二
赤さびた門は、特に錠などもかけられていなかったので、意外と簡単に開くことができた。めりめりと、分厚いガラスを砕くような音がして、健一は一瞬、どきっとした。いつの間にか、蝉の鳴き声は、やんでいて、門の車輪が地面を踏むめりめりという音だけが、断続的に空気を震わせていた。
「なあ、もうやめようよ。なんだか俺、気分が悪いんだ」
健一の言葉に、良治は足を止め、こちらを振り返った。
「ここまで来たんだから、人体模型も見ずに帰れるかよ。なあ、満」
「人体模型とは、ぞっとしないな。そんなもの、残ってるのかな?」
満は、いかにも楽しそうに言った。幽霊が出るなど、はなから信じていないような様子だった。もちろん、健一だって、幽霊が出るなどとは思っていない。信二が見たものも幽霊などではなく、幽霊らしく見える男性だったに違いない。それでも、知的な信二が、もしかして幽霊の存在を信じているのではないかと思うと、幽霊というものが存在してもおかしくはないように思えてしまう。
ぶるっと体を震わせ、健一は信二の方を見た。信二は、せわしなく眼鏡のつるを指先でいじっていた。顔は、平静を装っているが、信二が相当に緊張していることは明らかだった。小ぶりな手帳をポケットから出して、ぱらぱらやっては、何か考え込むような仕草で宙を睨んでいる。
そういえば、信二には、メモ魔というあだ名もあるのだった。メモ魔の信二が、手帳に何を書き込んであるのかは知らないが、そんな信二にはお構いなしに、良治と満は、すでに、校庭内に入っていた。
凛々子もあとに続いて、門を通り過ぎる。まるで、校舎に引き寄せられていくかのように、すうっと。
残された健一と信二も仕方なくといった風に、校庭内に入った。門を越えた瞬間に、ぞわぞわと肌が粟立つのを、健一は感じた。まるで、巨大な生物の体内に取り込まれたような妙な感覚を覚えた。もう二度と、この場所から出られなくなるんじゃないかという強い不安感が急激に襲ってきて、健一は、パニックに陥りそうになる。心臓が、急にドキドキと高鳴り、息も苦しくなってくる。
なんともいえない、嫌な気分だった。汗が肌着に吸収され冷たい。陽射しが強いのに、寒気を覚える。帰りたい。なのに、不思議と体がどんどん中へと引きずり込まれていくような気がする。南門を入ってすぐの駐輪場から、干からびた皮膚のような運動場が広がっていた。その右側に四角い校舎が、いにしえの建物のような趣で建っている。巨人が小人を睥睨するかのように。
「りょうじ! みつる!」
健一は、思わず叫んでいた。身の危険が迫っているような切羽詰まった感情が沸き起こる。良治と満は、すでに校舎の近くにまで達していた。健一の呼びかけに、良治が立ち止まり、振り返った。
なんだよおお、けんいちいいい――
良治の声が、低く、間延びして聞こえた。満と凛々子も振り返り、健一を見返している。三人揃って、にやにやとした表情を浮かべて。まるで、三途の川の向こうから手招きしている死者のようだ、と健一は思った。
「何してんだ。早く来いよ、健一!」
良治が、怒鳴った。仕方なく、健一は信二とともに、校舎の入り口まで歩いていく。張り出し屋根の下は、太陽の光が遮られ、やけに薄暗かった。打ち捨てられた建物特有の空漠とした寂しさが、辺りを包み込むように漂っている。どこか胸を締め付けられるような、心臓を冷たい手で掴まれるような、ひんやりとした痛みを感じて、健一は、またぶるぶると身震いした。
校舎の入り口のガラスの扉は、すべて閉じられていて、入れそうになかった。ガラス扉の表面は、埃が膜のように被さり、中はよく見えなかった。良治が、そのうちの一つの扉をがたがたやっているが、鍵がかかっているのだろう、扉は全く開かなかった。良治が揺すった振動のせいで、付着した埃の一部が、さらさらと零れ落ちるように剥がれた。扉は、部外者の侵入をかたくなに拒絶するように、全く開きそうにない。健一は、どこか安堵した気分で、その光景を眺めていた。
「くそっ、こいつびくともしねえや」
こうなれば、さすがの良治もあきらめざる得ないだろう。帰れる。そう思った矢先だった。かちゃりと、音が鳴った。それは、聞き取れるか取れないか程の小さな音だったが、健一は確かにその音を聞いた。そして、その音を聞いたとたんに、その音が何の音なのかを直感的に悟っていた。
鍵が開けられる音――。そんなはずはないのに、中には誰もいないはずなのに、内側から、鍵が開けられたのだ。背中に何か、冷たいものが走り抜けていった。キーンという耳鳴りのような高い音が、耳の奥でなり始めた。誰も、何もしゃべらなかった。いますぐにでも走って逃げ帰りたかったが、体が硬直したように固まっていた。良治と満が顔を見合わせた。二人も、その音を聞いたらしかった。
良治が、今度は恐る恐るといった風に、扉を横に引いた。ガラス扉は、何の抵抗もなくするすると開かれた。わずかに太陽の光が差し込む校舎内に、木製の下駄箱が並んで見えた。そのずっと奥から、何者かが、おいでおいでをしているような気がした。健一は、催眠術にかかったように、じっと奥の方へと視線を向けた。
五人はしばらく、その場に立ち尽くしていた。良治ですら、どうするか決めかねているようだった。
だから、まず、健一が動いた。中へと一歩。一番最初に。
「どうしたんだよ、良治。やめるんなら、いまのうちじゃないか?」
自分がなぜ、そんな言葉を発したのか分からぬままに、健一は、怖気づいたように立ち尽くす三人に、笑いかけていた。
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