺すった。健一は、変な生き物でも見るような目つきで良治を見上げ、ぶつぶつと呟いた。

 「なんだって? よく聞こえないぞ」

 「やっと、きてくれたんだな。遅いじゃないか」

 「悪かったな、健一。でも、まだ、五分もたってないだろ?」

 満が、良治の背後から言った。そうだったのか。ずっと眠っていたような気がしたから、もっともっと、時間がたっているのかと思った。

 「ごめん、健一、俺のせいだ」

 目を赤く腫らした信二が、健一の前でうなだれた。

 「そんなことないさ、信二」

 健一は、優しい眼差しを信二に向けた。

 「さきちゃんはげんき?」

 「え?」

 信二が、狼狽したような表情で、健一を見返した。

 「どうして、母さんの名前を?」

 信二の問いかけに、健一は首をひねった。

 「俺、何か言ったか?」

 健一は、自分がいましがた言った言葉を、よく覚えていなかった。

 「いま、さきちゃんって・・・・・・」

 どこか、凍り付いたような空気が、辺りを包んでいた。長い沈黙の間を、良治の言葉が砕いた。

 「みんな、帰るぞ。とにかく、うだうだしてる場合じゃない。早くここを出るぞ」

 その良治の言葉で、砕けた空気は緊張に変わった。まず、満が行動を起こした。しゃがみ込んでいる健一の手を引き、立ち上がらせると、そのまま腕を引き、健一を用務員室の外へと連れ出した。

 急に遠くから、みーんみーんと蝉の鳴く声が聞こえ、健一は、あー蝉が鳴いてるな、と思った。蝉の声は、何の現実感もなく、エンドレスに繰り返される電子音のように、健一の頭の中で再生されていく。

 「行こう、みんな」

 満の言葉で、肝試しの退避行が始まった。校舎の中を彷徨うようように、隊列を組んで歩いていく。みな、息を詰めるように、真剣で怖い表情をしている。それが、なんだがおかしくなって、健一は、唐突に高笑いをした。ぎょっとした表情で、みなが健一を見返した。

 「おい、大丈夫か、健一?」

 良治が、健一の肩を揺すって言った。

 大丈夫か、だって? 健一は、にんまりと笑って、良治を睨んだ。凛々子が、突然に金切り声を上げた。

 「嫌、もう嫌、早く帰りたい」

 ぎし、ぎし、と誰も歩いていないのに、廊下の奥の方から、音がした。満が、はっとした表情で音がした方へと視線を向ける。

 「早く、行こう、みんな」

 音に追い立てられるように、健一たちは、校舎の入り口を目指した。ようやく校舎の入り口までたどり着いたときには、みな、脱水症状を起こした老人のように、疲弊しきっていた。健一を除いては。

 誰かが、ずっと、健一に刺すような視線を向けている気がする。校舎のずっと、奥から。あの用務員室から。急速に、強い眠気が襲ってくる。健一は、いまにも倒れ込みそうなほどの眠気に耐えながら、やっとの思いで、校舎の外へ出た。全員、無事だった。

 さきほどまでは、晴天だった空は、いまは灰色がかった雲に覆われ、太陽も隠れて見えなかった。まるで、空が校舎を圧し潰さんと降りてきそうで、健一は脅迫的な圧迫感を感じた。ずっしりと重く、じょじょに、健一の心を蝕んでいく。

 灰色の塊が、さらにさらに降りてきて、頭を締め付ける。眠気は、激しい頭痛に変わり、健一は絶叫した。それからまた、意識を失っていた。


   

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