二章

 夏真っ盛りだった。雲の欠片一つない空からは、レーザービームのように強い日差しが降り注ぎ、肌に痛いほどだった。健一を含め、五人はピクニックでもいくような気分で、ある場所へと向かっていた。

 ——星川第二小学校。

 健一は、背後ではしゃいでいる良治と満をしり目に深いため息を吐いた。雨が降れば、という健一の願いは虚しく潰え、空は憎々しいほどに晴れ渡っている。

 良治が、腰に巻いた太いベルトから、何やら抜き出し、天に向かって掲げるように上げてみせた。

 「こいつ、使えるかもしれないと思って、持ってきたぜ。まあ、もし本当に化け物幽霊が現れたら、これでやっちまうから、安心していいぜ」

 まるで、巨大な十字架のような玩具の剣だった。幽霊にそんなものが通用するはずがないだろ、という突っ込みを頭の中で喚き散らし、健一は、わずかに見えてきた星川第二小学校の校舎を見て、身震いした。

 良治は、祈祷師のお祓いよろしく、十字剣を右に左に振っている。はなから、幽霊など出るとは、思っていないのだろう。いい気なもんだ。もちろん、健一だって、幽霊なんかが現れるとは思っていない。けれども、信二が嘘をついたとも思えない。実際に、信二は、幽霊らしきものを見たに違いないのだ。本当に、幽霊だったら? それは、あの晩の母親の豹変に何か、関係することなのだろうか。母が、小学項を卒業してから、もうかなりの年月が経っている。

 もしかして、母は、幽霊のことを知っているのだろうか。ふいに、そんな疑念が健一の頭にもたげてくる。

 それにしても、妙に静かだった。これほど快晴だというのに、周囲には人影がなく、廃校へと続く道を歩いているのは、健一たちだけだった。

 蝉の泣き声以外、音がなく、何か別の世界に迷い込んでしまったような気分になる。じっとりと、汗が肌に滲んでくる。どくどくと、自分の鼓動音が聞こえる。蝉の鳴き声が、突然に、ぱたりと止んだ。

 信二がリュックから、ごそごそと、何かを取り出した。ノート、いや、手帳のようだった。それをぱらぱらと、めくっている。小学生の癖に、やることが、いちいち大人びている。その一挙手一投足が、真面目な大学生のように見えて、健一はなぜだか、少しだけ緊張が解ける思いだった。

 「何、見てんのさ?」

 健一が聞くと、信二は、ああと小さく声を発したきり、黙ってしまった。その沈黙に、耐えかねて、健一は怒ったように言った。

 「どうしたんだよ」

 信二が、妙に虚ろな視線を、前方に向けた。良治と満、それから凛々子が信二のところに寄ってきた。満は、涼しげな顔をしているが、良治の顔はどこか赤みを帯びていた。

 「あの日のことを、記録しておいたんだけどさ。たしか、ほら、そこの路地あるだろ。あそこから、急に出てきたんだよ、そいつが。体が半透明で足がついていなかった。だけど、顔ははっきりと見えたんだ。瞼が溶けたようになっていて、目が潰れているようだった。皮膚は、ドロドロに溶けたゼリーみたいだった」

 皆の視線が一斉に、その路地に向けられた。緊張で、体が硬くなる。路地の隣には、全く手入れがされていないのか、草木が野放図に生い茂った小さな神社があった。神社に入る石段には、びっしりと苔が張り付いていた。

 良治が、手に持った剣を勇者よろしく構え、奇声を発した。時間が止まったような緊張の中、しかし、路地からは、なにも現れなかった。

 良治の額から、汗が滴り落ちた。ぎらつくような太陽に照らされて、健一の体も熱で、火照った。星川第二小学校まで続く路面が太陽の直射を受け、陽炎を立ち昇らせている。空気が歪み一瞬、健一は、激しい眩暈に襲われた。目の前に、焼けただれた男の顔が、垣間見えたような気がした。

 「ほんとに見たのかよ、信二?」

 良治が、玩具の大剣を下ろし、信二を睨んだ。問われた信二は、なおも路地の奥へと視線を送っている。

 「本番は、これからだろ? そろそろ行こうぜ」

 満が、廃校を指さす。

 「え、ああ」

 満のその言葉で、やっと信二は視線を戻した。

 真夏の暑さとは対照的に、間近に迫ってきたかつての小学校の残骸は、ひどく寒々しかった。路地の一方は、廃校の白い壁が神社と面するように先まで続いていた。この路地から入って、まっすぐ行くと、星川第二小学校の東門があるらしかった。

 信二が手帳をぱらぱらやって、小学校のマップを確認している。このまま道を歩いていけば、南門だ。路地からのルートは、多数決で否決された。

 結局、このまま行って、南門から当たってみることになった。

 「たぶん、門は厳重に閉められてるんじゃないかな」

 廃校とはいっても、きっと市か県が管理しているだろうから、簡単に中に入れるとは思えなかった。

 「勝手に入ったら、不法侵入じゃないか?」

 健一は、昨日、信二から聞いた覚えたての言葉を、とりあえず言ってみた。

 「怖気づいたのかよ」

 良治が、にやついた顔で、健一をこづいた。言ってみるだけ、無駄だったどころか、逆に良治を勢いづかせる結果となり、健一は深くため息を吐いた。

 それにしても、どこか良治の様子には、妙なところがあった。目が普段にもましてぎらついていて、視線がきょろきょろと落ち着かない様子だった。単に、興奮しているだけというのとは、どこか違っているような気がした。

 ふいに、健一は背後に寒気を感じ、はっとして振り向いた。いままで、一言も喋っていなかった凛々子が、うつむいてぶつくさと何か、小言で囁いていた。前髪が顔にかぶさり、表情が良く見えない。

 「え?」

 よく聞き取れなかったが、一瞬、彼女が健一の母の名前を呟いたような気がした。それも、ひどく低い声、まるで男性のようなしわがれた声で。

 「さ な え ちゃん」

 今度は、はっきりと聞き取れた。凛々子が、突然に顔をぐわんと上向けた。髪がふわりと宙に浮き上がった。充血した赤い目が、獣じみた鋭さで健一に向けられていた。いや、そんなはずはない……。彼女は、こんな目はしていない。

 健一は混乱し、回りを見回した。良治と満が、すでに廃校の南門の方へ向かって歩いていた。信二は、いまだに、手帳をぱらぱらとやっている。視線を戻すと、そこには、普段の坂下凛々子が立っていた。

 「どうしたの? 健一君」

 「え? いや、あの大丈夫なのか? りりちゃんは?」

 「大丈夫って、何が?」

 凛々子は、くすりと笑って、健一を見返した。まるで、自分がおかしくなってしまったかのような錯覚を健一は覚えた。

 あの夜の母親の取り乱した姿が、急に思い出された。

 母さんは、どうして――。

 「行こうよ、健一君、良治君たち行っちゃうよ」

 息を潜めていた虫の群れが一斉に飛び立つように、蝉が騒々しく泣き始めた。そのノイズのような泣き声が、空白の隙間を埋めるように健一の耳に侵入してくる。引き延ばされたその鳴き声は、まるで、健一の脳を水で満たしていくかのように、わんわんと鳴り響いていた。

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