メモ帳

 メモ帳を拾った。大学から一駅のカフェで三限目の講義まで時間をつぶしていたところ、テーブルの下にメモ帳が落ちているのを見つけたのだ。表紙と裏表紙をしげしげ見つめ、何の変哲もないメモ帳だ、と思った。コンビニや百円ショップに売っているであろう、リングタイプのそのメモ帳は一切の個性を放とうとしていないようだ。中身を見るのは気が引けた。どんな用途で使われていたものであれ、本人のためだけに綴られた文字だ。自分なら覗き見られることに抵抗がある。と、いうかそもそも、仕事などに使われている物ならば外部に見せてはいけない情報が書かれている可能性すらあるのだ。数秒迷った末に、表紙をめくる。中身を見れば、持ち主に届けることができるかもしれないからだ。いや、それは建前に過ぎないことは自覚していた。大抵の場合、ただのメモ帳に自身の連絡先など書くことは無いし、書かれていたとしても、その情報が持ち主本人のそれなのかを知る術はないからだ。

それでも中身に目を通し始めたのは単純にして品の無い興味からだった。他人の私的な情報を覗き見るという行為に対する好奇心に、ただ身を任せたのだ。

 一ページ目からびっしりと文字が書かれていた。一瞬、その情報量に圧倒され、文字を文字として脳が認識しなかったが、すぐにその内容が頭に入ってきた。そこに書かれていたのは日記だった。明らかに他人が見ていいものではないと分かったが、読み進める目を止めることができなかった。夢中でページをめくった。そこに書かれていたのは、恐らく自分と同い年くらいの青年の日常だった。書かれている内容自体は大したドラマもないありふれた日常だが、他人の人生の一部を、追体験しているような不思議な感覚になった。浮遊感を覚えながら青年の体を借りて友人と酒を飲み、テニスサークルで運動をし、恋に落ち、たまには勉強もした。何もしない怠惰な日もあったが、誰にでもある事だと割り切った。将来に思い悩めば親と喧嘩もし、恋人と自身の描く未来像との板挟みに苦しみ、誰かに相談するたびに都合のいい意見ばかりを聞き入れた。

 あっという間に白紙のページに到達してしまい、ぬるくなったコーヒーを飲み干す。気が付けばもうそろそろ電車に乗らねばならない時間だった。マグカップをトレイに乗せ、返却のカウンターに置く。店員に忘れ物です、と言ってメモ帳を渡してカフェを後にした。歩いて駅まで向かう途中に様々な人たちとすれ違った。駅に着いても、電車に乗っても、大学に着いても、数えきれない人を見かけた。彼らにも綴るべき物語が、そしてまだ白紙のページがあるのだ。

 帰ったら日記を付けようと思った。

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掌編小説集 むらさき @murasaki1210

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